みずうみ2023

暮らしの中でふと心が動いたことについて書いています

やわらかい物語としっかりしたエッセイ

低調な心身におうかがいをたてるようにして、そろりそろりと過ごしている日曜日。

今朝の海 風も波もなし

人に会うことに全く気が進まないけれど、昨夜は義父の誕生日だったので、夫氏と末っ子と共に義実家を訪れた。

ずっと食欲もないが、昨日はホールケーキも頑張って食べたし、おとーさんにこちらから色々話を振ってあれこれお話もした。

数分おきに同じことを何度も繰り返すおとーさん。

夫氏は聞かれたことにはちゃんと答えるけれども、あんまり進んで会話しようとはしない。

彼は毎週通っているから無理もない、私が会うのは時たまだから。

 

認知症になった今のおとーさんは、昔のおとーさんよりも私は話しやすい。

もう怖くないし、他意なく話せるから。

いや、昔から威圧されてたとかいうことではなくて、でも無防備でぼーっとしているところに、出し抜けに無神経な強い言葉を言われて胸がぎゅっとなるようなことがめっきりなくなった。

自分で会社をやってあちこち飛び回っていた頃に比べると、ずいぶん柔和になったなと思う。

それでも、こちらの顔を指差しながら話す仕草は変わらない。

 

昨日は朝からばたばたして休む暇がなかった中、自分のコンディションを考えると、私なかなかよくやったよ〜、と帰りの車でめずらしく自分で自分を誉めた。

 

今日は、友達家族と公園で子連れで会う約束だったけど、社交が無理だと思ったので、寝不足を理由に(昨夜3回目が覚めたので嘘ではない)夫氏にお願いした。

あ、今1階で電話が鳴ってる。

無理なので出ないことにする。

切れた。

昼食の支度まではまだ少しあるから、心が守られるような気持ちになる本を読もうと思う。

 

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好物の「人生相談コーナー」の中でもお気に入りのピン芸人九月さんがTwitter上でやっている「九月の読むラジオ(@kugatsu_readio)」で、こないだこんなやりとりがあった。

 

それは、「自分の頭で考えて判断することができず、SNSなどの誰かの言葉をつい盲信してしまう。世の中のことをもっと知るためには何をすればいいですか」という質問に対する回答。

これ俺の持論なんだけどね、まずは「やわらかい物語」と「しっかりしたエッセイ」に触れてほしいかも。

そういうのって、情報から心を守る毛布になるから。

むやみに心を操作されなくなるから。

むやみに「動員」されなくなるから。

言葉の多くはあなたを攻撃しにくるからね、どうか防御壁をつくってほしい。

(中略)

フィクションへのときめきとか、幅のあるものの見方を失った状態で現実にかかわる言葉ばかりを摂取するのは、とてもこわいことだから。

とげから守ってくれるものがない状態になっちゃうからね。

そしてしっかりしたエッセイ。

(中略)

「ものをこうやってみるんだな」っていうところを体感できるもの。

やわらかい物語と、しっかりしたエッセイが心を守る毛布になる。

(九月さんは「やわらかい物語」のおすすめとして、ミヒャエル・エンデなどの児童文学を、「しっかりしたエッセイ」は、永井玲衣さんや岩内章太郎さんといった哲学者が書いた文章をおすすめとして挙げていた。)

とても素敵な指針だ。

 

なんかね、自分を守るための言葉がないままに新しいものばっか手にしていくと、人って、簡単に別人みたいになっちゃうんだよ。

SNSの言葉は、誰かを別人みたいに変えちゃいたい意思のもとに、つまり「動員」したい意思のもとに紡がれてるものばかりなんだ。

だから、まずは心の防御壁をつくってくれ。

やさしい毛布をこさえてくれ。

学があろうがなかろうが、言葉が多かろうが少なかろうが、心にやさしい毛布がない人は、自分や他人を傷つけてしまうからね。

(九月の読むラジオ(@kugatsu_readio)より引用)

言葉は、音楽や映像といった他の表現方法に比べても、不完全で限定的かつ恣意的なツールだと私は思う。

でも、そんな言葉をどうしようもなく愛する者としてひとつ思うのは、書き言葉であれ、話し言葉であれ、「ほんものの言葉」「ほんとうの言葉」ってやっぱり体感として伝わるということ。

うまいとか下手とか、有名とか無名とか、分かりやすいとか難解とかを超えて、ほんとうの言葉にいつだって感動するし、正直で誠実な吐露に接すると、いつも反射的に泣いてしまう。

 

できるだけ、上っ面の寒々しい言葉ではなく、心の毛布になってくれるような実感のこもった言葉に触れていたいなと思う。