スマホ離れは、たまにうっかり見過ぎた、という時もあるけれど、まあ順調に続いている。
本を読む時間がぐっと増えて楽しい。
図書館にいく機会も増えたし、通りがかりに本屋やブックオフがあったら寄り道をするようになった。
とはいえ、スマホをはじめとしたデジタル機器に触れる時間が長いことによって、以前よりもすごく気が散りやすくなっている、集中力が短時間で切れる脳になっていることを実感する。
昔のようにはなかなかすっと本の世界に潜っていけない。
今小学校では、1年生からひとり一台タブレット端末が支給されているようだけど、あまりいいことと思えない。
タブレットは操作ひとつで画面があちこち飛び、切り替わる代物なので、タブレットが目の前にあるだけで、人は落ち着かない、気が散りやすい状態になりやすいように思う。
とりわけ私のような注意欠如系の脳の人にとっては、いろんな気になることを振り払いながら、なんとかひとつのことに集中しようと自分を叱咤しながら学習しなければならないから、無駄に疲れてしまうだろう。
末っ子が小学生になるまでに、なくなってほしいけど、難しいんだろうな。
最近良かった本。
「その後の不自由 「嵐」のあとを生きる人たち (シリーズ ケアをひらく)」

医学書院の「ケアをひらく」シリーズは、他にない視座を得られる面白いシリーズでとても好き。
上からものを言う語りを、もうあまり読みたいと思わない。
説教も教示もハウツーも求めてない。
だから「〇〇の力」とか、〇〇しなさいとかするなとか、「〇〇の方法」などと書かれた本はスルーしている。
ノンフィクションの分野では、当事者や臨床家の立ち位置から、自らの経験を率直に、ある意味答えのないままに共有してくれているような本を好んで読んでいる。
「その後の不自由」は、薬物やアルコールの依存症者の女性たちをサポートする施設「ダルク女性ハウス」の運営者であり、自らも元依存症の女性によって書かれた本。
機能不全家族に育ったり、暴力や性犯罪を受けた人たちが、どんなダメージや困難を抱えながら生きているのか、どのような歩みで人生を立て直していくのかといった、「その後の人生」がきわめて率直な語りで綴られている。
医療や支援につながってからの知見は豊富に存在するが、それらにつながるまでの期間を、被害を受けた人たちはどう生きのびているのか、当事者が実際に求めている具体的サポートとは何かを詳らかにしたものはずっと少ないと思う。
知らないことばかりで本当に勉強になった。
彼女たちのような凄まじい体験からのサバイバーはもちろん、そこまで強烈な体験はない人でも、誰もが自分には知り得ない色んな事情を抱えており、一見大丈夫そうに見えても、おのおの必死に「世の中の普通」に合わせて頑張っているんだ、ということを、この本を読みながらひりひりと思う。
誰もが生きてる時点でもうじゅうぶんに頑張っている。
私だってよくやってる。
「生きのびるための犯罪(みち)」

同じ著者による「生きのびるための犯罪(みち)」は、より十代の見えざる被害当事者に届くような語り口になっている。
仲間たちの実体験や、サバイバーの生々しい心の動きや、生きる上でどのような困難が長期的にあるか、医療者や行政などを含めて非当事者はいかに理解が及ばず、サポートを得ることが難しいか、そんな中でどこに助けを求めてどのように希望を繋げればいいか、といったより具体的な内容。
「その後の不自由」も本著も、当事者の語りは本当にきつい内容で、何度も本を閉じて休みながらでないと読み通せなかった。
こんなことが子供に起こるってことをどうしても許せない。でも現実に起こっている。
社会は、ある種の大人が子供にどれだけひどい、恥ずべき行為をしてしまうのかということを、ないことみたいに扱ってはいけない。
タイトルにもあるように、ある種の犯罪でさえ「生きのびるための道」と捉えている時点で、一般社会常識で善悪をジャッジすることには何の意味もない。
刑務所が、身の安全が守られ、健康面でも管理下に置かれる、避難所であり居場所としての選択肢のひとつと数えられるほどぎりぎりの世界線に生きている人たちには、そんな正論、何の意味もない。
「みっついっぺんになくした人を助ける仕組みはこの国にはないんだ」って、日雇いの工場の仕事へ向かう電車の中でよく考えた。
「住むところ」「家族、実家」「仕事」「お金」「健康」のうち、なくすのが二つくらいまではなんとかなる。
でもみっつ重なると、もう自分では抜け出せない。
なのに、この国にみっつ重なった人を助ける仕組みはない。
ハウスの仲間たちみたいな暴力サバイバーは「家族」「健康」をそもそも失っていることが多いのに。
「この国に生きていてはいけない人間なんだ」毎日そう思った。
「住むところのない人間には人権はないんだ」この頃何度も思った。
(「生きのびるための犯罪(みち)」より)
地震などの災害やコロナ禍によって転がり落ちるように困窮者になった人たちの多くは、「みっつ重なった人」なのだと思う。
恵まれていることは、自動ドアだ。
人は、自分が生まれながら持っているものを殊更嬉しいとか恵まれてるとか思わない。
まるでないもののように、空気のように扱ってしまう。
どんな人生にもそれぞれのしんどさや苦しみはあって、それは比べるものではないけれど、「持てる人が避けがたく持つ傲慢さ」を、忘れずにいたい。
そして、自分は大丈夫のように思っているけれど、ちっとも他人事なんかじゃない、明日は我が身ということも。