
17歳のサムが、父親とその男友達と3人で、森で3日間キャンプをする。
あらすじにすると「ただそれだけ」な映画って、良い映画である確率が高い。
本作もしかり。
余白が心地良く、心理描写は繊細でリアルで、言葉少なく、無駄なシーンがひとつもない。考え抜かれて削ぎ落とされた末の89分という短さもいい。
ひととき日常からずれて、ふっと息がしやすいような感覚、森の匂いを嗅ぎ、音を聴き、自然の中にいる心細さや怖さを身近に感じる。
良い意味でアメリカ映画らしくない、「間」を味わう作品だった。
かつて17歳の女性であった自分のことをありありと思い出していたし、同時に、今、子供に接している時の親の自分の、大人の粗雑さや身勝手さを苦しく感じながら見た。
17歳って難しいとしか言いようがない年頃だ。
サムは、ほぼ大人の身体を持っているが、その変化にまだ馴染みきってはおらず、女性の身体を持て余している。また、サムはクィアでもある。
キャンプ中に、父とその男友達の目から逃れて、森の中でこっそりタンポンを交換するシーンが何度か出てくる。
何食わぬ顔で、また合流する。
女性の体に関することは、基本的に男性の目に触れることはない。
生理は、女性にとっては当たり前のことだけど、男性にとってはまったく想像もつかないことだという隔たりが端的に描かれていて、はっとさせられる。
サムの心は、まだ子供らしさが残る。
屈託なくいられる子供時代を失っていくことへのさびしさと不安がないまぜにあり、大人からは当然庇護されるものだという甘えと信頼を持っている、それゆえに従順でもある。
自分の気持ちを言語化して人に適切に伝えることはまだうまくできず、押し出しの強い父親に何かを堂々と主張できるような強さも自信もない。
いい子(good one)でいたい。
彼女の中には、大人たちが否応なく背負っている責任や、難しい状況の中で粘り強く妥協点を見出すようなしぶとさやしたたかさも、まだない。
どれほど賢くスマートに見えたとしても、17歳は過渡期であり、圧倒的に経験値が少なく、社会的に不完全な、脆弱な存在だ。
でもだからといって、その人が浅はかで愚かということにはならない。
身体的・社会的に立派な大人であっても、他者への想像力や配慮に欠けた未熟な人はいくらでもいるのだから。
サムの父親は、サムの意向を尋ねるということを一切しない。
そんなことまるで思いつきもしないかのように、サムの意見は自然にスルーされる。
そこには悪意はないのかもしれないが、当たり前の敬意が欠けているということに、親はなかなか気付けない。
親子の関係が赤ん坊から始まっているということもあると思う。
生まれたての赤ん坊は、自力で生きることは全くできない存在だから、基本的に全部親が察して、与えて、整えてあげる。
子供はずっと一緒にいて、だんだんとそばで育っていく。
関係性における強者の側にある親が、意識的に都度都度アップデートをしなければ、幼い頃のままの関係性をずっと引きずるということが起こる。
近代の暮らしでは、少数部族社会のような通過儀礼などは存在しない(あるいは形骸化されている)から。
未成年は、時と場合に応じてしっかり子供として扱うべき存在であり、同時にあらゆる他者と同様に、人として敬意を払うべき存在である。
でも、大人が未熟だと子供との間に適切な線引きができない。
サムの父親のように、子供をどこか自分の所有物、付属物のように思い違いしてしまう親もいるし、逆に私のように子供の未熟さや不安定さに大人としてしっかり対峙できない、友達親子みたいになってしまう親もいる。
この作品は、人の中に深く内面化されたジェンダーに対する役割分担意識の持つ暴力性を丁寧に描き出している作品でもある。
17歳であっても親子であっても友達の娘であってもクィアであっても、女性として期待されることがある。
無言のうちに求められるサービスがある。
男たちは、それを自分たちが当然受け取る権利があるという前提に立っている。
(逆に、男性も、女たちから男性ゆえに期待され、当然のように求められることがある。どちらも苦しいことだ。)
ある種の人は、その人の性的指向における対象を、しばしば客体化してしまう。
つまり、意思を持った個人としてではなく、自分の欲望や行為を受け取る操作可能な対象として扱ってしまう。
それは例えば、ふとした無防備な瞬間に、父親の友人マットが、まるで気の利いたジョークのように、サムの女性性を自分のために使おうとする言葉の中に、ごくさりげない形であらわれる。
そういう暴力性に、私たちは、日常の中で出し抜けに出合う。
「Black box dairies」で、証言で私を助けてください、と頼んだ伊藤さんに刑事は、「じゃあ私と結婚してくれますか」と言った。
曖昧で、でもねっとりとしたセクシャルなニュアンスが含まれた何か。
言われた側にとってはひとつも笑えない、でも笑うことを強制されるような、『ジョーク』という形でオブラートに包まれた何か。
さっきまで人と人として会話していたはずなのに、いつの間にかずらされている。
信頼していた存在や、きっぱりと拒絶できないような立場の者から突然「そういうもの」を向けられることが、どれほど受け取る側にとって怖く、気持ちが悪く、人としての尊厳を削られるようなことか、言う側はマットのように全然分かっていないことも多い。
強制しているわけではなく、なんといっても「ちょっとした冗談」なのだから、それくらいのことと、とても軽く考えている。
通常、そういう暴力性に、私たちは慣らされていく。
「そうした冗談」には「ハ、ハ、ハ」と乾いた笑いを返し、それ以上ことを大きくしないように、言った者に恥をかかせないように注意深く受け流す術を覚える。
けれど、17歳のサムにとってそれは、これまで生きてきた子供の世界に大きなひびが入るような、とてもショックなことだった。
そう、それは本当はそれくらいのことなんかじゃない。けしてない。
機嫌良く酔っ払っているマットの肩越しに、長く映し出されるサムの愕然とした悲しみの表情が忘れがたい。
翌朝、その出来事を勇気を出して父親に訴えた時、父親は「楽しい時間」に水を差すようなことを言うな、とそれを「なかったこと」として扱おうとした。
サムは「おおかみと七匹のこやぎ」みたいに、父親のリュックのポケットに石ころを詰め込んでから、黙っていなくなる。
ようやく再会したサムに「なんで突然いなくなったのか」「とても心配したんだぞ」と父親は叱りつける。
サムがなんでいなくなったのか、やっぱり彼らには分からないのだ。
サムは雄弁な表情を浮かべて、でもただ黙っている。
くたくたにくたびれた父親は、サムに「帰り道の車の運転をしたいか?」と尋ねる。
これまでのサムは、父親の意図を察して、すすんで「自分が望んでそうしたいのだ」という返答をするような「いい子(good one)」だった。
でも、サムは「いや、しない」と端的に返す。
作品の最後の最後に、父親はようやく丁重にサムにお願いする。「申し訳ないが、車を運転してはくれないか」と。
私にとってすごく重要なことが詰まっている作品だった。
これからも何かの折に既視感をもってぶわっとイメージが蘇る、そんな作品になると思う。
2026/2/21加筆修正