みずうみ2023

暮らしの中で出会った言葉や考えの記録

不機嫌ってなんだ

娘氏がなんとか大きなケガもなく旅から無事に帰ってきて、そろそろ半月。

時差ぼけもなくなり、だいぶ日常モードに戻っている。

やはり日本の外に出てみることは、今の彼女にとっておおむね良かったことみたいだ、良かったな、と思っている。

 


勝手にしょいこんでいた重しが外れ、あらゆるジャッジから解放された状態がすごく身軽だったこと。

いろんな体型の人が自分の着たい服を堂々と楽しそうに着ている中にいて、自分を太っているとあまり思わなくなったこと。

親切な人もいれば不親切な人もいて、助けてくれない人もいるけど言えば誰かは助けてくれる。だから「助けて」って言えればいいんだと知ったこと。

兄の部屋でしばらくひとり暮らしして、100%自分の楽なように、好きなように過ごせることの自由さを発見したこと。

古いものを大切にすることは素敵だという価値観が心地良かったこと。

歩くとどの徒歩圏内にも美しい公園があって、大きな樹木があって、木陰にベンチがある。そこは誰でもただいて休んでいい場所である。それが本当に安心だったこと。

そして、一眼レフで撮り溜めた、彼女の心象風景を映し出した写真がたくさん。

 


行く前は不安そうにしていたけれど、今はだいぶ平気そうに「うん、私わりと海外でもひとりでなんとかやっていける方じゃないかな」という感じのことを言っている。

巣立ち前のヒナが、もうほとんど飛べるようになって、だいぶ飛距離を伸ばしてきたという感じのこの頃だ。

あの引きこもりからここまで来たんだなあと感慨深くもあり、寂しくもあり。

母娘でいろんな話ができる残り少ない時間を、ますます大事にしたいなと思う。

 


帰国早々、気ままなひとり暮らしからの落差もあって、夫氏がいつも通奏低音のような不機嫌を抱えていることを感じるのが、娘氏はしんどいようである。

娘氏にそのことを言われて、彼の不機嫌をあまりに日常のこととして受け止めるようになっている自分を少しやばいなと思ったりもし。

こないだ、一緒にキッチンの大掃除をしながら娘氏が不機嫌についての考察をあれこれ話していたのが面白かったのでシェアします。

 


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私さ、不機嫌になることで、「自分は正しい」と勝手に思っていたところがあったんじゃないかなって思って。

つまり「私、傷ついたんですけど」って不機嫌に言って、相手が「ごめんね」って言ったら、それによって自分の正当性を相手に突きつける形になる。

すごく抑えきれないいろんな思いと、プラス、相手をコントロールしようとする意図が入り混じって、人は不機嫌になっているんだって気がする。

 


前に、パーマカルチャーの農園にいた頃、こんなことがあったんだ。

オーナーのKさんは、今日何をするかとか、どんな作業があるかとかの事前の共有をあまりしてくれない人で。

私は準備できず振り回されるのが苦手だから、そこにずっとうっすら不快感が積もっていたんだよね。

その日も何も知らないまま、蓋を開けてみたら竹を切り出して運びまくる!みたいな超重労働で。

もうくたくた汗だくじゃん、さいあく、みたいなことになっていて。

そんなところにKさんが「どう?楽しんでるー?」みたいな感じでふらっと帰ってきたの。

 


私は「はぁ!!?⤴️まあ、はぁ⤵️」みたいなキレ気味の不機嫌な返しをして。

その時にね、Kさんはニコっと笑った顔のまま、すっと視線を逸らしてスルー、したんだよね。

その反応を受けてはっとして。

「え、自分は相手に対して何をしようとしたんだろう」ってことを考えた。

 


Kさんは私の不機嫌をまるっと拒否したんだよね。

もちろん、こういう大変な仕事を頼むんなら事前に共有はしてくれよ!という怒りもあったし、正直お前がそれをやるんか!(自分は不機嫌になるけど他人の不機嫌は受け取らねーのか)とも思った。

でも、不機嫌になる、嫌味を言う、という形でのコミュニケーションに対して、全拒否されて、びっくりした。

「あなたのその浅はかな手段に乗るつもりはないよ」と言われたみたいで、恥ずかしい気持ちにもなったんだよね。

 


自分は何をしようとしてたんだろう、ということを考えた時に、これって冷笑と似ているな、と思った。

その時点で自分の方がパワーを持とうとする行動だなって。

不機嫌な人がいると、その人にフォーカスが行くし、その人に気を使う。

その人の力が強くなる。

だから、不機嫌は場を支配しやすい。

そうすることで安心するっていう、そんな安直な暴力性でもって自分が不機嫌になっていたんだということを、その時にふわっと気付かされた。

 


だとするならば。

不機嫌に対抗する最も有効的な反応は、「スルー」なんだよね。

不機嫌な人は、影響を受ける、気を使う、落ち込むといった、何かしらの反応を期待している。

相手をコントロールしようとしてやってることだから、不機嫌な反応丸ごとを拒否することが、その人にとっての一番の梯子はずしになる。

 


不機嫌って、よく噛まずに飲み込むことに似ている。

不機嫌は、周りの人にとって消化しづらい。

不機嫌って、実はいろんな要素が入り混じっていたりする。

「あの時、あんなこと言われて嫌だったな」とか「これが悲しかったな」とか「これに傷ついたな」とか「お腹空いたな」とか「足がかゆいな」とか「トイレ行きたいな」とかが全部混ざって不機嫌になったりしている。

不機嫌な人は、それを個別化できていない。

だから、その人の代わりに周りの人がその人の不機嫌を個別化する作業をすることになる。

 


もちろん、致し方ない場合もあるんだよ。

感情を消化できない、咀嚼ができない状態にあるということが人にはあるから、全部を絶対にだめ、マナー違反だって断罪はできないんだけど。

でも、不機嫌というのは「そういう状態」だとは思っている。

不機嫌を、不機嫌という塊のままぶつけられるということは、周りの人の消化作業が大変になる、ということ。

だから少なくとも、不機嫌であるということは、そんなにオープンに良しとしていいことではない、とは思う。

 


おとーさんも、いろんな感情が混じっているんだと思う。

眠い。首が痛い。洗濯物が多すぎる。日差しが痛い。末っ子にやりたいことを妨害されて嫌だった。とか。

そんな気持ち全部を不機嫌としてアウトプットする。

彼はそれがもう癖になっちゃってるけど、そこには八つ当たり的な部分が多分に含まれてくる。

だって、私もおかーさんも末っ子ではないし、太陽ではないし、空気でもないし、おとーさんの関節でもないわけだから。

それら全部含めたものをぶっつけられるのは、やっぱり不本意なことなんだよ。

でも、彼にとっては自分の怒りを向けられる先はあなたしかいないのに、それを受け取られないことに不全感が溜まる。

じゃあ「これ」はどこにやったらいいんだよ、っていう。

 


私が自分自身の不機嫌に対する解決策としては、問題の個別化作業を自分なりに覚えていくってことだと思っている。

「あーあの時悲しかったんだなー」とか「いや、でもあの対応にはやっぱ傷ついてたわ」とか(感情を認識する)。

あとは、トイレに行きたいとか、眠いとか、お腹がすいたとかの自分の生理現象をスルーしないようにする。

その種の不機嫌を相手にぶつけてしまうのは、一番はた迷惑な話というか。

実際、水飲んだり、ご飯食べたりしたら、「あれ、そんなに悪くないかも」って気分にあっさりなったりするんだよね。

 


おとーさんが今どういう状態にあるかは、本人じゃないから私には分からないけれど、あまりにもいろんなものを咀嚼せずに不機嫌化しているから、それをぶつけられるのは困る。

相手のことを考えるっていうよりも、相手の主張の正当性のなさを探すことに意識がフォーカスしてしまう状態にある気がする。

でもそれが彼の実感なんだとは思う。

 


どうやって思いを共有できるのか、とは思っている。

でも、おとーさんに変わって欲しい、という方向性でいくと防御的にさせてしまうことにしかならないし、心を閉ざすよね。

だから、私がひとつしたいなって思っているのが、「不機嫌を受け取りません」ということ。

私自身、Kさんにされてそれだけ衝撃を受けた、「自分何してた?」ってハッとしたから。

大丈夫?とか辛い?とかの何がしかのレスポンスを期待していたけど、ガンスルーだったの。

だから、(不機嫌に対して)まずやっちゃいけないのは「心配」だろうね。

大丈夫?ごめんね何かしちゃった?とか、何かできることある?とか、ありがとうね〇〇してくれて、とか。

私は不機嫌な人がして欲しいことが分かっていたから、おとーさんに「ごめんね」「ありがとう」って言い続けてきたけど、おとーさんは全然受け取らなかった。

どれだけ言っても満足してくれない。もうお手上げの気持ち。

だからもう、これ以上は拒否。

 


結局不機嫌であることで、その人は何も満足できないんだよね。

「私悲しかったんだな」(という自分の感情の認識)にすら、呪いの三段階にすら至っていない。

不機嫌になったり、ちょっと大丈夫になったりを永遠に繰り返すだけ。

全然前に進まない。

不機嫌はマウントの取り合いみたいなところもある。

 


でも、おとーさんがここまで分かりやすい感じになってくれたおかげで、そしてフランスで全然違う価値観の人たちと出会ったことで、これまでおとーさんの見方が絶対っぽかったのが、あれ、それだけが正しいってわけじゃねえな、もっと世界はいろいろあって複雑だぞと思うようになって。

違くね?という感覚が生まれたことでなんか楽になった。

 


おとーさんがあまりにも絶望を語るから、「あーもう、絶望なんだな」っていう諦め、このままここで妄想に意識を飛ばしながら漫然と生きながらえて絶滅していく運命なんだな(笑)っていうのに近い感覚をもってしまっていたけど、本当にそうか?とようやっと芽生えてきた感覚がある。

本当に世界はそれだけか?って。

 


でね、まことに残念なことだけど、不機嫌って依存症と一緒で、周りの人が必死にその人を気遣ってサポートしようとすることは、結局不機嫌の助長にしかならないっていう事実があると思う。

私自身、不機嫌に対して心配してくれたり、なだめてくれたりおだててくれたり、要は気にしてくれるってのを、一番求めてる。

だからスルーが一番肩透かし喰らうんよね。

おかーさんはねえ、まだまだ反応になってしまっている。

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不機嫌な人と、なんでも自分のせいだと脊髄反射的に考えがちな気質って、悪い意味でめちゃくちゃ相性がいいんだなってことを、とほほな気分で聞いていた。

私は、常に不機嫌な母のもとで育ってきて、不機嫌には慣れている。

自分もたびたび不機嫌になる。

だから日常の延長って感じの受け止めで、のらりくらり不機嫌と付き合ってきた。

でも不機嫌って、確かに思うより些細なことじゃないんだよなあ。

とても苦しいことだ。

時々逃げ出したくなるほどに。

 


私は娘氏のようにはこのことについて考え抜いてはいなくって、いつも対処療法的だったと思う。

やばい、どうにかしなきゃ、という感情を起点に動いてきた。

それでも夫氏に対しては、どうもすぐ謝っては火に油みたいだぞとか、無防備に何かを私が決めたら後で何かあった時に謝り続けることになるからあまり決めない方がいいぞ、とかはさすがに気づいていて、最近は用心しているのだが、基本的には「よく分かんないけどきっと私が知らずに何かをやらかしたせいだ」って、思う。

相手が誰であれ、すっとそう思ってしまう。

私は子供の頃から察することや空気を読むことがかなり苦手で配慮が足りないから、実際やらかしてきたのだし。

でも、うまく行かなかった何もかもをまるっと不機嫌という団子にしてぶっつけられることはさすがに理不尽だし、原因探しをしてくよくよ気に病むこともねーなとは思った。

娘氏が、不機嫌という感情を丁寧に解きほぐしてくれたおかげで。

 


不機嫌である状態って、戦闘モードでマウンティング的な不機嫌である時ばかりでもなくって、自分では外側にもれていないだろうって思って、一人静かに不機嫌の沼に座り込んでるみたいな自己完結的不機嫌もあったりするわけだけど、不機嫌の感情っておおむねばれてるし、確実に相手に負担をかけている。

安易に不機嫌になることは、とても加害的なことだから、気をつけよう、とすごく思った。

 


それにしても、娘氏は、今起こっている出来事や感情などを、自分自身の心に問いかけつつ因数分解することを、いつの間にかすっかり自分のスタイルにしてしまったなあと思う。

ここは触ると痛いから避ける、ってことはもちろん彼女にもあるんだけど、「痛いから避けてるな」という自覚は持っていて、「いつまでもそのままにしてちゃ先に進めないから、そのうち時期が来たらやろう」って分かっている。

そのようにして、彼女はある程度納得がいくレベルまで考え抜いて理解することで、いろんなことを乗り越えていっている。

 


元々の性格もあるけれど、あんまり食べず、風呂も入らず、トイレ以外は自室から出てこなかった期間に、ぐっと深く思考する習慣が身についたように思う。

もしもあのまま学校に通っていたら、きっと今みたいな人にはなっていないと思う。

それこそ、自分の感情を持て余して、やることに追われて余裕なく、いつも超フキゲンな扱いづらいティーンになってたかもしれない。

 


ぼんやり思索したり、自分のペースで寝起きしたり、興味がある人に会いに出向いて行ったり、ちょっとやってみたいことをやる、みたいなことも、学校に通っていたら、まずできなかった。

両立して充実した毎日を送れる要領の良い人もどこかにはいるのだろうとは思うけど、何事もほどほどの精度でスピード重視でサクサクこなす、みたいなことが何より苦手な娘氏には、生活の大部分を受験と部活に振り向ける多忙な学校生活は、きっとタスク過多で余白が少なすぎただろうなあと思う。

 


だから学校なんて行かなくていいんだ、と安易に言いたいわけではもちろんなくて。

あっちが立てばこっちが立たずで、何の悔いもないということでもなくて。

答えがあるわけではなく、結局なるようになっていった、という以上でも以下でもない、という話。

 

 

 

私は、こうして娘氏の話に時々感想や質問を挟みながら面白く聞き、自分の歪みや思い込みにありがたく気づかせてもらったりしている。

そして、夫氏もまたそういう存在であり、似た父娘はそれぞれのやなところがすごーく見えがちになっている、笑。

間に挟まっているみたいな私は、同じ出来事に対するふたりの実感のかけ離れ感を、非常に興味深く思いながらふむふむふむと聞いている。

ただ、どちらかというと娘氏により共感を寄せがちではあるので、そのことも夫氏の不機嫌要因の一つではあるんだろう。

って、こうやってまた勝手に彼の感情の個別化をやってしまって、わたしってこれだから