みずうみ2023

暮らしの中でふと心が動いたことについて書いています

ポジティブとネガティブ

魔法使いに諭されてから数日が経った。

毎度のこと鈍い私は、草食動物が牧草を消化できるまで何度も反芻するごとく、しつこく考え続けている。

 

むしゃむしゃむしゃむしゃ。

 

そうこうするうち、いつものようにいろんな考えが少しずつ浮かび上がってくる。

考えは常にぐらぐらと揺れ動き続ける。

 

私は理解に時間がかかる上に、自分は変なんだという引け目がいつもどこかにあって、平たく言えば自己肯定感が低いので、誰の言葉もその場では基本的に大いに感心して真に受ける。

それが人を騙す言葉や借り物の言葉ではなく、真摯な言葉であるのなら。

 

でも正直に告白すると、時間が経ってから、ん?ちょっと待てよってなり、全然違う場所に着地するようなことが、実はまあまあある。

私には一貫性ってものがない。

いつもぐらぐら迷っているし、考えはころころ変わる。

 

何か本質的な〈問い〉が一旦放り込まれると、PCの電源が入るみたいに、ウィーーングルグルグル・・・と思考モードが起動する。

で、

はたと気付いたり、

矛盾を感じたり、

自分にうんざりしたり、

悲しくなったり、

一瞬世界が愛に溢れてみたり、

怒りで汗が出たり、

私の内面はしばし不安定で騒がしい状態に入る。

外から見たらただぼーっとしているだけだと思うが、人知れず結構ぐるぐる、うずうずしている。

くたびれる性分だが、少なくとも退屈はしない。

 

 

魔法使いの友だちは私に言った。

あなたがどうありたいのか、どう生きたいのか。

明るく前向きに生き、周囲に良い影響を与えるのか。

それとも愚痴を言い合って人を苦しい気持ちにさせるのか。どっちなの?

あなたはポジティブとネガティブ、どちらの意図を持って生きていくのか、と。

 

私は、「そりゃあまー明るくあった方がいいし、他人に迷惑をかけるのは良くないよね・・・」ともじもじしながら返した。

「いやあー、難しいね(てへへ)」って。

 

もうー、何の難しいことがあるの?

例えば会った人に、何か一つ優しさとか、明るいものを手渡したいって思う。

それをいつも意図するだけのことだよ。

あんまりしつこくくよくよしてると、怒るよ!

重ねてそんな風に彼女は言った。

 

おお、そうだねそうだよね。

でも、心の奥で何かが小さく引っかかって、どうにも言葉がつっかえる。

その引っかかりが何なのか、その場では私には全然分からない。

彼女の思いやりをただありがたく申し訳なく思い、ちょっと涙が出たりもし。

 

うんうん、分かった頑張るよ!

そんなノリでぶんぶんと手を振って別れた後、なぜかぐったりと疲れてしまって、しばしぽかーんと浜で寝っ転がっていた。

 

家に帰ると、夫氏がどうだったー楽しかったー?と何気なく聞いてきて。

でも、やっぱり言葉がうまく出ない。

説明するのが無性に面倒くさく、断片みたいにぽつぽつと、さわりだけをなんとか話した。

 

すると、夫氏はしばしうーーんと考え、こんなことを言った。

俺はさ、自分にネガティブな部分がたくさんあるって自覚している。

でも、それを悪いことだとはあまり思っていないんだ。

不幸で傷ついた人、弱い人や病んだ人、残念な状況にある人の気持ちが少し理解できるのは、ネガティブさのおかげだと思う。

デヴィッド・リンチは「私の精神の病を治療したら、もうこれまでのような創作はできなくなるのか?」と医者に尋ねて、「その可能性はあります」と言われると「じゃあ治らなくていいです」って治療をやめた。

ネガティブな影の部分があるからこそ感じられるアートの心というものがあり、それは少なくともリンチにとって、病を克服して一般的な意味でハッピーに生きるよりも、かけがえのない価値を持つものだった。

もちろんそれは諸刃だとは思う。

でも中学生の時にウディ・アレンの映画に感激したあの体験は、自分にとってすごく豊かで幸せなことだった。

複雑な家庭環境でつらいことも多かったけど、もし明るいばかりの自分だったら、きっとウディには出会えていなかっただろう。

 

 

そういえば私は、結婚する前はもっとポジティブ寄りの人だったなあと思う。

でも、いつも朗らかというよりは、もっと刹那的で反射的で、嫌なことに向き合うことからは逃げ、内省的ではなかった。

夫氏と家族を作り、毎日いろんなことを話し、思いやりあったり傷つけあったり、励ましあったり足の引っ張り合いもしながら暮らし、いろんな経験を経るうち、だんだんと私の中のネガティブ性は育まれ、強化されていった。

良くも悪くも。

そう改めて思う。

 

「ネガティブはポジティブよりも悪い」という前提にもとづくなら、この結婚はハズレということになるのだろう。

魔法使いの友だちには、「あなたたちはお互いに負の影響を与えあっているのだから、まずは自分から変わらなくては」と言われた。

それはまったくその通りだと思う。

 

ただ、私も夫氏のように、ネガティブを一概に悪いだけとはどうも言い切れないのだ。やなんだけど大事なものだし、自分のこじらせや譲れなさを、どこか誇りのようにさえ思っているふしがある。

 

そもそも明るくポジティブだけで生きていくっていうのは無理でしょう、人生にはどちらもあるのだから、と夫氏が言う。

光と影は、互いがなくては存在しえないもので、本来等価であるはず。

だけど、影は光に劣ると思われている。

暗い人は明るい人よりも価値の低い人と思われている。

 

パブリックな場所で明るく(朗らかでナイスで)あるということは、職責やマナーに近いものだと私は思う。

それを「人間の価値」とごっちゃにしてしまってはいけないんだと思う。

他者にいたずらに負担をかけないということは、大人として大事なことだが、一方で関わりは必ず一面的になるということがセットになっている。

本来、人には必ずポジティブとネガティブの両方がある。

誰かと深く関わろうとした時、ネガティブを避けることはできない。

 

ある種の宗教性は、身の回りを清らかに、善い心を保ち、善い行いの実践を志向する。

健やかで調和的であるために心身のバランスを取るために、人それぞれの工夫をすることは、大事なことだと思う。

だが、明るい光だけで存在を満たそうとするとなると、無理が出てくるように思う。

影をないもののとして扱ってみたところで、影は決してなくなりはしないからだ。

 

精神的なことを重要視する生き方の人と、私はわりと意気投合することが多いのだけど、どこかの地点で違和感に突き当たり、結局は距離を置き、一匹狼を貫く流れになってしまうことが多い。

これってなんなんじゃろうなとずっと思ってきた。

とても良い人たちで好きなのに、仲間になりきれないことを、普通に寂しく残念に思ってきたけれど、そこにはどうしても同調できない何かがある。

 

そのひとつにはおそらく、「影をないものとしてスルーして、明るい光だけで自らの存在を満たそうとするスタンス」があるのかなと思う。

飽くことなく花の蜜を求める蝶々のように、花から花へ、蜜を吸っては次の「ポジティブな花」へと移り飛ぶイメージ。

自分をアゲてくれるものをもっともっとと繰り返し求めて、飽くことがないという感じ。

 

私のように、体の半分は泥に浸かって生きている、という人間観の人においては、ネガティブの存在をまるっと否定されてしまうと、自分自身を否定されたような気持ちになる。

自分がここに居てはいけないような、劣ったみじめな人間のように思える。

 

魔法使いの友だちに諭されているあの時、さながら自分はダーク・シディアスに感化されてダークサイドに堕ちたダース・ベイダーで、友達はジェダイで、フォースの力で私をライトサイドに引き戻そうとしてくれている、みたいだったなあ。

だからあんなに「ポジティブで愛に溢れた」やり取りの後で、私はぐったり疲れてしまったのかもなあ。

 

 

魔法使いの友だちは、おおむねいつも機嫌が良い。

一緒にいると、こっちまで明るく引き上げられるような気持ちになれるから、いつも会うのが楽しみで。

彼女がお祓いをするみたいに、自分と自分の周囲を光で満たすよう、たゆまぬ努力や工夫をしていることを私は知っているし、そのことをとても尊敬している。

彼女はいつも基本的に、ものごとの明るい面を見て生きている。

ネガティブなものごとについて考えることにフォーカスしないよう気をつけている。

ネガティブに接すると「悪い影響を受けぬよう」、瞬時に弾き返すようにしている。

その技術もなかなか見事なものがある。

そして、彼女はポジティブな生き方のコツを、いつも出し惜しみなく愛情をもって私にシェアしてくれる。

私はとても感謝して、たくさん参考にさせてもらってきた。

 

彼女のありようをひとつも否定しない。

いつも人に好かれて、ひまわりみたいに明るくて、全部を笑い飛ばしていく彼女は、ほんとに素敵な人。

私もそういう風に生きれたらどれだけいいだろうって思う。

 

でも。

私は結局私以外になることはできない。

自分以外の誰かに無理になろうとすることは、苦しいことだ。

人にとって、一番楽ちんで幸せなのは、自分を偽らず、無理をせず、変にあれこれ画策しないでシンプルに在ることだと思う。

そして、この年になって思うことは、人にはそれぞれ、その人に適した役回りがあるということだ。

 

ポジティブとネガティブとどちらの意図をもって生きたいの?と彼女は言った。

私にとっては、その設問自体が違うのである。

そんな単純に二分化できるものでも、どちらかだけで生きていくと決めるようなものでもないと思う。

そして、ポジティブの方がネガティブより偉いというのも、私にとっては違うのである。

 

あらゆる宗教やスピリチュアルの人々は、さまざまな思想を練り上げ、規範を作ったり工夫をしたりして、ポジティブを大事にする場や共同体を作り込んでいる。

ポジティブを大切にする場はたくさんある。

だから、バランスとして、私はネガティブを大事する場がもっとあってもいいんではないかと思っている。

自分自身においても、私はポジティブと同じように、ネガティブも大事にしたい。

 

そして、これだけは声を大にして言いたい。

苦しいことや悲しいことや辛いことや怒っていることを、自分の言葉にすることは、決して愚痴なんかではない。

どんな感情も、あるものはある。

感じてはいけない感情なんてない。

気分が下がる言葉全部を、まるっと「愚痴」という言葉で貶めないほうがいいと思う。

それは誰かの口をふさぐ呪いになるし、自分自身の首も絞めることにつながる。

同じ意味合いで、「言霊」という言葉も、私はどうしても好きになれない。

 

私が実人生での人との関わりや、映画や本や、あらゆるアートや事象において思うことは、才能とか有名性とかテクニカルな部分は結局二の次で、一番面白いのは正直さだということだ。

正直はいつだって面白い、何よりも。

私自身、その考えを支えに、不器用で下手くそでも自分なりになんとか書いたり喋ったりすることを続けているし、他の誰かにおいても同様に考えている。

そして、難しいことではあるけど、なるたけ表面上の印象に左右されずに、一段深い層でものごとを見ようと心がけている。

 

その層では、つまりより本質に近い層においては、ポジティブもネガティブも等価だ。

所詮すべては概念で、結局人間はそれに負けるんだけど、でも私はできる限り、あるものをないことにはしないという姿勢を貫きたい。

どんなに気まずい、気鬱なことであっても、ないことにしてはいけんのだ、とぐっと踏みとどまるようにして思っている。

 

 

魔法使いの友だちが、彼女なりのやり方で明るく生きて周囲を明るく照らしていく。

受け入れてもらえるなら、これからも時々ご相伴にあずかりつつ、共に楽しい時間を過ごしたいと思う。

彼女を尊敬する気持ちも、関係を大事に思う気持ちも変わらない。

でも、いくら私が憧れようと、いくらこっちにおいでよと求められようと、私は彼女のようにはなれないし、私は私なりに苦労して練り上げてきたこの軌跡に愛着がある。

 

ただただ「担当」が違うんだよなー、残念!って思うだけだ。

 

 

長々考えをこねくり回してきたが、つまるところ、人にはそれぞれ「自分が心地良くいられる場所」があって、そこからずれると超気持ちが悪く、耐え難い。

人は、あちこち動き回るが、自然と川の流れのように、自分にとって心地良い場所におさまっていくのだと思う。

その場所にはどちらが正しいとか、どちらが尊いとかはない。

世間的に人気があるとかないとか、社会的に得とか損とかはもちろんある。

そこは確かに全く平等ではないんだけど、でも「一段深い層」において、長い目で見れおおむねプラマイゼロなんじゃなかろうか、という考え。

 

 

娘氏は、「ぎこちなさとか不快とか不安とかは、人間関係につきものだと思っている。それが〈あってはならない〉とはそもそも思っていないから」と言っていた。

そう思えるなら、異質な他者と共にいる機会は増えるだろうし、

魔法使いの友だちのように、ネガティブ要素に自分が侵食されぬよう弾かないといけないという思想なら、同じ思想の人と楽しく共に在る人生になる。

 

程度の差こそあれ、人には誰しも「これ以上は不快だからあなたのまんまぐいぐい来ないで」っていう許容範囲がある。

結局ほとんどの人間関係って、相手の許容範囲を想像して、尊重して、相手に合わせて半身(はんみ)で関わり合う、ということなのかなと思う。

その中で、縁が深い人とは、長い時間をかけて徐々に自分のいろんな面をちょっとずつ見せ合い、相手の異質さや合わなさも理解して受け入れ、ってことを少しずつおっかなびっくりやっていく、ってことなのかな、と。

 

そこにおいては、互いに平等に想像する、尊重するということが、とても大切になると私は思う。

だから、どちらかが一方的に「自分の方が正しいのだから当然こちらに合わせるべき」と圧をかけるのは、あえてきつい言い方をすれば、ある種の暴力なのだ。

でも、そういう暴力って社会にあふれている。

家父長制や、上司と部下や、先生と生徒や、あらゆる多数派と少数派や。

 

そういう傲慢な関係性の強要は許し難いが、でも友だちのように、そこに愛があるなら、私は気にかけてくれたことを嬉しいなありがとうってありがたく受け取る。

自分だって気が付けば自分の正しさを押し付けてるなんてことは、うんざりするほどあるし、そこはほんとーーーうにお互いさまだと思うからだ。

 

今回も、とてもためになる気付きもたくさんあったし、この思索だって、彼女なくしては生まれなかった。

自分がこれほどネガティブ大事にしたい人間だとは自覚していなかった、笑。

 

そして人は、どんなに揺るがぬように見えても、誰しも自分の生き方に確信を持っていたい。それが揺るがされれば、誰しも不快に、不安定になってしまうのものだ。

彼女を不安定にさせてしまったことを、申し訳なく思う。

そこには無意識的な、ルサンチマン的な心の動きがあったろうことを、認める。

 

 

だから今一度、私は自分に言い聞かせる。

担当が違うだけ。

それだけのことなんだよな、って。

 

 

最近ひまな時に酒を飲みつつウクレレを弾いて歌うのだけど、このところ練習していたのは、星野源の「ばらばら」。

歌詞がびっくりするくらい私の今の気持ちそのまんま。

世界は ひとつじゃない

ああ そのまま ばらばらのまま

世界は ひとつになれない

そのまま どこかに行こう

 

気が合うと見せかけて 重なり合っているだけ

本物はあなた 私はにせもの

 

世界は ひとつじゃない

ああ もとより ばらばらのまま

ぼくらは ひとつになれない

そのまま どこかに行こう

 

らーらら らららーー