みずうみ2023

暮らしの中で出会った言葉や考えの記録

甘えってなんだ

我が家の娘氏が、ブラックだった前の職場を辞めて、近所のパン屋で働き始めてもうすぐ半年になる。

パン屋さんて、いつもお店の前がいい匂いがして、香ばしいパンたちを丁寧に扱って、笑顔でお客さんと挨拶を交わして、っていう素敵ワールドを漠然と想像するわけだ が、現実はそんなほっこりしたものではない。

やること常に山積み、職人気質のオーナーからの絶え間ない効率化、スピード化を求められるハード体育会系の職場。

30代のオーナー夫妻は、共に10代から叩き上げのパン職人。

毎日夜中の3時から仕込みを始め、人生を文字通りパン作りに捧げているだけに、スタッフへの要求も高くなるのだろうなと、娘氏の話を聞いていて思う。

 

夜、ただいまと帰ってきた時の娘氏は、まるで駅伝で倒れこみながらゴールする人みたいだ。

「うおーん!ハグーー!」と、癒しを求めて3歳の弟にハグを要求し、末っ子はちょっと引き気味でしばし強引に抱っこされる、という一連の流れが半ば儀式化している。

 

ありゃー大変そうだなーと思う反面、どこで働いてもいろいろあるよねとは思うし、引きこもってた頃には想像もできないレベルで立派に社会参加してる娘氏を頼もしく、誇らしくも思う。

そんなしまらない思いで働く我が子を眺めているので、娘氏から仕事であった色々について意見を求められても、私はあんまり歯切れの良い言葉が返せない。

 

17歳の娘氏は今、日々パン屋で働きながら、学び、考え、これから先、自分がどういう場所に、物事に、人にコミットしていたいかということを模索している。

彼女の素朴で本質的な疑問に触れると、資本主義の社会の中で雇われて働くってどういうことなんだろうと、改めて考えさせられる。

私たち大人の多くは、誰かに雇われて働くことがあまりに当然の人生になってしまっていて、雇用を介した人間関係にすっかり慣らされている。

けれどそこには、根本的ないびつさのようなものが確かにある。

 

それは、ほんとうに仕方がないことなんだろうか。仕方のないこととして諦めるべきなんだろうか。

 

こないだの朝の娘氏の話。

 

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雇われて働く場所で起こっていることって、雇われる人が今できていることは常に当たり前とされて、できないことだけを指摘され続けるということなんだよね。

注意されて、努力してやっとできるようになったら、「あ、それできたんならこれもお願いね」って言われて、新たな何かをまた「できてないよね」と指摘される。

そのループがどこまでも続く。

「できた!」という段階はいつまでもやってこない。

 

そういうことが続くと、人は「わたしは全然できない人間なんだ」と思うようになっていく。

わたしも自分がどんどんそうなっていってるのを感じる。

そんな場所にどうしてみずから通い続けなきゃいけないのかなって思えてくる。

 

さくちゃん(桜林直子さん)が、『自分が本当にやりたいことを見つけるためのワーク』の中で、「自分ができていることを何から何まで全部ノートに書き出してみる」って言ってたじゃん。

あれをなぜやるかって、みんな誰かのできてないことは指摘するのに、できることは誰も言ってあげてないから、もはや自分が何かをできる人間だと思えなくなっている人が多いからなんだよね。

本当は、その人ができてることって、誰しも生きていればめちゃくちゃあるはずなのに。

今の社会ではそれらはたんに「当たり前」と扱う。

だから本人もそう思ってしまう。

 

わたしはさ、もっといろんな人が「あなたができてること」を認められる場所があった方がいいと思う。

存在を全肯定する、みたいな大げさなことではなくって、その人の話を聞いて、ここやここはよく頑張ったと思うよ、みたいなことだけをただ話す場所っていうか。

自分では見えていない、「あなたにはこういう、よくやれていることがあるよね」を言い合う場所っていうか。

 

自分に対する信頼って超崩れやすいんだけど、構築できやすいものでもある。

誰かのさりげないひとことで「そうかも」って思えてくる。

そんな大層なことをせずとも、ただ「よくやってるよ」「できてるよ」って言ってあげるだけで、自尊心が回復していくということが人にはあると思う。

 

 

今、たった15分の休憩を取ってもいいですかってシェフに言えないのはどうしてなんだろう?

多分、それを「甘え」と受け取られるって思ってるから。

ただでさえ仕事が遅いくせにって思われそうで。

「どうしても取りたければ、コーヒーブレイク取ってもらって構いません」って彼らは言う。

言い方からして休むってことに明らかに後ろ向きだし、「コーヒーブレイク」っていかにもゆったり寛ぐ的な言葉を使うけど、半日以上ぶっ続けで働いて普通に集中力が保たないから体を止める時間が欲しいだけ。

でも、理解してもらえないって思う。だから言えない。

本当は、他の人がどうとか関係なく、作業効率が下がったり体が無理なら、それは言ってもいいはずなのに。

 

「甘え」って「求めすぎ」って言葉に変換される。

職場に対して、社会に対してそれは求めすぎっていう時に「甘え」って言葉が使われる。

そこには、その人がすでにやってくれていることは加味せずに、さらに求めていく姿勢がある。

 

でも実際さ、自分の甘えに気付かされる時って、「あなた甘えてるよね」って言われた時ではないよね。

何も言われなかったり、別のことを指摘されたり、促されたりした時、

「あ、甘えてたんだ自分、動かなければ誰かがやってくれると思ってた」と思ったりする。

だから、「あなたって甘えてるよね」という指摘ではっとするとかって、まずない。

 

つまり、自分の権利を主張してんじゃねーよとか、お前の尊厳は守る気がないという意味で、人は「甘えてるよね」って相手に言っている。

甘えって、そういう呪いの言葉になってしまっている。

 

もちろん、期待に応えて好かれたい、大切にされたい、愛されたいとは思う。

でも、それだけを目標にがむしゃらに頑張れないんだよね、なんかもう。

以前はそれだけで突っ走れた。

人に褒められる、必要とされる、責任のある立場を任せられる。

そういうことをモチベーションに頑張れてたんだけど、今は確実に途中で息切れる。

体力なさすぎて無理です、みたいな。

 

どれだけ頑張ろうと、わたし自身が好かれるという感覚はなく、彼らにとって都合のいい、角のない存在になればなるほど、優しくしてくれてるって感じだった。

 

結局、わたしの尊厳を大事にする気持ちはないんだろうな、という。

そういうことに疲れてしまう。

都合のいい人になれば愛してくれる、大事にしてくれる人はいる。

あなたはこういうことをしてくれるから好き。

それって機械やんけ、って。

 

でも、雇われて仕事をしている場では、やっぱり明らかにそういうことばかりを求められる。

そのうちに、わたし自身のことを大切に思って好きになってくれる人なんて、この世にはいないんじゃないかと思えてくる。

 

この人といたらクソみたいな気分になることもある、友達とはいえ顔も見たくない時もある。

それでも、その人のことが好きという方が、わたしは人として納得ができる。

 

ほうぼくの奥田知志さんに会った時に感じたあの安心感って、「自分が都合のいい人になったら優しくしてもらえる感の薄さ」だったんだなーと思う。

 

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資本主義的には、人をできるだけ安価で多く働かせることが、儲けに直結するから、今できてることをゼロベースにして、さらに生産性をどこまでも上げていくことが「成長」であり最適解だ。

それは、正義とか正論とかじゃなくて、より多く儲けたい側の手前勝手な都合にすぎない。

 

けれども、娘氏の言う通り、人間は機械じゃない。

心と体とそれぞれ固有の事情を抱え、有限な人生の時間をなにかしらの意図をもって使う。

雇われ仕事は、その意図を叶えるためのテンポラリーな手段であり、自分自身の権利や尊厳よりも下位にあることであり、尊厳を明け渡してまで必死にやるような重要なことではないはずだ。

でも、なぜか簡単にひっくり返る。

 

仕事となったら全てを投げ打ってでも、何がなんでも責任を果たせみたいな思想を、あたかも倫理のように流布するのは、ごく控えめに言っても悪質なことだ。

仕事とその人の人生の意義が分かち難く結びついていることはよくあることだが、その人個人の事情であり、がむしゃらに仕事をするのもその人がやりたくてやっている。

人は、人生の多くの時間を割く仕事には、なんらかの意義を見出そうとするものだとは思う。

でもそれは、全員に強制していい思想ではない。

 

そこを「人として〜」みたいな語り口であえてごっちゃにすることで、多くの人が働く現場で背負わなくていい責任を背負わされ、不必要な罪悪感を持たされ、追い詰められている。

仕事となったら、途端に人は簡単に人の尊厳を踏みにじる。雑な扱いをする。

普段、人に何かを頼むとき、理由を相手に説明するのは基本のことなのに、仕事ではなぜか説明をしない人って多い。

いちいちめんどくさい、説明しなくってもいいって相手を侮っているから、説明をしない。

そういう人に説明を求めると、イラっとしたり逆ギレしたりする。

 

仮に友達に対してそんな態度だったら、あっという間に一人ぼっちになるだけ。

そんな人としてあり得ない振る舞いが、仕事だからという一言でまかり通ってしまう。

そんな人間関係がいびつでなくてなんだろうか。

 

 

私たちは、仕事に従事する人である前に、ていうか、どんな立場である以前に、人間。

その基本に忠実でいたい。

自分に対しても、誰に対しても。

 

「それは甘えだ」ってわざわざ言ってくるような人は、あなたの尊厳を踏みにじり、頭を押さえつけてくるだけの人だから、私たちは、ほぼ無視して差し支えなさそうだ。

そんで、「よくやってるよ」「できてるよ」って誰にも気軽にどんどん言ってこう。

慌ただしい

先週から新しいサイクルに入り、急に忙しくなっている。

久しぶりにゆったりした気持ちでPCの前に座っている雨の月曜日だ。

 

新たな人たちと関わるようになったり、知人との深く真摯なやり取りがあったり、親族が亡くなったり。

その上、末っ子は春野菜の苗みたいに、ちょっと目を離した隙に、体もできることもぐんぐん力強く変化してゆく。

あまりの早さに心が追いつかない。

もうちょっとゆっくり育ってほしい、もったいない。

良い本や映画やドラマとの出会いも多いこのところ。

とにかく考えることが多くて忙しい。

とりあえず全部散らかった引き出しにまとめて放り込んで次へ行く、みたいな場当たり的なことになっている。

 

自分にとっては春は浮き足立つ、苦手な季節。

気持ちの浮き沈みに振り回されるのも、ある程度織り込み済みではある。

それでも、落ち着かなきゃ、落ち着いてこう、と念じるほどに、かえって焦って何から手をつければいいか分からないあまり、いたずらに隙間を埋めるようなことばかりしている自分が嫌になる。

優先順位がうまくつけられないから、楽に受け身でいられるものに安易に手を伸ばす。

結局、本当に取り組むべきことはほとんど何も進んでいなかったりする。

 

それにしても、どうして私はこんなに余白が怖いんだろう?

ぼーっとしたり、リラックスしたりすることが本当に苦手だ。

わざわざどこかに出かけて行って、他に何もできない遮断された状態に身を置いて初めて「休む」ことができる。

「ながら」をせず、ただ自分を甘やかしてあげるみたいなことがどうしてもできない。

今日みたいに、雨で、生理になっていると、動きを止めざるを得ないのでとても良い。

 

現代病って言われてしまえばそれまでなんだけれど。

落ち着かない気分を持て余して、とりとめのない独り言。

 

雨の日は研究しながら歩く

偽トーマス

 

美容院へ

今日は午後から美容院。

はあもうやっと、このひどい状態から脱せられるよ、とほっとする。

美容師さんがひと月近くインドへリトリートに行っていたので、帰国後予約がぎゅうぎゅうで、ずっと行けていなかった。

髪がどうしようもない状態だと、無性に気分が下がる、なんとなく自信がなくなるし、気付いたら非社交的になっている。ということが今回ようく分かった。

服より靴よりお化粧より、髪の影響って大きいんだなー。

 

それにつけても美容師さん、私には夢みたいにうらやましい暮らしぶりである。

年一度はインドやスリランカアーユルヴェーダの病院にまとまった期間リトリートへ行き、オーストラリアでサバイバルキャンプしたり、サーフトリップでバリへ行ったり。

日頃はシリアスなロングボーダーで、サーフィンにいそしみ、プロでないながらも相当な腕前みたいだ。

価値観を同じくする夫さんと好きなことを一緒に楽しんでいて、いつも充実してゆったり落ち着いている。

 

そんな彼女に前回会った時、今妊活してるんです、とさらっと言われて、とっさに「おー、そうですか、、」とつぶやいた。

私は彼女のゆとりのあるライフスタイルが常々うらやましいなと思っていたので、それらすべてが一瞬にして何年もお預けになり、自分のことは全部後回しのしっちゃかめっちゃかな暮らしにがらりと変わる、あの身に覚えのあるヘビィな感覚を一瞬想起して、他人事ながら一瞬ぐっと息が止まった。

もちろん、彼女は私のような考え足らずで「聞いてないよー!」みたいな情けないことではなく、色々考えて話し合って決められたんだと思う。

 

子どもも子どもとの暮らしも人によって全部違うし、他人がどうこう言えるようなことは一切ない。

でも、宙ぶらりんでしょうもなかった自分と違って、もう十分人間的にも成熟して、パートナーや仲間に恵まれ、好きなことを存分に追求する素敵なライフスタイルを築いている(ように私からは見える)ような方が、あえて子ありの人生に入るってことの修行味に一瞬震えたといいますか。

この情報に溢れ、検索すれば大抵のことは分かり、事前にリスクとベネフィットを考えて納得のいく選択をできる「確実性」の人生を生きてきた人ほど、まあまあな高低差であることには間違いがなく。

 

やりたいことがしっかりある人ならなおのことそうでなくとも、子を持つことを選ばないことは、人それぞれ個別の事情はあれど、社会の圧や、経済や、今のこの国の状況を考え合わせると、至極合理的な、ベストな選択のひとつとしか思えない、と思う自分がいる。

 

実際、自分も始まりはアクシデントだったもので。

それでも人生は全部結果オーライで、このように生きてみると、こうなったから良かったことしか思いつかない。何よりこの展開にならなきゃ彼らに会えなかった訳で。

どうあっても結果オーライだからこそ、誰もがどっちがどうということもなく、それぞれなりに幸せに生きている。

 

それまでの「自力でコントロール可能な人生」がガラガラガラと崩れるということは、やっぱり私の場合は実際そうなってみないと分からないことだったなーと振り返って思う。

私が考えなしだっただけで、事前に知っておくことは可能だと思う。

でも人間誰しもいつかは死ぬ以上、遅かれ早かれコントロール不能なポイントは誰にも等しく訪れるのだし、ままならぬことこそが人生の味わいなのだと言われれば、その通りだと答えるだろう。

 

どっちにしたって何を選んだって、人生は面白く、苦労は避けられない。

そして私たちは、自力で選んでいるようで、実は本当の本当には選べていないともいえる。

不確実な人生があまりに心もとないから、理由をつけて合理的に判断していると思っているけど、実は相当流されて不確実性の中を生きている。

できるのは、その時その時を大切に味わうことだけだ。

 

 

さて、ちょっと早めに家を出て美味しいバーガー屋さんで腹ごしらえしてから美容院へ向かおう。

みやげ話楽しみだなー

 

 

「ボーはおそれている」

 

2023年アメリカ/原題:Beau Is Afraid/監督:アリ・アスター/179分/2024年2月16日〜日本公開

パンデミックで映画館が長期閉館してしまう直前の映画館で見たのがアリ・アスターの「ミッドサマー」だった。

作品からは大いに刺激を受けたものの、超!後味の悪い作品であったことは間違いなく、これを最後に当分映画館には行かれないのか・・・と微妙な気持ちになったことを覚えている。

 

ので、今回もやーな気持ちになるんだろうな、と思いながら(そんなんだったら見なければいいのに)公開終了間際に見に行ったのだけど、思いがけないくらいこの作品を楽しんでしまった。

いや、これ笑っていいのかなあーと少し困りながらも、こらえきれずに吹き出してしまうことたびたびであった。

 

大筋としてのストーリーはあるものの、これはアリ・アスターの脳内にあるあらゆるバリエーションの妄想を映像化した、彼の精神世界をコラージュしたような作品であり、彼が想像しうるかぎりの「地獄」をユーモアをもって再現したものなんだと私は受け取った。

 

あんまり自分の妄想が恐ろしいから、作品にしてしまうことでフィクション化するのだ、とスティーブン・キングは言っているが、アリ・アスターのモチベーションにもそういうところは少なからずあるのじゃなかろうか、と感じる。

そういう意味において、アリ・アスタースティーブン・キングの後継者であり、またテリー・ギリアム的でもある。

 

私は、この作品を見て、ヨシタケシンスケの「このあとどうしちゃおう」というお気に入りの絵本のことを思い出した。

これは、死んだおじいちゃんが残した、自分の死んだあとの希望を書いたかわいいノートの中身はこんなんでした、という本。

基本は天国がこんな場所だったらいいなーというかわいい妄想なのだけど、その中に「いじわるなアイツはきっとこんなじごくにいく!」というパートがある。私はここがお気に入りで。

おじいちゃんによる「ふくしゅう」のアイデアが、かわいくみみっちくも、これはかなりやだなー!と思う絶妙さ。

「すっごいチクチクする、ぬれて冷たい服と、すっごくキツくていっつも小石が入っている靴を履いてる」とか。ああやだわー。

 

このディテール重視型のやだな妄想、これをアリ・アスターがやると「ボーはおそれている」になるわけである。

遠慮なく自身の感覚の「これまじ地獄」の再現を微に入り細にわたり追求しているので、すごく突飛で滑稽でありながらもやけに感覚に訴えるものがあり、その奇妙な緊張感も相まってめっちゃ笑える。

ほぼ貸し切りの映画館で良かったが、バスタブに落っこちてきた謎の男と全裸で取っ組み合いの攻防をするホアキン・フェニックスにはこらえきれず声を出して爆笑であった。

 

同時に、この作品の妄想的ディストピアは、リアルな現実のメタファーとして非常に説得力のあるものでもあり、荒唐無稽ながら紛れもない「ほんとうのこと」だと感じられる。

だからグロテスクだし、踏んだり蹴ったりで救いがないし、一見ほとんど露悪的と言っていいほどなのに、見ていて不思議な爽快感がある。

王様の耳はロバの耳!って言われてるような爽快感。

 

ショッキングで、露悪的で、ダークな映像作品は今溢れかえっており、自分はそういうものは普段は好まない、むしろ嫌うのに。何が違うんだろう?

おそらく、インテリジェントの有無なのだろうと思う。

露悪的でダークな表現それ自体が目的であり、ショックバリューを狙ったものは、けして好きにはなれない。

でも、アリ・スターが描き出した世界は、私たちが生きる現実世界の正確なパロディである。

ともすれば一見分からないようにしてかなりふざけてて、人間世界への皮肉に満ちていて、でも根底に深い怒りを宿している。

そういうアリ・アスターの拗らせ方だったり、あまりにセンスの良い知的なデフォルメ加減に、何か憩うような感覚の3時間であった。

 

だから、主人公のボーが徹底的に損なわれ、理解されず、とばっちりや巻き添えをくらい、利用され、責任をなすりつけられ、罰せられ、最後には滅ぼされても、心は妙に静かだった。

アリ・アスターが見せたのは、「最後に正義が勝つ」という定型的なストーリーの安易な逆張りなんかではない、もちろん。

人生は誰にとってもある意味においては「そういうもの」であるという世界観に近いものだ。

なぜだろう、そんなこの映画の世界が、不思議なくらいに私の心を慰める。

 

映画「アニー・ホール」で、ウディ・アレン演じるアルヴィーがダイアン・キートン演じるアニーに本屋で自説を述べる有名なシーンがある。

I feel that life is divided into the horrible and the miserable. 
Those are the two categories, you know.

The horrible would be like, I don't know, terminal cases, you know, and blind people, crippled. 
And the miserable is : everyone else.

So you should be thankful that you're miserable, because that's very lucky, to be miserable.

 

僕は人生はひどいと惨めに分けられると感じている。

 ひどいか惨めの2種類なんだ。

〈ひどい〉は、分からないけど、死が間近だったり、目が見えなかったり、体が不自由といった人々のこと。

で、〈惨め〉はそれ以外の全員。

だから、君は自分が惨めであることを感謝すべきなんだ、だって惨めであることは幸運なことなんだからさ。

ウディ・アレンは、1977年にこの映画を作っている。すごいなあ。

 

 

でたらめで、暴力的で、悲惨だし、救いがないし、誰もが分かり合えないまま、誰もが助けてと叫びあっている世界にあって、ボーは掃き溜めみたいな存在、圧倒的な敗者である。

確かにボーは、何の取り柄もない冴えない中年男で、気が弱く、ぐずぐずしていて、のろまで、何も決められず、ひどく混乱していて、まともに交渉や主張もできず、誤解され、何より運がなく、ほとんど誰にも愛されない。

でも、彼自身は最後まで人として間違ったことはひとつもしていない。

常に親切で誠実であろうとし、できるだけ要望に応えようとし、普通に心優しい人であり続けた。

そして何ひとつ挽回することも一矢報いることもなく、一方的に責め立てられもがきながら、死んでいった。

けれど、悪魔的なボーの母親をはじめとして、彼にあらゆるエゴを泥だんごみたいにぶっつけまくった他のあらゆる人々が、彼を犠牲にして勝者になったのかというと、全然そうではなくて。

彼らは、表面上はどれだけ取り繕っていても、自滅し続けている。

がんじがらめになって自分を見失うか、ほんとうのことから目をそらして偽りの平和の中にいる。

その惨めさは、ボーの惨めさよりどれだけましといえるのだろう?

 

もちろん、こんな作品に憩いや愛着の感覚を抱くなんて、どんだけ病んでんだよって話ではある。

私だってできればもっと爽やかでシンプルなものに憩いたいもんだよとは思う。

でも少なくとも私は、そういう単純なものを、もはや素直に喜べない。

どんな映画も時代の写し鏡だとするのなら、「ボー」のような映画が納得性のあるものとしてある層の人々に受け止められていることもまた事実。

 

私にとっては「今」って、言うなれば、このでたらめなブラックジョークじみた希望のない時代を、なんとか明るくしのいでいくのだ、という気持ちなのだ。

「落下の解剖学」を見て考えたこと

 

2023年フランス/原題:Anatomy of a Fall/監督:ジュスティーヌ・トリエ/152分/2023年2月23日〜日本公開

いつも通りほぼ予備知識ゼロで見に行ったのだけど、何も知らなかったからこそ夫婦で見られたよねーと思うくらい、夫婦の怖い話であった。

でも、結果的に夫氏と一緒に見られて本当に良かった。

 

この映画について話したことが、期せずしてこれまでどーうしてもうまくいかなかった「夫婦間の(パートナーシップの)話」のささやかなブレイクスルーのきっかけになったから。

本作の脚本が監督の夫との共作であるために、男女双方の視点で書かれた脚本であることも大きいと思う。

 

通常の話し合いにおいて、本音で話せと言われても、いろんな要素が本音をそのままに語ることを阻害するものだ。

相手への気遣いや負い目、見栄やプライド、長年かけて培われた互いの関係性のバイアスに基づく客観性に欠けた感情、傷つきやコンプレックス。

いろんなものがその人の表現を屈曲させる。

夫婦や親子といった密接な間柄では、近いからこそ絶望的に難しかったりする。

 

それが、自分たちがまともに向き合うのではなく、映画の中の夫婦(ザンドラとヴィンセント)の方を眺めながら、あくまで映画の夫婦についてお互いの考えやアイデアをぽつぽつと語り合う中で、私たちの本音が自ずと浮かびあがってくる。そういうことがはからずも起こった。

加えて娘氏が、ニュートラルな部外者の目線で、夫と妻ははそれぞれこういう風に見えた、自分は彼らを見ていてこんなことを思った、と語る。

そんなやりとりを通じて、私はこれまでより少しは客観的に冷静に、夫婦とりわけ男性の置かれた立場や心情について考えてみることができた。

映画の中の夫婦が自分たちであって自分たちではないという絶妙な距離感だったからこそ、自分ごと感はありながらも、自分の正しさを証明したい思いや、相手の攻撃に対する防御的な気持ちから、少し離れて考えられたのかなと思う。

 

おそらく、夫氏はこれまでも屈曲しながらも彼なりに伝えようとしていたのだと思う。

私が自分の正当性に固執して見えなかった、受け取れなかっただけなんだろう。

 

 

この作品を作るにあたって、最も影響を与えた作品のひとつとして、監督のジュスティーヌ・トリエは、イングマール・ベルイマン「ある結婚の風景」を挙げている。

私はベルイマン版を見たことはないのだけど、HBOがジェシカ・チャスティンとオスカー・アイザック主演のリメイク(ハガイ・レヴィ監督)を昨年見ている。

端正な撮影と緻密な心理描写、微妙な心のせめぎ合いに圧倒されるすごい作品だったが、あまりにも救いがないというか、結婚どころか人間をやめたくなるような気持ちになって、相当ぐったりもした。

当時のレビューを読み返してみると、「ここにあるのは人間の真実だという実感はあるが、あたしにゃどう考えればいいか今のところさっぱり分かりません」と書いてある。

この作品を夫氏に勧める気にはとてもなれなかったし、ましてやこれについて夫婦で話し合うなんて、致命的すぎてありえないと思っていた。

 

今回「落下の解剖学」で、これと似た地獄を夫婦で並んで見せられて、でも今、私はあの時とは少し違う感覚を持っている。

自分にとってもっとも大きかったことのひとつは、ヴィンセントのような考え方をする男性は、ある種定型的な存在なんだ、彼らはこの社会の落とし子なんだと改めて腑に落ちたことだった。

 

つまり、モラハラのような言葉による攻撃から、DVのような身体的暴力から、アルコール依存症まで、人によって出方は違うが、

「自分(夫)が不幸なのはお前(妻)のせいだ」

「自分は自分の人生の時間を十全に自分らしく自由に使いたかった。そうすればもっともっといろんなことが達成できた。でも、家族や仕事や経済の責任を負わねばならない成人男性という立場では、自分を犠牲にするしかなかった。自分は犠牲者なんだ」

といったヴィンセントの台詞に象徴される家族への被害者意識や、

妻が自分よりも高い能力(金銭を稼ぐ能力や、世間に認められる才能)を発揮したり社会的地位を得ることに、夫が平常心ではいられないほどの劣等感や不安定さを感じること。

それらは、その人の性格や気の持ちようの問題ではないし、妻や家族のせいでもない。全く関係ないとは言わないが、おそらく本質はそこではない。

そして程度は違えど、こういう男性は珍しくはない。

こういう男性とは、語弊を恐れず言えば、「夫が妻から、広くは男性が女性から、当然与えられると思っているものが与えられない、得られない、もらえるべきものがもらえていない(ために自分の人生が不本意なのだ)と考え、相手女性へ怒りや憎しみの矛先が向かう」つまりミソジニーの思想を持つ男性、ということだ。

 

当然ミソジニーは改めるべき。表向きそういう認識で近代はアップデートを続けてきた。

でも、現実はもうすっかり過去のものになったとはいえない。相当先進的とされるEU諸国においてさえ。

女性の権利を広げるだけでは、本質的な部分は解決しないからだ。

どうして女性と公平な関係性になることがこれほど男性を不安定にさせるのか、ということに向き合わず、男性の傲慢と差別意識ゆえだと単純化してしまっている。

でも、そこにはもっと根深いものがあるはずなのだ。

本当はみんなそこに薄々気が付いている。

だからこそ、この映画がこれほど世界中で話題になっているのだと思う。

 

わが夫氏にも中年以降、ミソジニーの傾向がはっきりとあらわれてきていて、普段はそんなこと忘れたみたいに和やかに過ごしていても、口論になるとたびたびこのロジックで責め立てられるようになった。

私はここ数年ずっとそのことでいつも気持ちのどこかが塞いでいるような感覚だった。

でも、これは私が自分を責めて悩んで解決する案件ではなくって(自分なりに一所懸命考える必要はもちろんある)、社会構造込みで考えなければいけないことなんだなと今改めて思っている。

当然、妻である私にも、生い立ちから社会構造までいろんなものにさらされたゆえの歪みが大いにあって、だから割れ鍋に綴じ蓋でしかなく。

そんな不完全な二人が助け合い許しあってなんとかやっていくしかないよね、という気持ち。

 

 

話戻るが、そもそもヴィンセントは、妻とフェアな状態を「自分だけが過分に譲歩した不本意な状態」と認識している。

さらにザンドラが小説家として社会的に成功を収めていて、自分はずっと書けていないことで、激しい劣等感や嫉妬にさいなまれ、常に怒りを抱えた不機嫌な状態にある。

だから、この夫婦でフェアネスという正しさをいくら戦わせたところで、どこにも行けない。

夫婦が公平であること自体が、夫にとっては不公平なのだから。

 

ザンドラが「こうすれば公平だということで話し合って決めたことでしょう」「私もこんなに譲歩をしているじゃない」といくら主張してみても、彼女の負担や譲歩はヴィンセントの中で面白いほど透明化している。

夫には、妻の負担や譲歩をまともに認識しようとする気さえない。

それは「あまりに当然のこと」だからだ。

なぜなら彼女は妻であり母だから。

なぜかヴィンセント的価値観の前では、妻や母は、自分と同じ人間ではなくなってしまう。

自分自身の辛さと被収奪感、妻への嫉妬と劣等感だけが彼の中で巨大な雪だるまみたいに膨れ上がり、被害者意識のかたまりになっている。

 

この作品のハイライトである、夫が死亡する前日の夫婦の激しいいさかいのシーンを見ると、多くの人が妻に同情するだろう。

私もそうだった。

ザンドラは極力落ち着いて、もっともな反論をして、夫を何とか優しい言葉でなだめようとしている。

それに対して、夫は全く聞く耳を持たず、わめき散らして激昂する。

幼稚でひがんでいて、惨めでみっともない男そのものみたいに。

 

そんな夫婦のやり取りについて、夫氏は

「正しいことを言うことがどれほどのものか」

と言った。そして、

「自分が情けない男だということは、彼自身が一番よく分かっている。

ヴィンセントがこうなるにはなるなりの理由や蓄積があったはず。

妻は直接には夫を殺していないのかもしれない。

でも、長い時間をかけて、ある意味においては殺したんだ」と言った。

 

娘氏は「ヴィンセントは、激しい言葉で妻を責め立てている。

でも私には『苦しい』『助けて』って言っているようにしか聞こえなかった」

と言った。

 

私はそれらを聞いて、しばらくの間、言葉がなかった。

 

私も夫氏とけんかになると言葉は違えどお前のせいだと責められるので、映画の中のザンドラみたいに、自分ができてないことや自分の不幸がなぜ私のせいになるの、と反論してきた。

あなたが大変じゃないとは言わない、でもどうして「お互いに大変だよね」にはならないんだろう?

どうして私がやることは「別にいい」の箱に簡単に入れられて、その大変さや気持ちは無視できてしまうんだろう?

妻や母である前に、同じ人間なのに。

普段の生活の中で、夫はいつも親身になってくれ、尊重してくれていると確かに思うのに、言い合いになると当たり前みたいに人として軽んじてくるので、「本音ではこんなことを思ってたんだ」といつも悲しかった。

 

でも娘氏の意見を聞いて、少数の強者男性以外の多くの男性が、程度の差こそあれ、生きづらさを抱えて「苦しい、助けて」って言いたいような状況にあることをふと思った時。

「お前のせいだ」という言葉を額面通りに受け取るべきではなかったのかもしれない、

それが何を意味しているかをもっと考えるべきだったかもしれない、という思いがわきあがってきた。

 

だって普通に考えて、ヴィンセントのような不自然で矛盾だらけのロジックをおかしいと思えないことがおかしい。

一般的に、明らかな矛盾や突飛な言い分を、当人が全くおかしいと気付いていない時、その人の内面でなんらかの理由で表現が屈曲してしまっているということが少なからず起こっている。

通常のコミュニケーションから飛躍してまで、触れられたくないものがそこにはあるということだ。

男たちにとって、それはなんなのだろう。

 

 

ずっと女たちは苦しかった。でも男たちも苦しい。どちらも紛れもない真実。

今の状況、夫婦やあらゆるパートナーシップや性犯罪に至るまで、ジェンダーの問題を本当に良く変えたいと思うなら、女性や少数側の正しさからのアプローチだけでは難しい。

今、女性の公平を求めるあまりに、男性の生きづらさを無視してはいけない。そんなものは取るに足らないと矮小化してはいけない。

だってそれは確かにそこに在る痛みなのだから。

 

そして思い返す。

夫氏はヴィンセントを「彼は自分が情けない男だと自分が一番分かっている」と言った。

でも、私はあの男性(が置かれた状況)を別に情けないとは思わなかった。

だけど夫氏にとっては、彼が情けなさに苦しみながら生きていることは、あまりに自明のことみたいだった。

 

もちろん私は自分の夫のことも情けないとは思っていない。ほんとうに。

でも、彼は自分のことを不甲斐ないと思っている。

言葉の端々で、そういう思いを持っているんだろうなと感じることがある。

そんなことを思う必要なんてないのに。全然ないのに。

でも、私がいくら言葉でそう言っても、彼には届かないのだ。

この社会は「資本主義の勝者でない者は惨めな負け犬だ」と男たちを苛んでいる。

 

 

鑑賞後の話し合いで思ったことに終始して、映画の感想とは程遠いものになってしまった・・・。

でも、ヴィンセントという男性をどう捉えるかがこの作品の肝だとは思う。

この作品は、法廷ミステリー仕立てで、ストーリー自体もスリリングに面白く作られているが、その枠組みを使ってやっていることとは「一組の男女の関係性を解剖する」ことである。

 

「オアシス」

 

2004年韓国 / 原題:오아시스(OASIS) / 監督:イ・チャンドン / 133分

 

わたしたちは、程度の差こそあれ、誰もが属する社会やコミュニティーに即した倫理観や人間観を内面化している。

それなしには、社会に適応し、社会の一員としての権利を享受することができないから。

社会ごとに設定されるマインド、モラル、ルールは、基本的にその社会の大多数の安全快適を確保する目的で制度設計されている。

 

現代の多忙で余裕を欠いた社会においては、大多数の快適や安全を、最小限の労力で維持しようとする。

みんな忙しすぎるから、物理的な時間も労力も、他者や答えのない問題に想像力をはたらかせるための脳のリソースも割きたくない。

個別の事案についていちいち考え、その都度判断するなんて、効率が悪いし、面倒くさすぎる。

一律的なレギュレーションに従って、全て機械的に処理するのがスムースだと考える。

できるだけ楽で高効率なことを、何の疑いもなく良いことだと考える。

そのような価値観の社会、いわゆる管理社会に私たちは生きている。

 

管理社会では、親切心や遊び心がもたらすバッファーは無駄なものでしかなく、それらはとめどなく失われていく。

管理社会では、ルールから逸脱する者や異形者は、ただそこに存在することさえ、多くの「普通の人」にとっては不安で不快で見たくもないのだし、彼らを同じ人間と見なさず、彼らの人権が蹂躙されても、彼らを自分の利益のためにていよく利用することも、ほとんど痛痒さえ感じない。

 

この風変わりすぎるラブストーリーは、社会から全方位的に排除されて、どこにも居場所を見出せない異形者の生きざまをドキュメンタリーのような生々しさで描いている。

異形者へのヒステリックな防御、無理解に基づく困惑という周囲の人々のリアクションによって、「普通の人」の非情なる利己性、日和見性、暴力性がずるずると引きずり出されるようにあらわになっていく。

 

(以下、内容に触れています)

世の中の〈普通〉と〈常識〉から大きく逸脱した存在である発達障害の男性と脳性麻痺の女性。

はじめは彼らの風貌や振る舞いにぎょっとするのだけど、ストーリーが進むほどに、醜いのは果たしてどちらだろうか、という思いが頭をもたげてくる。

周囲の健常者たちは、自分たちを正義と良識の側にあると思い込んでいる。

しかし、ジョンドゥやコンジュの前で、すっかり安心して侮り切っている彼らが見せる振る舞いの、いかに偏見と差別に満ち、小狡く非寛容なことか。

しかも徹底して彼らはそのことに無自覚で、どこまでも無反省である。

 

そのような周囲の人々が、ただただお互いが好きで、誰にも迷惑をかけず助け合いながら共にいたいだけというジョンドゥとコンジュを暴力的に引き裂き、社会から排除する。

正義と保護の名の下に。

ジョンドゥは刑務所に閉じ込め、コンジュはあとはひとりで自力でなんとか暮らせと放り出す。

「普通の人々」は、そういう極めて一方的で無責任で残酷なことを、倫理的で適切な対応による解決だと思いこんでいる。

ジョンドゥとコンジュはそれらに抗する言葉を持たない。

 

マジョリティーは、自分たちがより快適に楽に安全に暮らすために、少数者を犠牲にしている。

私たちの社会は表面上の快適さや便利さを増すほどに、少数者をより激しく、厳しく排除せずにはおれない。

管理が強まってルールが厳しく細かくなればなるほど、それだけ包摂されない者は増えるのだから、社会に排除される少数者は、避けがたく増えてゆく。

多様性の時代と言われたりするけれど、実際のところ、少数者の生き難さは強まり続けているのではないだろうか、と2002年に作られたこの作品を見ながら思う。

 

(そしてささやかな希望的観測として、あまりに管理が行き過ぎていることで、誰もがある側面においては少数者側になってしまうという状況が今日起こっており、もはや少数者が少数者ではなくなる、多数派に反転するという潮流が起こっているようにも思える。

とりわけ日本では、政治の腐敗によって特権階級以外の全ての人が搾取され虐げられるという現実が日々明らかになっているので、より反転の機運が高まるのではないか、そうなるといいなと思っている)

 

 

イ・チャンドンは、ジョンドゥとコンジュを聖者として描いていない。

アイ・アム・サム」のようには描かない。

むしろ、少数者への配慮的演出や、観客の共感を引き出すようなことを注意深く避けているように思える。

ジョンドゥとコンジュへの深いシンパシーの感覚はありながら、冷徹に実際を描き出そうとしている。

(唯一リアルでないものとして、絶妙に差し挟まれたファンタジックな演出があるのだけど、これは檻のような身体に自由を阻まれたコンジュの人生からの、ささやかで切実な精神の逃避の表現になっていて、胸が掴まれるような美しさだった。

「バーニング」のあの素晴らしい夕暮れのシーンを思い出した)

正しいことや受け入れやすいことなんて、彼らのすさまじい現実の前には無意味だ。

 

ジョンドゥは、聖者どころか、控えめに言ってかなりスレスレのあぶない人物という印象を観る者に与える。

おそらく軽度の知能障害を抱えており、通常の倫理観やモラルを理解できない。

それゆえの無垢さや人の良さもあるが、一貫して気まずい逸脱者として描かれる。

「普通の人」にとっては、無性に気持ち悪い、関わり合いになりたくないと思わせる厄介なムードを醸している。

彼のインモラルの最たる部分が、ほぼ初対面のコンジュに無理やり性行為を迫る場面であらわれる。

更にそのような行為に及んだジョンドゥに、ヒロインのコンジュは自ら連絡を取り、二人は付き合いはじめる。

一般的な感覚では受け入れ難い展開である。

何しろレイプは人間世界では何より重い罪のひとつだから。

 

しかし、これまで重い身体障害のために誰からも顧みられることなくひっそり生きてきた女性が、初めてひとりの女性として誰かから性的に求められたということに思いを馳せた時、通常のレイプとは全く逆転した意味合いが立ち上がってくる。

レイプがどうして死ぬほど辛いかというと、「相手の支配欲を満たすために人間として扱われない暴力にさらされたから」である。(性暴力についての覚書き⑦(なぜ性暴力はこれほど人を深く損なうのか) - みずうみ2023 )

ところが、コンジュにおいては、これが結果的に「ひとりの女性として興味と好意を持たれ、人間的に扱われた行為」という受け止めになった。

ジョンドゥは誰でも良かったわけではなく、コンジュに花を贈って好意を伝えている。

社会性が欠落した人物ゆえ、無邪気に動物的な衝動のままに性行為を求めている。

だからといって、不法侵入に加え、同意がないままに行為を迫ることに弁解の余地はもちろんない。

正しい、間違っているを超えて、そんな行為をしたジョンドゥの存在にすがるほどに、絶望的に孤独に閉ざされた人生を送ってきたコンジュの現実を思うと、胸をつかれる。

 

ジョンドゥを逮捕した警官は蔑むように「よくあんなのにその気になれるよな」と言った。

そういう語り口がコンジュをどれほど深く傷つけてきたことだろう。

当たり前に日常を生きている健常者とは、彼女の立っている場所はあまりに違いすぎる。

 

脳性麻痺については詳しいわけではないが、以前当事者の語りを聞く障害者施設の実践研究会に参加したことがある。

話をしてくれた脳性麻痺の女性は、朗らかに周りを照らす素晴らしい人だった。

その時に分かったのは、脳性麻痺の人の精神は発達遅滞を伴う場合もあるが、健常者となんら変わらない人も多い。

ただ、あまりにままならない不具合の多い身体と共に生きている人たちなのだということだった。

ガンダム理論で言うと「異常なまでに操縦が困難なガンダムに乗っている人」ということになる。

 

ムン・ソリの演技は天才的で、脳性麻痺を深く理解し、躊躇なく脳性麻痺の人を演じきっているように見えた。

当事者を起用したと思うほど真に迫っていたので、作中の監督の演出によって当事者でないことが分かって、しばし呆気にとられたほど。

ジョンドゥを演じたソル・ギョングも本当にすごい、こんなすごい人たちをどこで見つけてきたのと思うくらい。

今では二人とも韓国を代表する俳優になっているけれど、何の不思議もない。

彼らなくしては成立しえない作品。

異形を異形のままに演じきる、その彼らの中に混じり気のない美がひっそりと息づいているさまが、忘れがたい。

 

コンジュが月明かりにうごめく木の影に怯えないで済むよう、ジョンドゥは警官に取り囲まれながらめちゃくちゃにノコギリを振り回して枝を切りまくる。

思うように身体が動かせず声も出せない自分の代わりに、部屋から大音量のラジオをかき鳴らすコンジュ。

二人以外、全く誰にも理解されない。

誰もが彼らを狂っていると思い、疎んじ、憐れんでいる。

二人だけが、互いの強い愛を確信している。

 

そして全てが失われ、また以前のようにひとりきり、古びた部屋でうっとりと空想にふけるコンジュのささやかな微笑みで物語は終わっていく。

その余韻も素晴らしかった。

 

多様性、多様性と私たちは軽々しく言うが、そんな生やさしいものではない。

真の多様性は、私たちががんじがらめになっているこの管理社会の枠組みの外側にしか存在しない。

その厳しさと難しさをこの作品に教えられた。

 

アマゾンプライムにて視聴)

「謎のやな感じ」について考える

朝、玄関のドアを開けたらいちめん春の空気。

朝の眩しい光を浴びたら、柔らかく緩んだ。

寝坊したので、今朝のお祈りは手早く。

息子が昨日音楽院の試験だったから、そのことを強めに祈った。

お隣さんによると明日からまた冷え込むらしい。

気候がどうもおかしいね、と言い合う。

 

今週もマイペースに確定申告の作業を続けつつ、毎日何かかしら用事でぎゅっと詰まっていて、気持ちは落ち着かない。

今日は午後から車で某所へ。ちょっと緊張する用事。

 

昨日も出ずっぱりだった。

このところ、夫婦仲が良くてしみじみ幸せだったのに、昨日の午後に会っていた人のなかのひとりが、謎のやーな感じで接してくるので一気にトーンダウンしてしまった。

自分のできることで役に立てたら、という気持ちもシュンとすぼんでしまった。

こっちから特に何かを言った覚えもないので、理不尽で嫌な気分になり、心当たりをしばらくぐるぐる考えあぐねてしまった。

私には、そういうくよくよしたところがある。

 

でも、気を抜いているところに出し抜けに棘を刺してくるような存在っている。

自分の母親からして、私が幸せそうにのほほんとしてたらもれなく刺してくる人だった。

また、考え足らずや辛抱のなさのために、誰かを拒絶したり、やな気持ちにさせてしまう事が私にもある。

だからいつからか、人と人とはそういうもんだし、全方位的に和やかにいく事などそうそうないという人生観で落ち着いている。

それもひとつのバランスなのだろうと。

 

嫌なのは、その場ではへらへらして物事を曖昧にしてしまうことだ。

これ以上余計に傷つきたくないから。

攻撃性を含むようなシチュエーションにおいては特に、適切な反論や言葉はその場ではまず口から出てはこず、毅然とした対処なんてほぼできない。

なんなら今起こっていることの意味すらにわかにはのみ込めず、ポカーンと口を開けていたりする。

だいぶ後になってから、ああ言うべきだった、こうすれば良かった、ぐぬぬ、と悔やむ。

 

そんな自分の格好悪さを長年恥じてきたけれど、「自分は別に考えてないわけではなく、間違ってることは多々あるがだからって下等な生物というわけではない。私は反射神経が鈍く、ものごとを理解できるまでにタイムラグがある、遅いのだ」ということを自覚できたことは、自分にとって結構大切なことだったなと思う。

願わくば、もう少し若い頃に気付きたかったけれど。

 

流暢に話せない自分を蔑まなくなったことで、同じように流暢でない他者を侮ることもなくなったし、流暢な人、語気の強い人に気圧されてしまうことも易々と騙されることも(なくなりはしないけど)少なくなったように思う。

それはささやかだけど喜ぶべき進歩だ。

黙っている人が何も考えていないみたいに思い違いする事は、人として傲慢でとても恥ずかしいことだと思う。

 

昨日の謎のやな感じで言ってくる人について、時間差でちょっと考えてみた。

そしたら、昨日だけじゃなく、その前に会った時にも刺されてたことを思い出した、苦笑。

それで、なんとなく分かった事がふたつある。

ひとつは、その人は「あなたが価値と思うことに私は全然興味がない、くだらない」と私に対して思っているんだろうなーということ。

もうひとつは、人の価値観の違いなどありふれたことで私もどうだっていい、普通はたんに互いに黙っているだけのこと。それが、その人はなぜかわざわざ私本人に、非難めいたニュアンスをのせて伝えたいんだねどうしても、ということ。

ふうむ。

 

彼女は普段から、誰に対しても自分の方が詳しいし正しいという前提でマウント気味に話す。

私は、意見を押し付けられること自体はさして苦ではない。

人と話す中で揺らぎ、自分の考えはどんどん変わってゆくのが常だが、押し付けられることそれ自体に揺らぐ事はあんまりないから。

少なくともはっきり自分の意見を言い切る人は分かりやすいから、面白くふむふむと聞きつつ自分なりに色々考える。

もとより、私は全然違う考えだよと率直に言ってくれる人が好きだし。

つまりその人の「謎のやな感じ」とは、押し出しの強さではなく、「あなたのありようや価値観は私にとって不快なものである」と、何度も回りくどくいちいち伝えられることへの違和感なのだと分かる。

一体何様だろうと腹が立つ一方で、誰かにむやみに自分の思いを否定されたら、わりとあっさり自分への信頼がぐらつく、そんな自分の脆弱さにがっかりもする。

 

更に「なぜその人はわざわざ言わないと気が済まないのだろう?」という事が素朴に気になってくる。

そこには、その人にとって何としても言わずにおれない、スルーできない何かがあるからだ。

 

私は、私の言動において、その人に何の直接の迷惑もかけていない。はず。

近しい間柄でもないから、私は私の人生をその人と関係ないところで好きにやってるだけ。のはず。

だから、そこには彼女自身に根ざした何か、課題やコンプレックスや傷のようなものがあるのだと思う。

なんだ、私関係ないじゃん。その人自身の問題じゃん。つまりそういうこと。

 

そして、それこそがまさに偏見や差別というものの構造なのだ、とはたと思い当たる。

私がその人から受けていたものとは、いわゆる「誹謗中傷」的な感情の発露なのだと。

誹謗中傷とは、根拠に欠けたことに基づいて他人をそしること、と辞書にある。

相手からの行動や言葉という直接的な関係性によって生じた根拠のある感情は誹謗中傷ではなく「非難」や「抗議」や「反論」と表現される。

誹謗中傷には、直接的な関係性がない。コミュニケーションが飛躍している。

 

一般に、わざわざ誹謗中傷する人には、強い被害者意識や、相手に対する嫉妬感情がある。

自分に向けられた言動でなくても、ある人の言動、あるいは存在そのものによって、自分が責められたり貶められていると感じたり、

自分よりも不当に良い思いをしている、得をしていてずるいと感じたりする。

自分の落ち度や後ろ暗さ、不幸感や不全感を喚起させる存在に対する強い怒り。

それが、誹謗中傷の根底にはある。

 

うーむ、なるほどなあ。

 

そこまで考え至る頃にはもう、その人に対する忌避感って8割がた溶けて無くなってしまっている。

身勝手な考えではあるが「自分の言動のせいで誰かを傷つけた」ということが、自分にとっては一番嫌なことだから、そうでないことが自分の中でクリアーになるとだいぶ落ち着く。

そして「まあみんな不完全な人間だもんな」って気持ちがわいてくる。

だから日常的に起こるいろんな物事を、仕分けして、ゆっくりと考えてみる事は、面倒くさいがやっぱり私にとっては欠かせないプロセスだと思っている。

 

その人はとても率直な人だから、今度刺された時には「どうしたの?一体どこが引っかかるのか、良かったら教えて欲しい」と落ち着いてまっすぐ聞いてみようと思う。

 

 

そんなことがあった昨日だったが、夕方家に帰ると、夫氏の年下の友人がまだいて、リビングで喋っていた。

前に話したのは、コロナ前だから、本当に久々の再会。

私も大好きな人だから、会えて嬉しく、だんなそっちのけで色々話した。

ピザを取ってみんなで食べながら、夜までわいわい喋ってとても楽しかった。

おかげでやな気持ちも払拭できた。