みずうみ2023

暮らしの中で出会った言葉や考えの記録

病気と健康

この一週間あまり、インフルエンザで曜日も時間も分からないようなカオスな日々を過ごしていた。

おとといあたりからやっと咳込まずに夜の間眠れるようになって、ようやく病気のサイクルから抜けられた感。

とはいえ、家族みんなが順番に体調を崩しているので、通常モードに戻るまでにはもうしばらくかかりそう。

 

脂汗かいてのたうち回っている間に11月は去ってしまったなあ。

そろりそろりとまた日常を取り戻していかなくちゃ。

 

今回、病気がとてもきつい経過を辿ることになってしまった理由の一つに、抗生物質を飲んでしまったことがある。

はじめに訪れた近所の内科で、マイコプラズマ肺炎と診断され、3日間飲み切りの抗生物質を処方された。

薬を飲み切ったあたりから、信じられないほど体調が悪化した。

全く横になれないほど激しい咳が出て、それが何日も続き、咳のしすぎで骨が折れそうだったし、何日もまともに寝れなくて心も折れそうだった。

 

熱も40度近く、一体何が起こっているのかと這うようにして別の医療機関にかかったら、インフルエンザと診断された。

そこの医者に「ウイルス性の病気にかかっている時に抗生物質を飲むと、身体の抵抗力が下がってしまうので飲んではいけません」とさらっと言われて愕然とした。

今さらそんなこと言われても!泣。

普段ほとんど病院に行かず、薬も飲まない私が、本当に久々に飲みたくもない抗生物質を飲んでみたら、このざまである。

 

今回、夫氏から何度もプッシュされて渋々病院に行った。

安易に他人に従って私らしくないことをして、ひどいことになってしまったということが、無性に悔しかった。

夫氏のせいで、とか言いたいのではなく。

彼の心配やケアに感謝しているけれども、いつだって自分は自分の一番の味方でいなくちゃいけない、ということを割とあっさり手放してしまったこと。

直感は知っていたのに、外側の目を気にして、自分にとってみすみす間違ったことをしてしまったこと。

そんな自分自身がくやしかった。

 

そもそも、インフルエンザに限らず、すべての人にとって正しい病気の対処なんて存在しない。

全員が異なる前提(身体)を持っているのだから。

例えば、夫氏のように、日頃からいろんなケミカルを取り揃えていて、自分の体調に合わせてこまめに薬を摂っている、それで健康が維持できているということは彼にとって真実だし、効果ももちろんあると思う。

でも、私自身は野口整体的な考え方がしっくりくる。

つまり、病気の自然な経過を辿ることで身体は適切に休息し、解毒し、歪みを直すという考え方。

だから、日頃の働き過ぎ、動き過ぎの状態を強制停止させ、滋養のあるものを食べ、静かに寝て過ごしたいと思う。

しかるべき時間が経てば良くなっていくから、とゆったり構えて。

同じ病気でさえ、その人にとってどういう対処がいいかは違うし、正解も不正解もないのだと思う。

 

時々、このことについては考えるんだけど、今回も、改めて夫氏との考え方のベースの違いを思った。

彼はネガティブな状態を「間違ったこと」と捉え、ただちに解消されなくてはならない、と考える。

つつがない状態をプラスマイナスゼロ地点(普通こうであるべき)とし、想定外の良くないことは減点方式で捉える。

確かに、その考え方のベースがあるので、いろんな物事が高い水準で維持できているのだと思う。

彼にとっての快適を維持するためのタスクは生活の中にいっぱいあり、彼はそれを几帳面に遂行している。

 

でも、私はあんまりそういう風に考えていない。

一般的に良くないとされる状態や物事は、私にとっては間違っている / いないというような問題ではない。

どんな状態も、選びようなくただある。だけ。

生きている中で、(比喩的な意味も含めて)病気の状態に陥る。

何らかの必要や必然があってそういう変化になる。

その状態は私に何を求めているんだろう?と考え、その求めることを、私は身体にしてあげる。

うまく書けないが、どうもそういうことなんじゃないのかな、と感じる。

不快で都合の悪い状態を対処療法的に叩く、あるいは消そうとすることは、身体の要請を無視し、自分の身体を「私の都合」に暴力的に屈服させようとしていることのように思える。

そんなことをしたら、私がかわいそうじゃん、て思う。

 

今更ながら、この世界観の噛み合わなさって結構大きいなと思う。

夫婦としての生存戦略的には、ま、それでいいのかな・・・。

 

 

今回の教訓。

自分の一番の味方は自分と肝に銘じ、基本は自分の身体が求めるようにしてあげたい。自分に優しくしてあげたい。

他者の助言にはオープンでありたいが、自分の体のあるじは私なので、そこは誰に対しても死守していく。

必要ないものは必要ないってちゃんと言う。

そういう小さいことの積み重ねが、自分なりの心身の健康につながっていくのかな、というイメージを持っている。

 

「さようなら」

訃報が報じられてから、谷川俊太郎さんの詩がSNSからいくつも流れてくる。

今月の初めにはクインシー・ジョーンズも亡くなった。

存在が世界の良心の一部であるかのような、大木のような人たちが去っていくことに、何とも言えない淋しさを感じる。

 

私は普段から短歌は好きでよく読むが、詩にはそれほど親しみはなく、谷川さんについても詩よりはむしろ対談やエッセイをたくさん目にしてきたと思う。

訃報を知って真っ先に浮かんだのは、矢野顕子の「ピヤノアキコ。」という弾き語りアルバムに収められた「さようなら」という楽曲。谷川さんが作詞をしている。

 

どんなジャンルの創作物でも、力のあるものは「そのもの」を超えた風景の広がりを五感で感じさせる。

ありありと作品のイメージがビジュアルで思い浮かぶものはもちろん。

いつかの痛みや悲しみや懐かしい記憶を呼び起こすもの。

誰かに会いたくなったり、無性にお腹が減ったり、誰かに優しくしたくなったり。

その作品が生み出された時の風景に思いを馳せたくなることもある。

 

私は矢野さんの「さようなら」を聴くと、いつ何時でも「少年が冷たく冷え切った頬を上気させて寒い空気の澄んで空一面に星がまたたく夜空をひとり見上げている、心細いような清々しいようなイメージ」が浮かんで、ふっと心が持っていかれてしまう。

訃報を知って聞き返してみたら、矢野さんのピアノアレンジも素晴らしく、久々にしみじみと聴き入ってしまった。

 

 

さようなら

 

ぼく もう いかなきゃなんない すぐ いかなきゃなんない

どこへいくのか わからないけど さくらなみきのしたを とおって

 

おおどおりを しんごうでわたって いつもながめてるやまを めじるしに

ひとりで いかなきゃなんない すぐ いかなきゃなんない

 

どうしてなのか しらないけど おかあさん ごめんなさい

おとうさんに やさしくしてあげて

ぼくも すききらいいわず なんでもたべる ほんも いまよりたくさん よむとおもう

 

よるになれば ほしをみる ひるは いろんなひとと はなしをする

そして きっといちばん すきなものをみつける

みつけたら たいせつにして しぬまで いきる

 

だから とおくにいても さびしくないよ

ぼく もう いかなきゃなんない

「まる」

2024年/監督:荻上直子/117分

落書きが突然アート作品としてバズって、嵐のような毀誉褒貶に巻き込まれる男の話。

 

今の世界では、誰かが絶え間なく「これには価値がある」「これは無価値」というジャッシを繰り返している。

誰よりも権威のある誰か、誰よりも目利きな誰か、誰よりも金を持っている誰かによるジャッジメントに、全体が無思考に追随する。

それによってものごとの価値が評価され、その扱われ方がおおむね決まってくる。

 

本当は、誰だよてめえなに様だよ、という話なのだ。

誰かのジャッジメントは、所詮好みの問題である。

気まぐれで不確かなものだって多分に含まれている。

今私がこうして書いているように、人は何かに対して好きなことを言う生き物だが、全ての意見は本来等価であるはずだ。

でも今の世の中では、なぜか特定の誰かの意見は尊重されありがたがられ、別の誰かの意見は全く顧みられない。

それは、本当はおかしいことだと思う。

 

つまり、誰もがてんで勝手にそれぞれの好みを表明し、それらに従って好きに生きていればいいだけのことが、ありとあらゆるものが資本主義の価値のふるいにかけられているということだ。

そのプロセスによって、私たちはどれほど多くのものを見失い、自分を信じられずにいることだろう。

誰かの意見を鵜呑みにしていることを、あたかも自分自身の意見のように思い込んでいることだろう。

 

 

まるを描いた沢田本人は、一貫して静かで何もない場所にぽかんと立っているだけである。

まるで、台風の目の中にいるみたいに。

彼が黙ってじっとしている間に、

世間では感動の嵐が巻き起こり、

大きなお金が動き、

それっぽくラッピングして見せて価値をより釣り上げようとし、

あれこれしたり顔で論評し、

勝手に嫉妬され、

擦り寄っておこぼれにあずかろうとされ、

社会で起こっている問題をお前もないがしろにせず考えろって責められる。

 

そして、沢田が黙ってじっとしているうちに、やがて嵐が過ぎ去るみたいに、勝手にそれらの物事は消費され尽くし、飽きられあるいはほとぼりが冷め、まるで元から何もなかったかのようにあっさりと忘れ去られていく。

その毀誉褒貶には、彼の言動は一切関係がない。

全部誰かが勝手にやったことであり、沢田にとっては全部とばっちりである。

利益はほぼ全部誰かが持っていってしまったが、あやふやな「一時的な名誉」みたいなものと「製造物責任」だけは沢田が負わされることになる。

つまり、クレームは沢田にどうぞ、ということだ。

 

これに似たことって、私たちの身の回りでも、年中起こり続けている。

これは「バズる」ということの一連の動きそのものだから。

 

そんなものは全部まやかしだよ、と物語は伝える。

 

他者に判断や価値を開け渡すと、いずれ行き詰まる。

そもそも、他者は当然、彼らの利害や、感覚や、好みといった他者都合でジャッジしている。だけ。

一人の意見を、あたかも絶対的な、公平なジャッジのように装うから(そんなもの原理的に存在するはずがないんだけど)、勘違いが起こる。

本当は、そんなジャッジに対して引け目を感じたり、自信をなくしたりする必要はないのに。

 

「ご要望に応える」ことを生きていく上での指針になんてしちゃいけない。

誰がなんと言おうと、私はこれが好きなんだ文句あっか、と言って、自分の好きなことにてんでで打ち込んでおればいい。

人は他者と共に生きる以上、あらゆることに対する折り合いというものは必要になるが、基本的には多分そういうことなんだろうと思う。

 

 

と、なんだか堅苦しいことを書いてしまったが、とぼけた味わいのコメディ作品で、気負わず見られる。

いい映画って大抵そうだが、タイプキャストでなく俳優のポテンシャルをぐぐっと引き上げるようなキャスティングも素晴らしかった。

荻上直子監督の作品は、これからも心待ちにしていく。

 

ムズカシイとは何か

外遊びができないほどの暑さのために、夏のあいだ会っていなかった友達ファミリーと、近所の森に行ってきた。

自然のままの森に溶け込むようにして、ツリーハウスやアスレチックの吊り橋がある素敵な場所。

ハイジのオープニングみたいな大木に吊るされた長ーいブランコ、森の入り口にはヤギが放牧されている小さな一角もある。

子どもたちは終始コロコロと笑いながら機嫌良く遊び、友達のとこの下の妹が眠くなったからそろそろ帰ろうと促すと、兄は帰りたくないーとママの足にしがみついて泣いていた。

かわいいな。また来ようね。

 

友達夫婦とは、ほとんどはたわいもない子育て話をする仲だが、ふとした折にぐっと深い話になることもある。

基本は、日本の暮らし90点!と高評価の彼らだが、ヨーロッパ人である彼らが日本で暮らす難しさはもちろんあって、時々溢れ出るようなやるせない思いを聞く。

そんな彼らのここ最近の大きな悩みの一つが、彼らの息子が通う幼稚園との関わりについて。

それがいかにも日本特有の理不尽という感じなので、何の適切なアドバイスもできない。

私自身が、これまでこうした理不尽に向き合って克服するという経験をしてこなかったことに、改めて気付かされる。

すぐあきらめてその場からひとり去るみたいなことばっかりであった。

役に立てなくてひたすら申し訳ない。

 

彼らの息子が通うのは、自然育児を掲げるこだわりの小規模幼稚園だ。

少人数でもやはり日本の学校組織である以上、そこは日本社会的な性質をしっかり帯びている。

つまりその園では、園長の考えや園の方針に疑問を呈したり、お互いの希望や意見をフラットに話し合えるような素地がどうやらあまりないらしい。

 

たとえば、入園説明会では「ここは小規模だから普段から密に話し合って、子供の状態に合わせてフレキシブルな保育に対応します」と言っていたのに、いざ相談や要望を園に伝えると、全く取り合ってもらえない。

彼らが対話を求めると、園長は曖昧な笑顔で「考えておくのでまた来月話しましょう」と言う。

しかし、来月になって再度切り出すと、「来月話しましょう」とまたも言われてしまう。

しまいに「いや、あなたはどう思うのですか」と重ねて食い下がると、園長は「難しい」と言う。

他の保護者に相談しても、みんな「難しい」と言うばかり。

「みーんなムズカシイ、ムズカシイ。ムズカシイって何!?」とママ友は憤慨していた。

 

そんな彼らの話を聞いていると、私ってとっても日本人なんだなと実感する。

本音と建前がかけ離れていること(言行不一致)をあまり気にしなかったり、

いち人間ではなく、「立場」からものを言いがちだったり、

全体のために自分の考えを押し殺しがちだったり、

違うこと・異質なことに何しろ慣れていなかったり。

こうした日本的要素はそれぞれに興味深い論点を含んでいると思うけれど、それはまた別の機会に。

 

「ムズカシイ」とは何か、について考えたい。

あくまで個人的な考えだけど、それは「応答しないこと」をどこか軽く考えているということではないだろうか。

というか、「問われたことには何かしらのresponsibilityを果たす義務がある」とは、さほど思っていない人が、実はまあまあいるのじゃなかろうか。

もとより日本語は主語がなくても会話が成立する言葉だ。

だから、自分の責任において何かを返答しなければならないことに迫られる経験が、他言語圏の人々よりも少なくなる傾向はあると思う。

国内外の要人の記者会見などを見比べても、日本語って自分の意見か誰かの意見か曖昧なままに、答えたくないことには答えないで逃げ切るのに便利な言語だといつも思う。

 

友達夫婦は基本的に控えめな人たちであり、日本の暮らしに順応するために前向きに努力している。

けれど、自分の意見を積極的に言うことを避けて察し合う日本的なコミュニケーションのあり方や、同調圧力で異論をふさぎ、暗黙のうちに従わせようとする全体主義的なものごとの進め方には、かなり強いストレスを感じているようだった。

そして、彼らなりの異議申し立てに対して、どこからもまともな返答が得られないまま、ただスルーされ続けることに疲れと悲しみを感じているように見えて、つらい気持ちになった。

 

日本人は親しくなるのに本当に時間がかかる人たち、とパパ友は言う。

「まず8ヶ月間くらいはお天気の話。一緒に遊ぼうって誘うのは1年後くらいね」と冗談めかして言う。

親しいとか親しくないっていうエクスキューズなんて不要で、そんなに人付き合いに構える必要はないのに、多くの日本人はすごく構える、とちょっと寂しそうに言っていた。

ひとつには、彼らが白人の見た目をしていることはやはりあると思う。

彼らと一緒に公園で遊んでいると、時々独特の視線を感じる。

 

ただ、それは結局、単なる慣れの問題だとは思う。

「一番の問題は、日本人はみんな忙しすぎること」と友達夫婦は言う。

とりわけ小さな子供のいる共働き家庭は、日々の暮らしが朝から晩までやることでびっしりで、これ以上の何か別の予定を入れるような余地がないし、その練り上げられたフォーメーションを日々遂行していく、暮らしとはそれでいいんだと考えているように思えると。

 

確かに今、人と関わることに身構えたり、おっくうになっている人は社会全体でも少なくないと感じる。

特にコロナ禍以降は、誰もが異質な他者と関わるわずらわしさから逃げ、淋しいけど一人でいる方が楽だと考える向きが広がった。

でも、人が人と会って喋ったり、一緒にご飯を食べたりして、誰かとのんびり共に過ごすことは、いつだって人が生きるうえで大切な楽しみのひとつであるはずだ。

それがないのは淋しいことだと彼らは考えている。

 

今、ヨーロッパに住んでいる上の息子が以前言っていた。

日本では友達と遊ぶとは、ショッピングモールに行くとかカラオケに行くとか、「何かをする」ことだった。

でもフランスでは家にあるちょっとした食べ物を持ち寄って、公園の芝生に座っておしゃべりして過ごしたり、散歩したりして過ごす。前もってかっちり約束をしたりもしない。お金が全然かからないし、気楽なんだ、と。

 

私は目的や生産性というものにとらわれて、家族以外の誰かとただ共に過ごすということを、いつの間にか随分後回しにするようになっていたかもしれないな、とふと思う。

「明日遊べる?」「いいよ〜」っていうような気楽なやり取りをして、ただ集ってわいわい誰かと共に過ごすことはシンプルに楽しいことだったんだということを、なんでこんなにも忘れてしまっていたのだろう、って。

孤独から目を逸らし、スマホで余白を全部埋めて生きていくのか?

どうしていつも時間がない、時間がないと追われるような気持ちなんだろう?

いつの間にか巻かれているような、溺れているようなこの日常を、一度立ち止まってしっかり考えないといけないんじゃないだろうか。

あっという間に子供は育って離れていくし、あっという間に人生だって終わってしまうのだから。

ふと、そんな思いに駆られた。

 

 

今回久々に会って、「あれから幼稚園の件はどうなったの」とママ友に訊いてみた。

なんと園の譲歩が得られて状況が改善していた。

すごい!どうやって?と訊くと、どれだけごまかされても流されても「で、考えてもらえましたか?」って毎朝言い続けた。7日連続で!と彼女はいたずらっぽく、少し誇らしげに笑った。

「空気なんてあります?見えないですけど?」で押し通すのは、外国人だからできる技ってところはあるけれど、笑。

でも、本当に偉いな、自分と息子くんのために頑張ったんだね、と思う。

私も見習わなくっちゃ。

私なりのやり方で、理不尽に向き合っていきたい。逃げてるばっかりじゃなく。

 

友達ファミリーと別れた後、「この先小学校中学校、もっといろいろあるんだろうねえ」と呟くと、夫氏は「いやあ、小学校からはインター(ナショナルスクール)に行けばいいんだと思うよ。その方がいいよー」と言っていた。

まあ確かにそうか。

私としては、本人の希望ではなく幅寄せされるようにして外国人のための学校に通うことになるのだとしたら、少し残念だなと感じる。

願わくば、多様な背景を持っていたり、異なる個性を持つ子どもたちが楽しく通えるような、本当の意味でのインクルーシブな学校がもっと社会全体で増えるといいと思う。

 

均質的な環境を安全に思う人がいることは理解できる。

でも、私は子供の頃から社会にはいろんな人がいるんだっていうことに環境で慣れてしまっておくというのが一番いいんじゃないかと思っている。

気がつけば普通にみんな友達だった、というような環境がいい。

違うことによる軋轢は必然的に起きるが、学校はそこでの問題解決の経験を積むことのできる、そういう社会経験を積める場所であってほしい。

異質な他者と共に生きる術を学ぶことは、勉強よりもずっと大事なものなんじゃないかと思うから。

何より、人が一人ひとり違うことは、面白く豊かなことだから。

今さら子育て講座

末っ子が発達診断を受けるにあたって、市の子育て講座を半強制で受けることになり、今、第二回が終わったところ。

隔週で2時間の講座がなんと5回。私は相当しぶしぶであった。

だって「子どもを怒鳴ってはいけません」とか、それができれば苦労せんわいというような正論を今さら座学で聞かされるとか、罰ゲームすぎませんか・・・

 

でも参加してみたら、そういう分かりきったことをやる場ではなく、思いがけなく学び多いものだった。

脳の発達という観点から、幼児という生き物の特性を知った上でのアプローチも面白いし、何より「ままならない他者とのコミュニケーションをいかに和やかなものにできるのか」に対する人間心理をふまえたさまざまな工夫には気付かされることが多かった。

これは幼児だけでなく、老人や思春期の子どもや同僚やパートナーや、つまり他人全てに対して応用できる有益なメソッドだと思う。

それが、「子育て中でいっぱいいっぱいの親」に向けて、相当誰にでも分かりやすくポイントを押さえたものとしてツール化されている。ありがたい。

 

例えば、「今から私の言う通りにしてみてください」とメンターが言う。

で、「座らないでください」「目をつぶらないでください」などと指示される。

あれ、ちょっとギクシャクする。

自分がやってみることで、否定形で言われた言葉ってこんなに受け取りにくいのか、と驚く。

次に「ちゃんとしてください」って言われる。

もう苦笑するしかない。

ちゃんとってあいまいすぎる。

 

でも、これらは普段自分が子供に対してしょっちゅう言っていることである。

そっちは行かないでー!って言うのではなく、ドアの横に立ってね、と言う。

信号よく見て!じゃなくて、青に変わったら渡ろうね、と言う。

ちゃんとしなさい、じゃなくて、電車の中では大声を出さずにまっすぐ座ろうね、と言う。

そういう、否定形とあいまいを具体的な指示に変換するという小さな工夫で、相手の言葉がぐっと受け取りやすくなることを知る。

 

今回、個人的にすごく使えると思ったツールが、「そっかあ〜」である。

末っ子の言うことがどれほど無理筋でも、解決は一旦脇に置いて「そっかあ、まだ遊びたいよね」「そうだよね、分かる分かる」と、まずは受け取ってみる。

ものの試しと思って習ったままに家でも実験してみたら、あまりに効果が目に見えて笑った。

「もう十分遊んだでしょ」とか「食べ過ぎだからもうだめ」というような返しをすると、ますます激しくごり押ししようとするけど、「そうだよねー」というだけで、ひゅっと目に見えてトーンダウンする。魔法の言葉だー。

 

でも考えてみれば、誰に対してだって同じことなのだった。

その場で否定されれば誰でもカチンとくるから、受け入れられないことでもまずは「なるほど、おっしゃること分かります」と言うことなど、社会ではままある。

自分だって他人への気遣いでそういうことをあんまり意識もせずに自然にやっている。

でも、私は子供に対しては平気で雑に横暴になるのだ。

そういう自分の暴力性に気付かされてハッとした。

何も考えずにまずは「そーだよねえー」と言うことは、自分自身もふわっと緩めることも体感した。

つまりコミュニケーションからジャッジメントの要素を省いていくことが肝要なのだと思う。

小さなライフハックをゲットしたという気持ち。

 

今日の講義では「コントロールの効かない激しい怒りのピークをやり過ごすには」についての話が面白かった。

「カッとなった時、あなたはどうやってクールダウンしているか」と一人ずつ聞かれた。

その中で一人の方が、以前病院に勤めていた時のことを教えてくれた。

病院のカウンター内の仕事は、病や不快や不調を抱えた余裕のない人々とのやり取りになるので、嫌な目に遭ってしまうことがどうしても起こる。

そんな職場で彼女は、ドアの前で「ショートコント!」と自分に向かって小声で言ってから、いつもカウンターブースに入っていたのだという。

「ここから先起こることはみーんなショートコント」って自分に暗示をかける。

わあめっちゃいいな、ちょっと可愛いし。

この話を聞けただけで今日来た甲斐があったな、と思ったことだった。

 

 

私は常々思うのだけど、人生の困難さを軽くし、幸福度を大きく高めるのは、「小さな工夫」だと思う。

ひとひねりのある理にかなった言動をできた時、人生のクオリティーは目に見えてぐっと一段ひき上がる。

 

不満や不便や不足を、自分を鍛えることで克服しようとする、つまり(比喩的な意味で)何かしらの専門家になろうとするというアプローチも取りがちだが、多分なにもそんな困難でハードなまわり道をすることはなくて。

すごくならなきゃいけないってことはなくて。

どんな分野においても、ちょっとした工夫で解決する部分は相当あるように思う。

 

でも、工夫をするためには、その分野に関する基本的な見識というものが必要になる。

子育てで例えると、「思考・判断・自己抑制・コミュニケーションなどを司る、ヒトの脳の前頭前野という部位は、12歳頃までは非常に未発達で、12歳を境に急速に発達していく」という科学的事実を知っており、それを前提とできるかどうか。

 

子育ては待つことが大事、とお題目のように言われる。

では、なんのために待つのか。

「大人の都合で子どもの意思をないがしろにせず、焦らず余裕を持って接することで、子どもがの意思が尊重される」みたいなことが模範解答だろうか。

でも、子どもの脳の特性に即して考えた時、待つことへの根拠はだいぶ変わってくる。

つまり、「幼児は意思の方向転換に時間がかかる生き物だから、一定の時間がかかるものという構えで接する」というソリューションになる。

ここでの「待つ」とは、自らのエゴを抑え、子どもの意思に配慮し、辛抱強く寛容に接するということではない。

そんなしんどく、立派な親になれという意味ではなくて。

「待つ」とは、単にひとつの要望を通すのに一定の時間をかけるという意味のことになる。

 

日が暮れたから帰ろう、と末っ子に伝えて「やーだー!」と言われた時、普通はあれこれ技を繰り出すことでなんとか従わせようとするわけである。

なだめたり、すかしたり、脅したり、怒鳴ったり。

互いにままならないことに自分も末っ子もヒートアップして、大声でわーわーやりあうことにもなる。

そういう時、子供はどんなにしんどくても許してくれない鬼軍曹、理解不能な小さなモンスターみたいに思える。

 

でも。

技を繰り出す必要なんてなかったのである。

子供は脳の構造上、素早く方針転換ができない生き物である、それだけ。

なんとしても従いたくないのではなくて、従う気は全然あるが、ままならないだけ。

融通の効かない暴君ではなくむしろ「お母さんが喜んでくれることをして、ほめられたら嬉しい」素直でかわいい生き物なのである。

だから、一定時間、普通のトーンで「帰ろー」と繰り返しておればいい。

何回か繰り返したら、「んー分かったー」ってなるタイミングが来るとのんびり信じて。

 

子どもは、幼児の時でさえ、母を苦しめるモンスターではない。

基本、母親を喜ばせたい、笑顔が見たいと思っている。

私たちが思うより多分ずっと強く、純粋に。

幼児はまだ未熟だから大人のようにはそつなくできないけど、大人よりずっとひたむきに「わたしがぼくが、パパやママを幸せにしたい」って思っているのだ。

その考えに思い至ると、なんだか胸がいっぱいになる。

そんな風にかけねなく自分のことを思ってくれる人がこの世にいるって、なんてありがたい、幸せなことなんだろうなって。

 

頭では分かっているつもりでいたこのことに、改めて立ち返らせてくれた大事な時間になった。

とはいえそんな今日でさえ、末っ子との関わりはとてもほめられたものにはなってない自分に自己嫌悪。

めげずに一歩一歩定着させていこう。

そんな3人目の子育て中の日々。

抜けてなかった

しばらく前にどうやら鬱抜けしたみたいだって思っていたのだが、家庭内のもやもやが少し晴れただけで、結局心の中は曇り空みたいな日々を暮らしている。

若い頃はとにかく気分が短期間に乱高下して、それはそれでしんどかったのだが、歳を取ってくると、低調さが地味に延々と続く感じがある。

毎日朝起きた時、自分のコンディションを検分して、今日もlowかーいつになったら楽になるんやろうなあトホホ、と思っている。

たまたまヨシタケシンスケさんが自身の鬱気質について語ったインタビュー動画で、年々体力の低下と共に浮上するのが難しくなると言っていて、うんうん分かる分かるよ、そしてやっぱ身体はしっかり作っていかんとな、と思った。

 

先々週のこと。

私のひどい状態をなんとか改善してくれようとして、ある人がいっぱいアドバイスをしてくれるということがあった。

それで、半月経ってもまだぺしゃんこで、笑っちゃう。

『あなたは頭だけで生きている。

今ここにいない、他の誰かとか何かのことばっかり言っている。

何を話していても私は変わる気は全然ないと言われているみたい。』

全くおっしゃる通りで、ぐうの音も出なかった。

きわめつけは厨二病って言われた!笑。

厨二病ってなにかと聞いたら、相手は言葉に詰まって、Wikipediaを見せられた。

はああーそおっすかー。

確かに、こりゃ直接相手に向かって口に出せないわ。

 

なんとか浮上したくて、優しい友だちに甘えようと思い、咳鼻水で体調最悪なのに、珍しく末っ子を夜家族に預けてお気に入りのスペインバルで落ち合うも、うまく会話が続かないレベルで。

気まずくて酒をぐんぐん飲みすぎて、頭がぐるんぐるんしてきて、やばいトイレでちょっと吐いておこう、って思ったらトイレの扉がちょっとあいていて、狭い店内がさむいことになるという・・・

思い出しても恥ずかしくてぎゃーとなる。

でもそこは素晴らしいお店で、友達はもとより、お店の方も他のお客さんたちも、皆きわめてさりげなく何もなかったかのように振る舞ってくれたのだった。

 

早々に切り上げて、平謝りしながら解散し、夜の公園のベンチで少し酔いをさましてから家に戻ると、末っ子が大量のうんちとおしっこを床にぶちまけたらしく、夫氏がぐったりしながら後始末をちょうど終えたタイミングであった。

ごめんね手伝えなくてもうちょっと早く帰ってくれば、と言いながら、やっべ助かったと内心思った。

リビングの大変な臭いが惨事を物語っていた。

全部がんばって片してくれてありがとうよ〜〜

 

そういったカオスな出来事が数珠つながる感じで、いつも3ミリほど宙に浮いている。

それでも日々の食事をこさえ、掃除機をかけ、衣替えをし、畑で働き、無印良品週間を冷やかし、本を読み映画を見、なんとかつつがなく生きている。

 

さらに数日後から末っ子連れて飛行機に乗って帰省するらしい。ってひとごと感。

あり得るのか?

なんとかかんとかやるのみだわ〜

「ウィル&ハーパー」

 

2024年アメリカ/原題:Will & Harper/監督:ジョシュ・グリーンバウム/114分/2024年9月27日〜Netflix配信

 

今年61歳になる長年の親友が、コロナ禍でしばらく会えない間に手紙をよこした。

そこには「男として生きるのをやめた。これから自分は女として生きていく。名前は考え中」と書いてあった。

 

さて、どうしようか。

 

有名コメディ俳優のウィル・フェレルの身に起こった出来事を、愛らしいロードムービーの形にして私たちにシェアしてくれた、これはそういうドキュメンタリー映画だ。

 

16日間のカラフルな珍道中を通して、人間の素敵さだけでなく、醜さからも目を逸らさず描いている。

トランスジェンダー 女性として生きるとはどういうことなのか。

この作品は最高の教科書だと思う。多くの人が見るといいなと思う。

 

さまざまな性的指向を持った人がこの地球にはたくさん存在しているが、LGBTQA的に大雑把にカテゴライズした時、もっとも自死が多いのがトランスジェンダーだと言われている。

この作品を見ると、それがどうしてなのかが少し理解できる。

人間は、一人ひとりが固有の心と体を持つ。

自分の体は、自分が自分である限り、常に目に入り、触れるものである。

トランスジェンダーは、自分の身体が自分にとって受け入れ難い人たちである。

常に常に、不快だし、罪悪感を感じるし、他人を欺いて偽りの人生を生きていると感じている。

私がそうありたい私であろうとすると、他人は気味悪がったり、嘲笑したり、嘆いたり、引いたりする。

そうでなく、これまでと変わらず接し、温かい思いやりを示し、励ます人もいる。

けれども、これまで普通に付き合ってきた人がどんな反応を示すかは、話してみるまで分からない。

カミングアウトすることの最も大きな疑問は、『それでも愛されるか』。

 

作中、一番心に刺さった言葉。

(どうして他人と関わることを恐れてしまうのか?)

わたしは人々が怖いんじゃない。

わたしは自分が自分を憎むのが怖い。

お前は変人だ。ここで何してる?

そういう思いが心の中にある。

自分が自分を差別する心に苛まれることほど、つらいことはないと思う。

 

旅の最後、夕方の砂浜。並んで海を眺めながら、ウィルはハーパーにダイヤのイヤリングを贈る。

メイクやドレスがどうであれ、君には女性として自分を美しいと感じてほしい。

ただ君に伝えたかった。自分を素敵で可愛らしいと感じてもいいんだと。

その言葉を笑顔で聞くハーパーの横顔が、夕陽に照らされてとても美しかった。

 

人生には辛いことがたくさんある。

だけど、こんな友情を交わしあえる瞬間もある。

友情は、この世で一番素晴らしいものの一つ。

 

ああ、自分もできる限り人に優しくしたい。

自信のない人をほめて励まし、良いことがあったら共に喜び、寂しい人の話を聞き、そばにいるってことをもっとしていきたい。

そんな気持ちにさせてもらえる作品だった。

 

ウィルとハーパーが友人のクリステン・ウィグに突然電話をかけて無茶振りした旅のテーマソングがエンドロールで流れるのも、粋なサプライズだったなー。

なんて可愛らしい曲だろう、二人にぴったり。