みずうみ2023

暮らしの中でふと心が動いたことについて書いています

これから小旅行

外がだんだん明るくなってくるにつれ、鳥のさえずりが聞こえてきて、台風が去ったんだな、と思う。

よーし、みるみるやる気が満ちてきた。

ほんとうは昨日行く予定だった小旅行にこれから子どもたち一緒に行ってくる。

初めて車中泊というのをやってみる。

いろんなものが全部高くなって、旅行がすごく敷居の高いものになってしまった。

だから前々から取り組みたかった車中泊仕様にようやっと取り掛かった。

先月のある日思い立って、大きなホームセンターに車を停めて、ホームセンターと車を行き来しながら、必要なものを買い足しながら一気に作ってしまった。

YouTube先生に教えてもらったチープでかさばらないやり方を参考にした。こんなに簡単なことだったんだと思った。

そのあとは、ちょくちょくフライングタイガーでかわいいチェーンライトを買ったり、無印良品でクッション類を買ったりするなど、いろんなお店に足を運んでは、ちょっとでも居心地良く過ごせるように整えた。

車中泊は窓をいかに塞ぐかがネックになるんだけど、3coinsには車の窓にぴったりサイズの遮光生地のカフェカーテンがある。すばらしい。

これでこれから、どんなところへも行けるって思うと、心が広々する。

もっと早くこうすればよかった。どうして私は自分のしたいようにさせてあげなかったんだろ。

あんまり我慢しすぎて、我慢を我慢と認識したくもなくて、自分が何をしたいかももう分からなくなっていた。

私はどこにだって行けるし、なんだってやれる。

「Fleishman is in trouble」

 

2022年アメリカ/監督: ヴァレリー・ファリス、 ジョナサン・デイトン他/全8話

ジェシー・アイゼンバーグの近作をうかつにも見逃していた。

ともあれ、今このタイミングで、この作品に出合えて良かった。素晴らしい作品だった。

NYのいわゆるエリート層の白人社会が舞台なのだけれど、自分は彼らと本質的には同じ問題や苦しみを抱えているのだと感じる。

昔と違って誰かに自分の人生を強制されず、自分で自分の生き方をある程度選べる、一定の人権が保証されている素晴らしい時代を生きているということは、「自分の選択に責任を持つ」ことから逃げられないということだ。

それは、コインの表裏のようなものだ。

現代において多くの人は、自分の才能の有無や運不運、努力や勇気、やったことやらなかったこと、誰かとの関わり、善行や過ちや罪、そういったものの蓄積の上に自分の人生がある、という世界観で生きていく。

そんなきついことには意地でも向き合いたくないという人もいるだろうし、なんとなくぬるっと全てを受け入れられる人もいるだろうが、誰もが完璧とは程遠い人生を生きていく中で、自分なりの納得性を求めてもがいている。

 

物語の中の人々は、一見、欲望のままに振る舞っている、身勝手な大人たちに見える。

けれど、表面の動きを取り払って眺めた時、誰もが肥大したエゴと等身大の自分との間にギャップを抱えてそのことをまともに直視できず、常に強く正しく美しく勝ち続けなければならない世界でサバイブすることに疲れ果て、限界まで取り繕おうとしている姿が浮かび上がってくる。

そのいじらしいくらいに必死なさま、狂おしいほどの滑稽さに思わずしんみりしてしまう。彼らは私だ。

 

ラストにつながるリビーのモノローグは「アメリカン・ビューティー」のラストシーンにも通じる金言のような言葉で忘れがたい。

それは、こういうメッセージ。私なりの解釈を加えて置いておく。

 

ある種の人は、自分の人生がかつて願ってきたようなものになっていないと感じた時、それはこの結婚のせいで自分の才能を十全に発揮する機会を奪われたからだと、配偶者や子どもや家族に、自分の人生を阻害されたからだと考える。

しかし、それは誰かのせいではない。

どんな場合であれ、自分がその生活を毎日毎分毎秒、選んできたのだから。

 

自分自身の選択の結果として、今の人生になっている。

自分の失敗や自分の不全感を、「結婚」に責任転嫁しているだけで、実際は結婚は「だんだん歳をとっていく日々を共に重ねてきた」という共犯に過ぎない。

離婚したとしても、若返るわけではない。

自分の人生は、すべて自分で決めてきたことなのだということに向き合うしかない。

「何かひとつのことを選択するということは他の選択肢を狭める」ということは、避けがたいことなのだ。

若さの無知はそのことを知らなかった。それは仕方のないことでもある。

あらゆる選択肢が手元にあると思えるほど恵まれた自由な世界に生きていれば、歳を取りながら生きていくということは、永遠の選択肢を失っていくプロセスに他ならない。

 

結婚をした人には恋に落ち、結婚をした瞬間がある。

その瞬間を思い出せるだろうか?

思い出せなかったとしたら、その人は離婚することになる。

いつの間にかパートナーは人が変わる。

「仕事」は、彼らがそもそも結婚した理由を歪めてゆく。

あまりに惨めでやりきれないから自分の思いたいようにパートナーを誤解し、離婚すれば自分らしさを取り戻せると錯覚をする。

だが、自分もまた変わったのだ。

歳を取るとは、そういうものなのだ。

人は誰しも老いる。その厳然たる事実には誰も抗えないし、勝てない。

 

そう、人は決して若返ることはできない。

そのことを真に理解しないということは、今が幸せであるということに気付けないリスクを抱えるだけになるということだ。

常に「今」が一番若いのだ。

本当は、この瞬間も、この瞬間も、この瞬間も、この瞬間も、どんな良い思い出も、忘れたいようなひどい出来事も、恥ずかしいことも、愛を交わし合ったことも、すべてが紛れもない自分の人生であり、自分を形づくった愛すべき積み重ねだ。

 

なぜ人は幸せなのに、自分を不幸と嘆くのか。

なぜ多くを知っていることにこれほど戸惑うのか。

人は孤独のせいでも死ぬし、希望のせいでも死ぬ。

希望は人の目を曇らせ、勝てる見込みのない戦いに挑ませる。

時は無慈悲にすべてを置き去りにする。

けれど、自分の人生を誰かのせいではない、自分が選んだ愛おしいものだと受け止めた時、きっともう悲観することはなくなる。

末っ子、6才

8月の終わりに生まれた末っ子は、6歳になった。

日に日に赤ちゃんぽさが抜け、どんどん複雑な心を持った「男子」になっていく。

あとしばらくは幼児の可愛さを楽しめるけれど、ひとりの人としてリスペクトを忘れずに接しようと心がけているこのところ。

 

今週は、末っ子の下のちょうど真ん中の乳歯が2本、立て続けに抜けた。

わあおめでとう、大人の歯が生えてくるねえ、と皆で称える。

抜けた下の歯は空に向かって投げるんだよ。元気な歯が生えてきますようにっていうおまじない。そう教えると、「えーNくんみたいな方がいいー」と末っ子は不服げだ。

お友だちのNくんはスペイン人。スペインでは歯が抜けると枕の下に入れて寝て、朝になると天使だか魔法だかで歯がコインに変わっている、というならわしらしい。

歯が1本抜けるたびに500円玉がゲットできるので、Nくんはもうどんどん歯が抜けてほしくて、ぐらぐらを指でいじって大変なのだ、とママが苦笑していた。

 

いずれにしても、乳歯では虫歯ごと抜けてなくなってくれるが、永久歯はそうはいかないので、これからはますます歯磨き頑張らないと、と思う。

末っ子は感覚過敏で、手洗いの時の蛇口のシャワーの刺激を嫌うなど、特定の感覚を強く不快に感じる。

口の中を親に磨かれる仕上げ磨きもとても嫌がるため、歯磨きはお互いにストレスのかかる時間だ。

それで私もついつい歯磨きを飛ばしたり、いい加減にパパッと済ませてしまったりした結果、案の定虫歯に。

 

上の子たちの時は、乳歯で虫歯になったことがなかったので、自分を責めたりもしたが、そういえば上のふたりは仕上げ磨きが好きだったよなあ、と思い出す。

まま、しあげみがきしてー、と小さな歯ブラシを持って自分からとことこやってきて、私の膝の上に小さな頭をちょんと乗せて、あーんと口を開けて大人しく磨かれてくれていた。ああ、可愛かったな。甘い、優しい時間だったなあ。

それが末っ子は、顔を背けて暴れたり、なだめすかしてなるべく手早く磨いても、唾が口内に溜まる感覚が嫌いで、私の顔に向けて唾を勢いよく吐き出したり、口を固く閉じて歯ブラシを噛み締めてしまったり。うがいも今ひとつうまくできず、水を飲むだけになってしまったり。

どちらかというと格闘に近く、お世辞にも甘い時間ではない。

 

夫氏が、末っ子の前歯の間が虫歯で黒くなっているのを見て、「やだなあネグレクトの家みたいで」とうんざりしたように言う。

そっかなるほどなあ、と私は気付かされる。

特性のある子どもの世話は、お世話が難しかったり大変だったりすることが多いから、結果ケア不足がいろんな分野で起こりがちなんだな、と。

人並みのモチベーションと労力をかけるだけでは、全然お世話が足りないってことが起こる。

惰性の強い生活レベルの雑事は、せめて上の2人の育児の時と同じようにやってればよし、と自分に甘く考えていたところがあったけれど、やっぱりもっとしっかりケアしないと末っ子には足りないんだろうな、と思い直した。

例えば、来春から小学生になって、宿題やら明日の準備やらも出てくるけど、上の子の時と同じ感覚の関わりでは、色々困ったことが起きてくるだろう。

同時に、余力のない自分がこれ以上どこまでやれるだろうと自信がないし、無理なものは無理、できる限りのことをしてやるしかない、とどこかで諦めている自分もいる。

 

子どもの性質や子どもの扱いやすさは人によってあまりに大きく異なる。

公共の場で子どもを大人しくさせられる親はちゃんとした親であり、それができていないのはしつけのなっていない放任の親、みたいなことは、控えめに言って表面しか見えていない見当違いなジャッジメントだと思う。

幼児に対して親が強制できることは限られているし、大人にとって好都合な子どもが良い子というわけでもない。

レストランの席で、スマホを見ている親の向かいの席におとなしく座ってご飯を食べている子どもを見ると、うちとのあまりの違いに愕然としてしまう。

 

我が家が末っ子と一緒に行ける外食は、今も「はま寿司」ほぼ一択だ。

回転寿司は常に目移りするものに囲まれているエンターテインメント空間だし、ガチャができるし、個室で区切られているし、偏食の子どもにも食べられるものがある。

多動の子どもには、はま寿司を強くお勧めしたい。

ちなみに、くら寿司のあのお皿を機械に入れるやつは、いつまでも当たらないので逆にフラストレーションMAXになり、かえって危険である。

 

最近、とうとう保育園の歯科検診で引っかかり、重い腰を上げて歯医者通いを始めた。

これまでもう3回行っているが、治療はまだ始まらない。

一旦歯医者嫌いになると取り返しがつかないし、末っ子のような扱いの難しい子のことを初回の診察の時に理解してくれて、歯科衛生士さんが慎重にことを進めてくれているの、とてもありがたい。

1回目、口の中に器具を入れてみる。

2回目、水の出る器具を使ってみる。

3回目、仰向けになって口を開けて光を当て、エアーの出る器具を試してみる。

いよいよ4回目にしてやっと治療が始ま、ればいいね?という段階。

歯医者通いは当分続きそうだ。

 

末っ子は、最近ではもういろんなことを普通に会話できるようになって、赤ちゃんの会話がいつの間にかなくなってしまっていることを少しさみしく思う。

こないだお絵描きで「そらとほしときとつちをかいた」と聞いて、おお、風景を描くようになったのか、とじーーんとした。

つい最近まで、謎の霊魂みたいな、丸の中に二つのマルと一本線(目と口)のみのやつだけを延々と描き続けていて、それも面白くて大変良かったが、成長してるんだな、と実感した。

ちなみに、同じクラスのお友達は「スーパーマリオ」とか「夏休み(すいかとか花火とか盆踊りとか)」とか「プリキュア」とかを描いている。

文字を書く子もいて、すごいなあ、と感心している。

 

集団生活でいろんなことがあって、不完全な大人の集まりである家族との関わりでもいろんなことがあって、最近、心にいろんな傷を負っているだろう末っ子の横顔を時折せつなく見ている。

6才にしてもう、人生の喜びやつらさを感じるということが始まっている。

ここから先は長いのに、人間やってくことは大変なことだ。

人は本当は、元気に生きてるだけでじゅうぶん偉い。

 

悪意というものが彼の中にはまだ存在しないから、唐突な悪意や攻撃には、ただ呆然とかたまるか、笑うか、気持ちを切り替えて忘れたみたいにするか。

けれど、心に強いインパクトを残した悪意や刺を持つ言葉は、時間差で私や娘氏に向かってぶっつけられることになる。

言葉の意味分かって言ってる?みたいなことも多くて、腹をたてるよりは、ああそれを君はどこかで言われたんだね、と悲しい気持ちになる。

自分よりも弱いお友だちにも多分言っている。

それは加害でしかないし、良くない連鎖だから本当に悩ましく思っている。

先生にも頼りながら、試行錯誤の日々だ。

 

いくら抱きしめても、痛みは消えてなくなりはしない。

せめて、家では帰る場所の安心や楽しさを感じて欲しい、といつも願っている。

力不足でしかないんだけど、娘氏の力も借りながら、毎日あなたが大好き、かわいいよ、あなたがいい子だって知ってるよ、と伝えてる。

 

斎藤幸平さんが見せてくれていること

このところ、斎藤幸平さんの対談が面白くて、時々動画を見ている。

彼が出演するメディアは、節操がないほど幅広く、対話する相手も雑多なまでにさまざま。

私は、斎藤さんのおかげで、これまで敬遠してきたが初めてまともに話を聞くことができた人が何人もいる。

ひろゆき氏や東氏やリハックのようなメディアをずっと敬遠してきたけれど、好き嫌いは差し置いて、全く違う考えの人から学ぶべきことは当然たくさんあった。

斎藤さんが異なるスタンスの人たちの中に一人で乗り込んでいって、いじられたり、突っ込まれたり、茶化されたり、通じなかったりもしながら、同じ高さの目線でしぶとくコミュニケーションをつなげていこうとしているさまは、本当にリスペクトに値すると思う。

田嶋陽子さんという先人がいるが、なかなかできないことだと思う。

でも、それこそが対話だし、ものごとを本当に変えたいと思った時、それなくしては変わらないと改めて思う。

いわゆる左派リベラルと呼ばれる論客たちが、同じスタンスの人たちで集まって、高みの安全な場所から自らの正しさを追認し合うようなことに、結果的になってしまっていることに、もういい加減うんざりしていた。

今、ファシスト的な政権が、これまでの民主的、福祉的な社会の仕組みを軒並みなぎ倒すように壊していっているさなか、それでも左派リベラルの力は衰える一方だ。

国民と国の富を貪り、搾取しすぎの自民党への不信感や怒りはこれまでになく高まっていると思うけれど、既存の権力とは別の選択肢として選ばれるのは、野党時代の維新だったり、国民民主党だったり、参政党だったり、チームみらいだったり。

ここ最近、地方行政で共産党が支持されてきているけれども、国政ベースでは、基本的に大多数の人たちは、自民党以外に投票しようとした時、常に左派リベラルをわざわざ迂回するようにして、別の誰かに議席を託す。

そうした現象が、選挙のたびにずっと続いてきた。

しかし、期待を託されて力を得た者たちは、自らも与党になって権力をかさに来て横暴なことを始めるか、与党権力におもねて風見鶏のようにふらふら揺れて、自らの勢力拡大と保身に汲々としているかで、結局人々の暮らしは置き去りにされたまま。

社会は貧富の差を更に広げながら、とどまることなく沈み続けている。

結局、人々は毎回裏切られているも同然で、そのことに深い無力感を抱いている人も少なくないと思う。

 

左派リベラルは、「なぜ自分たちが迂回され続けるのか」にいい加減本当に向き合わないといけないのに、きわめて内向きで、同じ考えの人たちで頭を寄せ合って、賢そうな沈痛そうな顔で、正論で絶望を嘆き合っているようなものが多くて、これをどれだけ繰り返したとて、同じスタンスの人の外側にはほとんど届いていかないだろうなと思う。

私自身もエコーチェンバーの中にいて、どこまでスクロールしても、アルゴリズムは私が知らず知らずのうちに作り上げしまった堅牢な城の中の景色しか見せてはくれず、閉塞感と退屈を感じて、だいぶ前から見聞きすることをやめてしまっていた。

検索などで全く違うスタンスの人たちの言葉に触れようと試みたところで、それはそれで使っている言語や価値観への違和感やギャップがあまりに大きく、見続けることが難しい。

 

対話会のような場にも違和感を感じるようになっている。

あの、輪になって頭を寄せ合って、配慮し合いながら順番に話すという形式。

旗を立てた人に近しい属性やスタンスの人がどうしても固まりがちなこと。

結局空気を読んで場を乱さないということから自由になれないということが多いこと。

そこにはもう、今私が求めているものはないような気がしている。

 

身をさらしてアウェイな環境に自分を置いて、フランクに、それでいて相手におもねることはせず、とにかくフラットに対話をつなげるのだという斎藤さんの姿を通して、これまで自分には理解が難しいと感じてきた人が、どういう理路でそのように考えているのかの一端に触れることができて、久々にわくわくした。

確かにその通りだよな、なるほど、そういう考え方があったのか、これは試してみる価値があることだよな、と思えることも色々あった。

道すじは違っても、この社会をなんとか良いものにしたいという点においては、連帯できるんだという小さな希望さえ感じたし、斎藤さんの思想を受け入れて相手が少し変化するという化学反応も目の当たりにした。

 

オカシオ・コルテスにも感じることだけど、斎藤さんの持つゆるさと明るみ、陽キャ性みたいなものは、論客としてのすごい武器だと思う。

著作を読むと、誰より社会の未来に絶望しているはずなのに。

深い教養のベースを持つのに隙があって、ジャッジメンタルではなくシンプルな知的好奇心でもって話す。

だからこそ、詭弁とか権威的なものに引っ張られて本質からずらされることなく対話を維持することもできるのだと思う。

 

政治に限らず、どんな業界においても、似たようなスタンスの人で固められた言論環境に閉塞感を感じて、そこにそれなりの学びがあったとしても、見るのがだんだんしんどくなってきた。

仲間内で自分が絶対に正しい高みから正しいことを言い合って「おっしゃる通りです」とほめ合っていても、同じ考えの人を慰め、強化し続ける以上のことはなかなか起こらないな、と思ってしまう。

中には、高島鈴さんのように、安全で揺るがない高みからじゃない、自分が間違っているかもしれない、攻撃されるかもしれない、それでも言うんだという切実さで、自分の言葉で語りかけている人もいる。

そういう人たちは、自らの不完全さと偏りに自覚的で、傷付く覚悟を常に感じさせる。

けれど、多くはそんな傷だらけになるような勇気はなく、安全な場所で評論家みたいに振る舞っている。

 

左派リベラルは正しく真面目で厳しすぎるんです、とひろゆき氏は言っていた。

人は誰しも間違ったことを言ったりしたりするものなのに、常に完璧に正しく全方位に配慮的であるということを求める。

左派は、私こそはいつも正しく、抜かりなく配慮的な人である、というていで語ることになる。そうでないと耳を傾けてもらえないから。

でもだからこそ、そこから外れたことを言ったりしたりしたら、外部のみならず、それまでの仲間も手のひらを返したように責め立てる。正義の刃で叩きのめす。

そんなことでは誰ひとり生き残れないでしょう、とひろゆき氏は言う。

 

そうですよ、自分たちとは違うスタンスの人と対話をするというだけで非難されることもある。いつ炎上するかという薄氷の上に立っているような気持ちを常に持っている、と斎藤さんは答えていた。

輪の外で話すことに、間違うことに、そこまでのプレッシャーを感じないといけないなんて、どこか歪んでいるんじゃないだろうか。

 

いつも正しくあり、そのことによって属することができている。

そんなコミュニティに人は居たいと思うだろうか。

人はそんなに立派で完璧なものじゃない。

だから、ありのままではなくどこか無理をして潔癖を装って、宙に浮いたようなきれいごとを言う、みたいなことにもなってしまう。

かといって、結局これが人間だろ、自分さえ良ければいいんだろ、金が欲しいんだろ、というような露悪的な振る舞いも全然違う。

どちらも極端すぎる。

 

人は結局、どんな立派そうに見える人であっても、ひと皮剥けば大したものではないんだと思う。

逆に、どんなにしょうもなく思える人も、ただしょうもないと切って捨てられるような存在ではないんだと思う。

けれど、この世の中は、すごい人とすごくない人がいるという基本設定になっている。

だから、皆すごくならないといけない、と思っている。私だってそうだ。

それぞれに偏りやクセのある、不完全なただの人として、語り合うことができたらいろんなことが解決しそうにも思えるけど、これほど難しいこともない。

 

ジェントリフィケーション

コロナ禍で、私の住む町でも小商いが軒並み立ち行かなくなって店を閉め、建物ごと壊されるといったことがたくさん起こった。

更地になった後には、必ず大資本がやってきた。

高級そうなマンションが駅からのアクセスの良いエリアに幾つも建って、若いファミリーがおおぜい移住してきた。

マンション近くの公園で末っ子を砂場で遊ばせている時に、よそのお母さんと言葉を交わすと、口を揃えて世田谷からきましたー、杉並から来ましたー、てな具合で、東京からの移住者が目立って多い印象だ。

私の住む町のジェントリフィケーション(階層の上位化を伴う建物の改修や都市の再開発)の極めつけは、駅前の古い商業ビルを丸ごと潰して建てた、駅直結地上29階建てのタワーマンション。高層階は、何億もするような高級マンションだ。

駅の改札口とフラットに繋がった渡り廊下も新たに作られて、地上に降りずにマンションを出て30秒でJRに乗れる。

マンションの中には、保育園もある。部屋を出て、子どもをマンション内の保育園に預けて、そのままグリーン車に乗って都内に出勤する、きっとそんなライフスタイル。

うーんめちゃくちゃアーバンな感じだ。

 

建設中から空を塞ぐようにそびえ立つコンクリートの塊とクレーンをあおぎ見ながらため息をついていたが、いざ完成して人が住み始めてしまったら、わりとすぐに馴染んでしまい、そういう自分にももやもやしている。

テナントに美味しいドーナツ屋さんが入ったらいそいそと買いに行く私は節操がない。

 

こないだの週末、そのタワマン近くを歩いていたら、建物から若いお父さんと小学生低学年くらいの女の子が出てきて、彼らがまとっているムードが「東京そのもの」だったことにぎょっとした。

そのお父さんの着ていた服装もごく普通のTシャツ短パンなのに、何かが全然違う。

その親子を見た瞬間、自分が二子玉川や世田谷にいるのかと錯覚して、自分の方が場違いに思えて一瞬焦ってしまったくらいだった。

あれは一体なんなんだったんだろう?

 

分かりやすく目には見えなくても、人からはいろんなものがこぼれ落ちているものだと思う。

その人がアクセスしてきた景色や、その人がどんな生活圏でどんな暮らしをしているか。

人は思うよりずっと非言語的な情報を読み取っているものなんだろう。

その人の身体の輪郭の外に滲んでいる何かを、互いに相当直感的にキャッチしているものなのかもしれない。

 

コロナ以降、移住者がぐっと増えたせいか、地域のイベントがすごく混むようになった。

県立公園での盆踊りも、花火大会も、ここ数年ものすごい人出だ。

でも、先週の海岸での花火大会ではたと気付いた。

こんなにたくさんの人がひしめいていたにも関わらず、以前には感じられていたうきうきしたお祭りらしい感覚が、すっかり自分の中からなくなってしまっているということに。

花火大会の帰り道、国道を渡る横断歩道の信号待ちをしながら、夫氏が「なんなんだろうね、これ」と腑に落ちない様子で首をかしげていて、私は「うんそうだよね、すごい分かる」と答えた。

そのやりとりで、ここ数年たびたび感じてきた小さな違和は、やっぱりたまたまとか気のせいじゃなかったんだ、そのことをはっきり自覚した。

これは一体なんなのだろう?

いつから、なぜ、私の心は動かなくなってしまったんだろう?

 

砂浜では、すごくたくさんの人が賑やかにそこにいたけれど、空気が全然交わっていないのだった。

たくさん人がいるのに、「人が周りにいない」と感じる。

私たちはずっと変わらず、いつもの恒例行事に参加してきたけれど、毎年同じように花火はきれいなはずだけれど、なぜか心が動かない。

「わーきれいねー」って言ってみた自分の言葉が、どこか嘘っぽく響いて、ひやりした。

そういえば、以前はスターマインの後は、どこからともなく拍手が起こっていた。

それがだんだんと少なくなって、今年はフィナーレのスターマインの後に拍手をしていたのは、自分を含めて数人だけ。

それは何かをあらわしている気がする。


花火って、誰もが同じ場所に集って、みんな地べたに座って同じ方向に顔を向けて、ひととききれいな光を見て理屈なくただきれいだねと思う、そういうものだ。

そこに「そこにいる人たちとこの時間を共有している」という感覚が見当たらなくなった時、自由でうきうきした気持ちも一緒に消えてしまったみたいだ。

 

よく分からないけれど、「そこにいる人々が個々に消費している」という意識がついにその場の全てを覆ってしまったということなのかなと、漠然と思う。

ここら辺だって十分都会で、地方と言えるほどの地方ではない。

自分で作った野菜を食べたり(私はまあまあ食べてるが)、川から引いた水を飲んだりしているわけではない。

でも、ちょっとローカルな地域に移動すると、顔見知りかどうかではなく、持っているムードでよそから来た人が瞬時に分かるという感覚がある。

「この土地に根付いて暮らしている人のムード」みたいなものは、かろうじてここにも残っていたんだな、と逆に気付かされたというか。

でも、近いうちに徹底的に失われていくのだろうと思う。

この町のお年寄りがだんだん亡くなって、景色の中から見えなくなっていくにしたがって。

一歩家を出れば、東京のような無名的な都市空間が広がっている。

この町は、おそらくそんな場所になっていくだろう。

 

自分も独身時代に住んでいたから思うけれど、いわゆる「東京の人」が一番違うのって、一番極端な形で自分で生活を回していない、「自活」してないことだといえる。

色んなものに依存して、ありとあらゆるものを買って、作り込まれた消費システムに体全部乗っかって生活している。

もちろん日本の都市生活者は多かれ少なかれそうだけど、その究極は、東京なんだろうと思う。

一挙手一投足、あらゆる行動全てに課金が伴う社会。

あらゆる欲望を叶えるバリエーションが揃っていて、お金さえあれば選択肢を制限なく手に入れることができる社会。

逆にお金がなければ「それくらいのこと」もできずに身動きの取れない社会。

 

あまりに全てのコミュニケーションが「買う」ベースだから、人の気持ちさえも買って生きているような錯覚におちいる人も普通にいるのではないかと思う。

あくまで自分が合理的に選択して、自分にとって必要なものをピックアップしていく。

そういうマインドにおいては、非合理的なこと、ままならないもの、割り切れないことといった物事や人と共にあることには、とても耐えられないだろう。

不快なものは即座に切り捨てて、自分の世界から排除してリセットする。

消費者として生きるということは、とても便利で、しがらみもなく気楽なことだけれど、とことん孤独なさみしい生き方だとも思う。

ずっと元気で自力でなんでもできる状態の時には気が付かないけれど、そうじゃなくなった時にふと周囲を見回したら、誰もいないし何もない、みたいな。

それは、さみしいだけでなく、きわめてハイリスクな生き方だ。

 

人は本当は、いろんなものをギブアンドテイクして生きている。

気や、時間や、生活そのものといった目には見えない何かを人は絶えず「場」と交換しており、人と環境は混ざり合って循環しているのだと思う。

わずらわしさやめんどくささはあっても、そうしたことたちに思うよりも人は感応し、それらによって生かされている生き物なのだと思う。

必要なものを適宜ピックアップすればいいとする、あらゆるものを買えばいいとする「消費者」のロジックは、それとは対極にあるものだ。

 

でも、ジェントリフィケーションは、人にそのことを忘れさせようとする。

清潔で優しい地獄で町を覆う。

それにだんだん慣れて、流されて、忘れていってしまいそうな自分が怖い。

なんとかこの違和感を忘れずにいたい。抗いたい。

最近の娘氏

娘氏が、ある映像作家のアシスタントとして働き始めてから、数ヶ月が経っている。

昨年の秋から冬にかけて、娘氏が初めて作った1時間のドキュメンタリーを見て、自分のところで本格的に学んでプロになってみないかと声をかけてくれた。

今は、動画制作全般、特にカラーグレーディングを重点的に学びつつ働いている。

本人はスチール写真を頑張ってやっていきたいと思っていたが、父親と同じ映像制作の道に足を踏み入れることになった。

自然食品屋のバックヤードの仕事も続けていて、今はダブルワークをこなしている。

娘氏は、強いストレスがかかると自家中毒を起こして倒れたり寝込んだり昼夜逆転するし、生理痛もとても重いので、良い機会をもらったと喜びながらも、内心心配していた。

でも、映像の仕事が軌道に乗るにつれ、彼女はむしろ快活になってきたように思う。

職場が海辺の町の縁側のある古民家であったり、勤務形態が無理のないものだったり、何よりその映像作家のYさんが不器用で言葉は少ないけれど、気持ちの安定した優しい人であることは、彼女にとってとても幸運なことだったと思う。

以前のように食卓で長く話し込むことも増えて、娘氏が充実したいい状態にあることが私は嬉しい。

今は夫氏も仕事が佳境で、集中してひがな一日編集作業に取り組んでいる。

私自身も、なんとかかんとかしのいでいる。

今、我が家はまあまあの安定期。

やじろべえがゆらゆらしながらいいバランスで立っているみたいに。

 

久々に、娘氏の話。

そっか今こんな心境なのか、と思いながら聞いていた。

 

+++++++++++++++++

このところ、立て続けに市役所に行って、歯医者に行って、耳鼻科に行って、眼科に行った。

それって自分の中ではすごいことなんだよ。

申請や手続きや病院に行くことは、私にはすごくハードルの高いことだから。

 

多分、Yさんのところで働き出したことで、何かが楽になったんだと思う。

なんて言うか、これまでの仕事は、「代替可能な従業員」じゃん。

自分でなくてもできる仕事。

その中でも自分は仕事ができない部類にいて、他の人にフォローしてもらいながらやれているという感覚を持っていて。

全く役に立っていないわけじゃないど、あんまり役には立っていないと思いながら働いてきた。

Yさんのところでは、私が何を感じていて、どう考えているか思っているかを結構積極的に聞いてくれたり、意向を考えて進めてくれたりする。

今が初期段階ということもあるけれど、何かを無理強いされたり、サービス残業をするようなこともない。

「自分である」ってことを求められて、働くことができている。

 

常に「今何をやっているの?」「これからどうするの?」という周りからの言葉に答えることができなかった。

自分が何者であるかいうってことをいつも問われるし、何者かであれとか、役に立てとか、迷惑をかけるなっていう無言の圧を感じてきた。

「あなたは何か変なんですか?」「あなたは何か大変なんですか?」っていう言葉に対して、「違います」っていちいち答えないといけないっていう圧を色んなものからひりひりと感じる状況の中で、それらを回収してくれる文脈が突然現れたというか。

だからこれが果たしていいことなのか?という気持ちもあるんだけど、楽にはなってるんだよね。

 

結構楽しいんだよね、カラーグレーディングを学ぶのは。

写真のレタッチはずっと個人的にやってきたことだったし、自分の表現したいことと近い。たまたまなんだけど、本当に。

後ろ盾が少ない状況でなんとなくアルバイトをして、ぎりぎりのやり方でなんとか暮らしを立てられるような、展望があるかないかみたいな感覚だったのが、「自分が何かをできるようになる可能性がある」ということを感じられるようになった。

それが精神的な余裕につながっているのかなと思って。

 

何かが良くなると思えない状況では、行動しようとは思えないんだよね。

だから今の状況に感謝を感じつつも、でも、本当は何もできなくても生きていていいはずなんだとも思う。

そう思える自分であって欲しいけど、でも結局のところ、人から眼差された時に、なるべく景観に馴染むような自分でいたいという感じがある。

何か訊かれた時に、「へーそうなんだー」ってスルーしてもらえるような言葉を持っていたいということ。

「ん?この人は大丈夫な人かな?」って思われるような感じであるっていうことに、だんだん疲弊していく。

だから今、いっときの休息をもらっている感じ。

 

自分はずっとさ、川を横切って歩いているような気持ちだったの。

自分を押し流そうとする強い水圧をずっと感じてきたなかで、Yさんが「ここに橋を作っています。上がってきませんか?」って言ってきて。

上がったら突然水圧がなくなって、水圧に抵抗するために奪われていた体力が生まれて、何かをやる余裕が出てきた。

そのことが、あまりに今までと違いすぎて、恐怖も感じてる。

こんな感じで大丈夫かなあっていう、幸福であることの不安定さに耐えられないみたいな。

まあでも、良くなって悪くなってというのを繰り返すだけっていう話なんだとも思う。

 

自分が水圧を感じていたことをすぐに忘れてしまうから、でも水圧を感じながら生きている人はいて、自分だってある種本当はそうというか。

今はYさんの作った橋の上に乗っているにすぎなくて。

自分では何もしてないっていうか。

 

もう7年も「あなた何者ですか?」と問われることをやってきたから、それなりに強くはなった。

最近は、学校へ行った方が良かったとか行かなかった方が良かったみたいなこと自体をようやく考えなくなった。

それでも、すがれるものができた時にはすがってしまうなーということを感じている。

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20歳になった娘氏にとって、学校に行かなかったこと、行けなかったことは、ようやくだんだんと遠いもの、良くも悪くも過ぎ去った過去になりつつある。

生きられる、生きていけるという安心感を娘氏に与えることができなかった親の自分を不甲斐なく思うし、娘氏が感じてきた水圧、そのことに常に体力や気力を奪われてきたことについて、想像力も配慮も足りなかったなあと思う。

娘氏を楽にしてくれた雇い主のYさん、娘氏にドキュメンタリー制作を依頼し、発表の場を作ってくださったFさんにも改めて感謝の思い。

 

個人的な関係性がある場合は別として、社会が定めた規定ルートに乗らず、何の肩書も特技も特に持たない人に対してスルーできる人は、この日本の社会では少ない。

自分も含め、立場や属性や上下関係なく、ただの人と人として接することに慣れていない社会だ。

いちいち自分のありようをいぶかしく思われたり、詮索されたり、変な気の使われ方をすることは、まだ自己の脆弱な十代の少女にとっては、それなりにしんどいことだったろう。

この7年間、彼女は身をもって「自分は通常のレールから外れた人なんだ」ということをいろんな場面でひしひしと感じてきたんだろうと思う。

 

その中で、もがきながら、閉じたり開いたり、傷ついたり喜びで有頂天になったり、色んな失敗もしながら、彼女はいつだって自分の心に問いかけて一つひとつ選択し、何より生活を軽んじることなく、一歩一歩やれることをやってきたな、とそばで見ていて感じる。

身体が壊れて無理がきかないから、本当はもっとガツガツ突き進みたかったフェーズもあったけれど、焦りたくても焦れないから、あきらめることも少なくはなかった。

でもその分結果的に、慎重でよく考えた判断ができたこともある。

 

結果オーライと雑にまるめることはけしてしないけど、どんな今でも今を正解にしていくことができる力を、彼女はいつの間にか持っていて、そんな自分をだんだん信頼することもできるようになっている。そのことを誇らしく思う。

ひとまずここまでよく頑張ってきた、差し出されたものは遠慮せず受け取るが良かろうよ、と母は思っている。

 

資本主義の現在地②

思い返すと、1980年代の日本では、資本主義を批判する人なんてほとんどいなかった。

その頃、日本は誰もがそこそこ豊かな「総中流社会」と言われていた。

冷戦によって、西側東側という概念がアメリカによって強く刷り込まれていて、資本主義(リベラルで自由)=「アメリカ」、共産主義(全体主義で独裁)=「ソ連」と安易なレッテル貼りをして、ソ連のような社会は貧しいし抑圧的で最悪、自分たちは豊かで便利で自由なアメリカ型社会に暮らせてラッキーとおおむね誰もが単純に思っていた。

「世界はだんだん良くなっていく」という根拠ない楽観が社会には横溢していた。

「しのごの言わずに頑張って働けば、結果は後からついてくるんだ」という考えの元、人々はがむしゃらに働いた。

お金で買えるものはどんどん増えていったし、買える商品の選択肢もどんどん増えていった。

やがて狂騒的なバブル時代があって、それがほどなくはじけた。

 

この段階で実は、囲いの中の人々の範囲は大きく狭まった。

この国の労働者は、共存共栄の存在ではなくなった。

資本家(企業)の利益をこれまで通り確保するために、その分労働者に賃金を払わなくて済むような体制に社会の舵を切った。

フリードマンやハイエクによる「新自由主義」は、資本家の強欲を正当化するうってつけの思想として歓迎された。

そうして資本家が労働者に正当な賃金を払わないで済むための法律、「派遣法」が決められた。

はじめは限られた専門職に限定されていた非正規労働は、確信犯的に徐々に職種を広げ、やがて全職種が合法化された。

今の日本では、全体の4割、女性の労働人口の半数以上が、低賃金で自己責任的な雇用形態の非正規労働者として働いている。

 

それでも、数年前まで私たちの自覚はあくまで薄かった。

なんらかの当事者にならない限り、自分たちはまだまだ豊かだと認識している人が多数派だった。

国民の大多数が本当に貧しくなってしまったことを否応なく自覚したのは、全ての商品が一斉に値上がりを始め、円安がもはや回復の見込みがないことが確定した2022年頃のこと。

気づいた時にはもう海外旅行なんてそうそう行けないし、子供を大学にやろうと思ったら、生まれてから積み立ててきた貯金の全てをはき出さねばならないみたいなことになっていた。

 

今年の2月に圧倒的多数の議席を得たことをきっかけに、「囲いの中の人々」に買われた自民党、維新の政治家たちは、囲いの外にいる私たちへの搾取をさらに強めてあらゆる方面で増税をし、新たに徴収できるための税制度を新設し、これまで受けられてきた福祉を軒並み削り、年金の受給開始年齢を引き上げるといった暴力的な政治を大胆に始めた。

取り立てた税金は、本来使われるべき国民のための福祉サービスにはろくに還元せずに、「囲いの中の人々」を豊かにするためにひたすら貢ぐ。

同時に、悪政に対して当然高まる国民の不満を見越して、言論統制、国家による国民のデジタル監視システムなど、政府への不満や不信を権力によって抑圧するための法律をいくつも可決させた。

その上で、権力が国民を恐れることなく自らの権力をいつまでも安定して維持し、やりたいことを好きなようにできるための、劣化した憲法に作り変えようとしている。

今こそが最大のチャンスだとばかりに、この国の有形無形の財産をなりふり構わぬ勢いで売り払い、破壊し、すげ替えはじめた。

それが、2026年の日本の政治で起こっていることだ。

 

こうした政治の変化は、日本だけのことではない。

1%の富裕層は、気候崩壊によって、近い将来、食糧やエネルギーをはじめとしたさまざまなものが全員に行き渡らなくなっていくことが確定的な未来予測であることを、リアルにクールに受け止めている。

その上で1%の富裕層は、さまざまな国の政治権力と癒着し、国の政治をコントロールすることで、その国の共有財産や、その国の労働者達が生み出した富を自分たちだけに集中させる体制を作り込むという方針で突き進んでいる。

そんな理不尽で暴力的なことをするためには、「人権」や「民主主義」といった思想は邪魔でしかない。

成熟した市民的知性も教養も、助け合いの心も公共心も、「一握りの勝者だけに富を集めること」をどのような観点からも正当化してはくれない。

公共心のある、国民のために働く政治家は、資本家の自己利益をさらに増やすことを後押ししてはくれない、むしろ彼らの立場を危うくする。

だから、資本家は常に非民主的でファシズム的な政治家とのみ結託する。

世界中の先進国の政治が右傾化していることの裏側には、資本家の強い意図がある。

 

良識も倫理も、1%の富裕層にとっては邪魔なもの。

SNSやYouTubeをはじめとしたインターネット上で、これほど過激な言論が全く規制されずに野放しになっているのは、確信犯的なことで、テック富豪たちはシンプルにどんどんやればいいと思っている。

良識や倫理がどれだけ壊されても、自分は特に困らない。

むしろ、そのほうが儲かるから。

フェイクやヘイトを織り交ぜた、ネガティブで過激な情報を大量に垂れ流して、人の脳をドーパミンでハイジャックし、長時間SNSに釘付けにすることで、サイト滞在時間を増やすことができる。

イーロン・マスクは、明らかにツイッターという公共空間を私物化して、私益のために、進んでより醜悪な、暴力的な場所にしている。

彼がやっていることは、公共心のかけらもない、資本家の振る舞いそのものだ。

その一点だけ取ってみても、彼は人類全体にとって有害で公共心を欠いた存在と言えると思う。

 

資本主義はまだまだ新たな「外部」を探し続けている。

でもそう簡単には見つからない。

それで、今起きつつあるのが、大規模な「外部の再編成」。

それが一通り済めば、また今ここは保たれる。

またしばらくの間。

 

私は別に資本主義が嫌いなわけじゃない。

資本主義がなかったら発展しなかった文化に救われてもきた。

私はやっぱり、資本主義は、本質的に自分で自分を食い潰す自己破壊的なシステムなんだと思う。

新たな外部の発見が追いつかなくなった時、破綻は必ず起きる。

遅いか早いかの違いでしかない。

(映画「急に具合が悪くなる」より)

 

蛇が自分のしっぽを自分で食い尽くす、最終段階に資本主義は今、足を踏み入れている。

救いのないことに終始したが、今自分たちがどこに立っているのかを認識することから目を逸らしていては、反撃のしようがないから、あえて書いた。

この現実を踏まえて、さあ自分はどう生きたいか、それを考え始めてる。