この一週間あまり、インフルエンザで曜日も時間も分からないようなカオスな日々を過ごしていた。
おとといあたりからやっと咳込まずに夜の間眠れるようになって、ようやく病気のサイクルから抜けられた感。
とはいえ、家族みんなが順番に体調を崩しているので、通常モードに戻るまでにはもうしばらくかかりそう。
脂汗かいてのたうち回っている間に11月は去ってしまったなあ。
そろりそろりとまた日常を取り戻していかなくちゃ。
今回、病気がとてもきつい経過を辿ることになってしまった理由の一つに、抗生物質を飲んでしまったことがある。
はじめに訪れた近所の内科で、マイコプラズマ肺炎と診断され、3日間飲み切りの抗生物質を処方された。
薬を飲み切ったあたりから、信じられないほど体調が悪化した。
全く横になれないほど激しい咳が出て、それが何日も続き、咳のしすぎで骨が折れそうだったし、何日もまともに寝れなくて心も折れそうだった。
熱も40度近く、一体何が起こっているのかと這うようにして別の医療機関にかかったら、インフルエンザと診断された。
そこの医者に「ウイルス性の病気にかかっている時に抗生物質を飲むと、身体の抵抗力が下がってしまうので飲んではいけません」とさらっと言われて愕然とした。
今さらそんなこと言われても!泣。
普段ほとんど病院に行かず、薬も飲まない私が、本当に久々に飲みたくもない抗生物質を飲んでみたら、このざまである。
今回、夫氏から何度もプッシュされて渋々病院に行った。
安易に他人に従って私らしくないことをして、ひどいことになってしまったということが、無性に悔しかった。
夫氏のせいで、とか言いたいのではなく。
彼の心配やケアに感謝しているけれども、いつだって自分は自分の一番の味方でいなくちゃいけない、ということを割とあっさり手放してしまったこと。
直感は知っていたのに、外側の目を気にして、自分にとってみすみす間違ったことをしてしまったこと。
そんな自分自身がくやしかった。
そもそも、インフルエンザに限らず、すべての人にとって正しい病気の対処なんて存在しない。
全員が異なる前提(身体)を持っているのだから。
例えば、夫氏のように、日頃からいろんなケミカルを取り揃えていて、自分の体調に合わせてこまめに薬を摂っている、それで健康が維持できているということは彼にとって真実だし、効果ももちろんあると思う。
でも、私自身は野口整体的な考え方がしっくりくる。
つまり、病気の自然な経過を辿ることで身体は適切に休息し、解毒し、歪みを直すという考え方。
だから、日頃の働き過ぎ、動き過ぎの状態を強制停止させ、滋養のあるものを食べ、静かに寝て過ごしたいと思う。
しかるべき時間が経てば良くなっていくから、とゆったり構えて。
同じ病気でさえ、その人にとってどういう対処がいいかは違うし、正解も不正解もないのだと思う。
時々、このことについては考えるんだけど、今回も、改めて夫氏との考え方のベースの違いを思った。
彼はネガティブな状態を「間違ったこと」と捉え、ただちに解消されなくてはならない、と考える。
つつがない状態をプラスマイナスゼロ地点(普通こうであるべき)とし、想定外の良くないことは減点方式で捉える。
確かに、その考え方のベースがあるので、いろんな物事が高い水準で維持できているのだと思う。
彼にとっての快適を維持するためのタスクは生活の中にいっぱいあり、彼はそれを几帳面に遂行している。
でも、私はあんまりそういう風に考えていない。
一般的に良くないとされる状態や物事は、私にとっては間違っている / いないというような問題ではない。
どんな状態も、選びようなくただある。だけ。
生きている中で、(比喩的な意味も含めて)病気の状態に陥る。
何らかの必要や必然があってそういう変化になる。
その状態は私に何を求めているんだろう?と考え、その求めることを、私は身体にしてあげる。
うまく書けないが、どうもそういうことなんじゃないのかな、と感じる。
不快で都合の悪い状態を対処療法的に叩く、あるいは消そうとすることは、身体の要請を無視し、自分の身体を「私の都合」に暴力的に屈服させようとしていることのように思える。
そんなことをしたら、私がかわいそうじゃん、て思う。
今更ながら、この世界観の噛み合わなさって結構大きいなと思う。
夫婦としての生存戦略的には、ま、それでいいのかな・・・。
今回の教訓。
自分の一番の味方は自分と肝に銘じ、基本は自分の身体が求めるようにしてあげたい。自分に優しくしてあげたい。
他者の助言にはオープンでありたいが、自分の体のあるじは私なので、そこは誰に対しても死守していく。
必要ないものは必要ないってちゃんと言う。
そういう小さいことの積み重ねが、自分なりの心身の健康につながっていくのかな、というイメージを持っている。