みずうみ2023

暮らしの中でふと心が動いたことについて書いています

「そして彼女たちは」「オールド・オーク」

「そして彼女たちは」

2025年ベルギー・フランス合作/原題:Jeunes mères/監督:ジャン=ピエール・ダルデンヌ、リュック・ダルデンヌ/104分/2026年3月27日〜日本公開

「オールド・オーク」

2023年イギリス・フランス・ベルギー合作/原題:The Old Oak/監督:ケン・ローチ/113分/2026年4月24日〜日本公開

先週は、ダルデンヌ兄弟とケン・ローチの新作を立て続けに見た。

ダルデンヌが人間をシビアに残酷性をもって描き、ケン・ローチはよりヒューマンで人の善性をまなざすという味わいの違いはあれど、彼らの映画に対するスタンスは、かなり似通っていると言っていいと思う。

その時代時代の問題を抱える社会のはざまに落ちて苦しんでいる小さな個人に光を当て、一体なぜ彼らがそのような苦境にあるのか、そこにある社会構造を物語を通して可視化する。

ダルデンヌやローチが見出すのは常に、理不尽さと必死に闘っている、何かしらの弱者性を持ったごく普通の人たちだ。

時代の犠牲者のような、組織の後ろ盾を持たない脆弱な個人。

社会から透明人間みたいに扱われている人たち。

 

そうした弱い立場にある人たちを、生々しい心を持つ一人の尊厳ある存在として、彼らの人生の文脈を丁寧に描き出す。

人は、ある特定の属性やスティグマを持つ人を前にすると、ステレオタイプな枠組みに入れて、人を決めつけ、分かったつもりになってしまいがちだが、一人ひとりの文脈を知ることで、思い込みや偏見は揺らぎ、その人々の中に自らを見、人間をやっていくのは誰にとっても楽なことじゃないよね、という諦観に似た思いを寄せることになる。

そして、物語の中の人々、ひいては自分自身を苦しめている(でも目を逸らしてきた)社会構造と、はたと目を合わせることになる。

 

「弱者とは何か」という命題を持つのも、彼らの映画に共通するテーマだろう。

人は弱さや経済的、知的、身体的脆弱さのために、あなどられ、排除され、暴力をふるわれたり、無視されたり、搾取されたりすることが起こる。

弱さのせいで、惨めで辛い、恥ずかしい、悔しい思いをすることはいろいろある。

けれど一方で、弱さを持っているからこそ、優しさが生まれ、連帯が生まれる。

そして、人々が連帯した時、共に支え合った時、彼らはすでに無力ではない。

弱さを持っているからこそ、与え合う状況が生まれる。

弱さによって人はつながり合う。

そう考えると、誰にも迷惑をかけない強さみたいなものって、孤独なものだなと思う。

 

だから、あるものはあるのだ、とちゃんと声に出して言うこと。

そこにいる他者をちょっと気にかけ、共に食卓を囲んだりすること。

そうした地味で極めて個人的なことたちって、忙しい毎日の中で、あるいは他者との軋轢を恐れて、ついおろそかに、後回しにしてしまう。

でも本当は、自分の存在をかけて守り抜かなくてはいけないほど重要で、なにより優先すべきことなんだと思う。

それらを軽視したり、自分に閉じこもることがつのると、自分の存在を肯定できなくなっていく。

人は、他者なくしては、誰かに愛を向ける、誰かから愛を受けるということなくしては、生きられないのだという大原則が、彼らの映画の中にはいつも見える。

 

ダルデンヌもローチも、弱者を弱いだけの者としてはけして描かない。

むしろ、弱さを持つ者だからこそ持ちえる他者への想像力。

控えめで他意のない、いたわりの優しさと思いやり。

「持たない者」おのおのが自分にできることを持ち寄る中で、うねりのように生まれる活気。

そういう、弱いからこその強みをしっかりと描く。

もっと賢く、強く、すごくなれ、と常に駆り立てられているような世界において、それがどれだけ慰められ、励まされることか。

 

人は弱音を吐いたり、どうしていいか分からずおろおろ歩き回ったり、泣いたり、腐ったりする、頼りない生き物だが、他者の存在によって何度でも持ち直す、しぶとさを持つ。

人は、迷惑をかけたりかけられたりしながら、互いがつっかえ棒になって、温め合うように生きる。

どんなに社会が世知辛くなろうとも、人間性を手放すことはない。

手放したらそれは生きているということにはならないから、手放すことはできない。

私たち全員の体内には、温かい、同じ赤い色をした血が流れている。

 

彼らの人々への力強い眼差しは、一人ひとりの人間が内包する生き物としてのパワーへの確信と畏怖の念に裏付けられている。

私は、いつもいつもそこにすごく動かされる。

全てのものごとがものすごいスピードで移り変わっていき、あらゆるものが泥にまみれていくような時代にあって、彼らが変わらぬ頑固さで存在してくれて、あるものはあるのだということを静かに力強く見せ、人の尊厳を描く作品を作り続けていることは、なによりの希望だなと思う。

 

自分が、どちらの側に立ちたいか。何を大事に生きたいか。

彼らの映画は、いつも再確認させてくれる。

「ハムネット」

 

2025年イギリス/原題:Hamnet/監督:クロエ・ジャオ/126分/2026年4月10日〜日本公開

魔女は、なぜ人々から疎まれたり怖がられたり、ヒステリックなまでに弾圧される対象になったのだろう。

それはきっと、彼女らが(そもそもが男性に従うべき)女であるにも関わらず、王とか村の掟とか家父長制とかのあらゆる人間社会の枠組みに決して絡め取られない、誰にもかしずくことない、なびかない、恐れない、つまり支配不可能な存在だったからだろう。

 

魔女たちの上に君臨できるのは、自然だけ。

彼女らは、人間社会に生きる人々とは全く別の文脈の中で生きていた。

 

アニエスは、森の土の上をころげまわるようにして、五感であらゆることを感じて体全体で味わい、満たされ、喜びや悲しみを感じ、「生きる意味」みたいなものによりかかることをせず、自然に抱かれるようにして、無心にひたすらに生きる人。

そんな彼女のありようは、16世紀イングランドにおいてでさえ、粗野と見下され、忌避された。

でも、アニエスは全然粗野ではない。

確かに彼女は自分の見た目を気にして着飾ることに何の興味もなかったので、いわゆる洗練された見た目をしてはいなかったけれど(物語の初めから終わりまでずっと同じ深紅のドレスを来ていた)、薬草の知識をはじめとした、暮らしを営むための過不足ない技術に、むしろ誰よりも長けていた。

 

日本語の「人間」という単語は、6〜7世紀に中国から伝来したと言われる。

元々は、その漢字が示す通り、人の間つまり「人の住む世間」「世の中」という意味を持つ仏教用語だった。

人と人間(じんかん)は、あくまで別のことを指す別の単語だった。

それが、いつの間にか変わっていき、江戸時代(17世紀〜)以降、人のことを「人間」と表現するようになった。

言語とは人間の思想を反映しているもので、これは人と社会を一体とみなす人々の認識のあらわれであると思う。

日本であれヨーロッパであれ、近代以降の世界においては、この思想を共有せず、服従しない存在は、人々にとっては冒涜であり、脅威であり、ゆえに敵としてみなされるリスクと常に隣り合わせになったといえる。

 

人類は、他の動物とは比べ物にならないほど圧倒的に繁栄して、物質的豊かさや文化を獲得してゆくにつれ、全てが人の力でコントロールできる、人こそが世界のルールであり、支配者であるかのように振る舞うようになっていった。

人が一番重要で価値があり、他の動物や自然は、人のための「資源」とみなす考え方。

 

現在では、(口ではいろんなきれいごとを言うかもしれないけれど、)私たちみんな、程度の差こそあれ、基本的にそれを信じて疑わない前提で言動している。

もちろんその考え方に批判的で、それとは違う生き方をしている人はいるけれど、あくまで少数派といえると思う。

実際に、取り返しがつかないほどの深刻さで地球の自然環境が壊され続けて、その中で多くの動植物が絶滅したり、激減したりしているのだから。

あらゆることが人間都合で、よりありていに言えば資本原理に従って、それ以外に考慮すべきことは特にないという前提で、決定され、実行されていく。

そこに「人は自然によって生かされている存在だ」という視点を見出すことは、特に都市部においては難しい。

 

産業革命が起こったのは18世紀だが、16〜17世紀の絶対王政時代に始まった工場制手工業(マニファクチュア)が、資本主義の原点と言われる。この時代に「資本家」という存在も生まれている。

その16世紀のイングランドに、今もなお世界で最も卓越した劇作家・詩人として君臨し続けるシェークスピアという「クリエイター」が生まれたことは、きわめて示唆的といえると思う。

そして、「ハムネット」はあくまでマギー・オファーレルによるフィクションを交えた物語ではあるが、シェイクスピアが強く惹きつけられた女性が、自身とはまるで正反対のような、自然と深くコミットする、地にどっしりと足をつけた生き方をする魔女的な女性であったことは、とても興味深いことだ。

 

経済的に発展し、生活が豊かに楽になる素晴らしさを享受できるようになる一方で、人は自分自身の生を見失っていくレールに入っていくことにもなった。

この時代はその分かれ目のような時期だったのではないだろうか。

 

家族や小さな共同体の中での自給自足に近い土地に根差した生活からだんだんと離れ、都市に住み、あらゆるものをお金で買う生き方への転換。

自給自足するための大地から離れ、都市の貨幣経済に依存して生きるということは、文字通り足が宙に浮いたような、よるべない生き方といえる。

そこでは、何もかもをお金で買うのだから、よりお金を稼げる人間にならなければならないし、「稼げない人間には価値がない」という考え方も生まれる。

お金はひとりでに湧いて出るものではなく、他者からの何らかの要請に応えることや、評価されることによって「与えられる」という形で得るものである。

それゆえ、社会的成功、他者からの称賛、有名性といった他者評価や他者基準を重視する価値観も登場し、人々はそれに翻弄されるようになっていく。

シェイクスピアは、新しい時代の黎明期において、まさに最高の他者評価を得て、社会的・経済的成功を手にしたひとりとなった。

 

共同体から離れ、個人として生きることは、人々をあらゆる因習から解放し、自由にし、人間至上主義的な万能感をもたらしたが、その一方で、拠り所のない不安と、肥大した自我とは裏腹の、自分をちっぽけで無価値な存在と感じさせようとする何者かとの闘い、つまり他者評価との闘いを、深い実存的苦しみを、人々の心に徐々に植え付けることにもなった。

だからこそ、この時期を境に、人はフィクションなしには生きられないようになっていったのではないだろうか。

つまり、たくさんの人々が、シェイクスピアの描く物語を切望したからこそ、彼はその名を轟かせることになったのであって、それ以前の時代には、フィクションがそこまでは熱狂的に求められることはなかったのではないか、と。

誰もが共同体的生き方をしていた頃は、アニエスのように、フィクションを必要としない人が大勢いたのではないだろうか。

 

あまりに有名な「ハムレット」の一節、「生きるべきか死ぬべきか、それが問題だ」は、作品の中で、生きる苦悩にあえぐシェイクスピア自身の口から漏れ出た切実な叫びとして描かれる。

しかし、アニエスにそんな悩みはそもそも存在しない。

「べき」もなにも、彼女は、ただ生きているから生きている。

お腹が減ったら食べ、排泄し、男と交わり子を産み、子を育て愛おしみ、自分と家族にとって心地良い暮らしを工夫してつくる。

これほどかけ離れた者が同時に存在した、過渡期ともいえる時期が16世紀のイングランドだったのだろう。

 

アニエスは、物語の初めから終わりまで、一人の家来も持たない女王のような人だった。本当に、ほれぼれするような。

作品の冒頭は、鬱蒼とした森の中。

二股に別れた巨木をカメラがじっくりとパンアップした後、その木の根元にくるまるようにして眠るアニエスの姿を見せる。この物語の全てを伝えているような、美しいシーン。

やがてアニエスが初めての子を産気づいた時、その巨木の根元に彼女は一人で向かい、動物のように雄叫びを上げながら子を産み落とす。

その、畏怖を感じるほど、堂々としたさま。

 

夫のシェイクスピアは、子が生まれて間もない、アニエスの文脈に包まれて生きている短い期間は、身の回りの幸せを感じて安定していた。

けれど彼は、アニエスのようなあり方に強く憧れながらも、自身はそれに充足して生きることは結局できなかった。

彼は身体性で生きる人ではなく、知性と言葉を使って自己表現することで生きる人だった。

そして彼は、物語ることについて、誰よりも素晴らしい才能を発揮することができた。

むしろ、アニエスという存在を通して、近代的自我と自然との間に誰よりも引き裂かれて葛藤した人だからこそ、暴力的な父親を筆頭とした共同体の抑圧に誰よりも苦しんだ人だからこそ、これほど素晴らしいドラマを生み出せたのかもしれない。

 

アニエスは、どこか死んだばあちゃんを思わせた。

私のばあちゃんも、まじないのような仕草が普通に日常の中にあったし、野草をすりつぶして食ったりしていた。

ばあちゃんが本を読んでいるところを、見たことがない。テレビドラマに夢中になっているのも、見たことがない。

憧れ、尊敬しながらも、私は同じようには生きられない。

そんな私のような浮ついた生き方をする人々のことを、ばあちゃんはけして好きになれないことが、彼女の態度からはっきり伝わっていたので、私はそのことがずっと悲しかった。

 

でも今、私は現代的な生き方もやっぱり好きだって改めて思う。

自然も好きだけれど、自然以外のいろいろなものにも美しさを感じ、アートを楽しみ、お金で自分の好きなものや体験を手に入れたり、自分の好きな格好をして、世界のいろいろなところへ行く自由もあるって、どうしたって素晴らしいことだ。

何より、映画や本の世界が大好きだ。

 

この作品は、フィクションが持つ前向きな可能性を思い出させてくれた。

もちろんそれは、人を操作したり騙したりする意図を持った巧妙な物語ではなく、個人的で、切実で、祈りのような思いがこもった物語だ。

(全く成り立ちの異なるものを「物語」という同じ単語であらわすから混乱するのだと思う。別の言葉があってほしい)

物語は、客観性の力によって、思い込みを外して、ありのままの現実を照らすように見せてくれることもある。

物語に入り込み、そこで追体験するように自分の感情を深く感じきることで、何かが解決しないままに、自分を癒してくれることもある。

物語の中の他者を通じて、自分以外の誰かに思いを馳せて、そこにある愛や優しさや思いやりにはじめて気付けるということもある。

それは間違いなく、フィクションが持つ素晴らしい側面だ。

 

アニエスとシェイクスピアというひと組の男女の生きざまを通して私が思ったこととは、どちらか一方だけを採らねばならないということではない、ということだ。

というか、どちらも私の中にある。それは豊かで、ことほぐべきこと。

 

バランスを取るのは難しいことだけれど、複数の異なる文脈をいつも自分の中に持っていたい。

今は資本主義的な原理が力を持ち過ぎているけれども、その文脈の中だけで生きるのではなく、地に足のついた、あらゆる比較や評価から離れた、ごくパーソナルな文脈を、自分の中にいつも持っておくということが、きっと私にとって、とても、とても大事なことになるだろう。

デモに意味はあるのか

水曜日、全国150箇所で大規模な反戦デモが行われた。

直前になって、私の家からほど近い場所がエントリーしたことが分かったので、夕方から家族で参加してきた。

駅に着いたらすぐに、前から行きたかった老舗の中華屋さんに直行し、まずはたらふく美味しいものを食べて、ちょっと遅れて参戦した。

 

デモに参加するのは特定機密保護法反対の時以来だから、ほんとうに久しぶりのこと。

国会前は何万人という人出だったみたいだけど、私の行った場所は主催者発表で180人程度のこじんまりとしたものだった。

マイクの声すら小さく、不器用でおどおどとしたスピーチは何を言っているのかどうもよく聞き取れないくらいで。

それを、通路の両脇に立ち並んだ人たちが、ネットでプリントした可愛い反戦イラストを黙って片手に持ち、もう一方の手に持ったペンライトをふるふるふる、と小さく揺らして応えている。

そのなんともぎこちないさまが優しくて、微笑ましかった。

同時に、本来こんなことにちっとも慣れないような人たちが、「戦争反対」という基本すぎるメッセージに連帯するために、やむにやまれぬ気持ちで路上に出てきているというこの狂った事態に、情けなさや憤りを感じていた。

 

行き交う人々は、ほとんどが早足で通り過ぎていく。

「きっしょ!まじきっしょ!」と大声で言い捨てていくサラリーマン風の男性がいた。

2秒くらい空気が凍ったが、皆静かにスルーした。

 

1時間程度のデモの終盤、小学生2人の男の子を育てる若いお父さんが声を詰まらせながらスピーチしたのが心に残った。

会社帰りにここに来ました。

こういう場所に来るのは初めてのことです。

自分は、子供を戦争に行かせるために育ててるんじゃない、冗談じゃない。

恐ろしいことが急速なスピードで進行しているのに、会社や、周囲の人たちの反応はあくまで鈍い。

自分の方がおかしいのかと思うくらい。

こうして声を上げることで、今無関心に通り過ぎていく中の一人でも、少し心に留めてもらえたらと願っています。

皆、拍手とペンライトの光で彼の悲しみに連帯していた。

 

帰り際、娘氏は「しばらくデモから遠ざかっていたけれど、ちょっと元気出たからまたちょくちょく行こーっと」とのんびりと言っていた。

デモとしてあんまりいいことかどうかは分からないのだけど、盛り上がりの少ない、静かで、近所で疲れないような感じのデモだったのも良かったのかなと思う。

 

デモって激しいものと思われがちだが、もちろんそういうデモもあるとは思うが、参加している人のスタンスは、怒りだけではないと思う。

皆、自分の絶望にあらがい、自分を健やかに生きさせるために行動しているということがまずあると思う。

人は社会の中にあって、個人の感情をさまざまな形で抑圧されている。

権力や声の大きい者たちは、自らに都合の良いように、手を替え品を替え、倫理やルールを操作しようとする。

戦争反対って無責任に言えばいいってものでもないだろう、とか。

いろんな大人の事情があるから仕方がない、とか。

したり顔で押しつけてくる何かに思い切り良くあらがい、社会圧や「常識」に大人しく従っている自分を解放する。

その表現のひとつが、平和的なデモだと思う。

今起こっていること、今ごり押しで進められようとしていることを、私はちゃんと見ているし、全く賛成してませんから、と自らの行動で表明する。

自分と同じような気持ちを抱えた生身の人間たちが、確かにこの社会のそこここにいるのだということを自分の目で確認する。

不器用でも切実な声をあげているそれらの人を励まし、温かい連帯を示す。

自分の心に正直に行動すること、語ることは、人にとって何より大切なことのひとつだと私は思う。

 

先週、妹と話している時、「デモってなんか意味あるん?」と素朴に聞かれた。

その時はちょっと面食らって「いや、めっちゃあると思うよー」としか言えなかったんだけど、上に書いたような個人的な必然性に加えて、デモには、きわめて現実的な効果も確実にある。

なぜなら、SNSの台頭で双方向性は増したものの、依然としてマスの空間で日常的に人々に意見や考えを表明しているのは、権力者と知名度を持つ人たちとメディアの人間に限られている。

公空間とは、実は圧倒的に一方的なもので、非常に不公平なものだ。

権力や知名度がなく、メディアの人間でもない99%の人たちは、自らの意見や考えを広く表明する手段を持っていない。

99%の人たちが、「私はこう思っている」ということを社会に広く表明しようとした時にできることの数少ない、最も一般的な手段は、束になってデモ、あるいはストライキをすること。

それがニュースとなることで、社会にたくさんの人々の思いが可視化される。

ばかみたいに当たり前のことを改めて書くが、それ以外に一般の人たちの意思表示の方法がほとんどないからこそ、世界中の人々が事あるごとにデモをしている。

 

そんなことをしても無意味だ、恥ずかしいことだ、暴力的なことだ、などというメッセージを、そりゃ権力側は出すであろう。

平和的なデモ民をあたかも暴徒のようにみなして、なんとか警察権力によって遠ざけさせようともする。

でも、政治が国民に暴力をふるっていることを、彼ら自身がよく自覚しているからこそ、政治家はデモを怖がる。

 

国会議員は、私たちの税金で期間限定で雇った人に過ぎず、支配者ではない。

衆参合わせて国会議員は全部で713人しかいない。

さらに安倍政権以降になし崩し的に認められてきた「閣議決定」の構成員は、たった14人から19人だ。

3万、5万、10万という人々が実際の身体を持ち寄って、国会前を取り囲んで「勝手なことをするな、我々は認めない」という表明をし続けたら、それが713人の政治家とりわけ内閣にとって脅威にならないわけがない。

だからこそ、揚げ足を取られぬようあくまで平和的に、無理がこないよう、楽しく面白く、しぶとくプロテストし続けることがむしろ肝要だ。

 

そしてもうひとつのデモの重要な意味は、国内のみならず、世界中に人々の民意を示すことができることだと思う。

独裁的な政治権力は、自分たちの正義を国民の総意であるかのように語る。

そして、政府と国民は別の存在だが、ごっちゃにされがちなものでもある。

「アメリカ」と「イスラエル」がイランを攻撃した、と言うと、アメリカ人やイスラエル人を憎むべき存在と思いそうにもなる。

でも、アメリカ全土で、テルアビブで、とんでもない数の人々が集まって、軍や警察に脅かされながらも必死で政府に反対しているデモのニュース映像を通じて、私たちは今起こっていることにさまざまな複雑な思いを馳せることになる。

 

4/9の日本全国で行われたデモに対する大手メディアの報道は、到底不十分なものだった。

日本の報道機関が、多くの人々が政治に疑問や違和感を持っているという事実を出来るだけ報道したくないというスタンスは、もはや隠しようもなくなっている。

けれども、CNNをはじめとした海外の大メディアは、国会前のデモのニュースを通じて高市政権とはどんな政権なのか、今日本に何が起こっているのかを率直に報じていた。

日本のデモを知った韓国の人々による温かい連帯のムーブメントも起こっている。

世界中に軽蔑されているトランプに媚びたり、不用意な発言や謝罪を頑なに拒む姿勢で中国との関係を急速に悪化させている首相下にある日本にあっては、デモがニュースになることは外交的な意味さえ持つ。

 

だから、デモには意味はある。めちゃくちゃある。

世界中の事例がそれを証明している。

デモに参加したくてもできない人はたくさんいるし、デモが肌に合わない人がいるのも当然だし、本当は同様の効果を持つ他の手段がもっとあったらいいのだけれど、分かりやすくマスに訴えられる手段は、今のところ現実的にはあまり他にない。

 

「高市やめろー」と私たちは声を上げるけれども、首相ひとりが辞めることが根本的な解決でないのは皆分かっている。

今の国会議員の大多数が、ある種の人々の利益を体現するために買収された人たちであるという意味において。

分かっていながらも声を上げるのは、それは私たちが主権者であるという認識を取り戻すことに他ならないからだ。

だから、デモは日常と地続きであるべきなんだと思う。

 

この2ヶ月、私はほとほと絶望してきたし、すでにいろいろ手遅れなことも起こっている。

でも、だからこそ機会を見つけてまたデモには行こうと思ってる。

 

(2026/4/13加筆訂正しました)

鳥たち

だいぶ暖かくなり、数日前から早朝に近所を散歩することを再開している。

今朝は嵐の前のような不穏さで、ぞくぞくするような気持ちよさを感じながら歩いた。

空気は生暖かく、風が強く、どこか遠くで金属が擦れ合って軋むような音が聞こえる。風の強い日はこの音がいつも聞こえるのだけど、いまだに原因をつきとめることができない。

いろいろなものが吹き飛ばされたり、倒れたりしているのを見るのも面白い。

雲に覆われた薄暗い空を見上げると、電線にとまる小鳥の黒いシルエット。

少し大きめ、でもひよどりほどではない。多分むくどりだ。

 

昨日は、農園の小屋の周りで切り裂くように飛ぶ2羽のつばめを見た。

何度も頭すれすれの低いところを飛び交う。

つばめは、私が特に好きな小鳥のひとつだから、職場に巣を作ってくれたらとても嬉しいなと思う。

今年もつばめたちが、律儀に南の島から海を渡ってやってきたんだなあ。

そう思うと、季節がちゃんと巡っていることを感じて心が安らぐ。

昨日は七十二侯では「玄鳥至 つばめきたる」。自然は精密。

あんな小さな体で、南シナ海、東シナ海を越えてマレーシアやフィリピンやインドネシアからはるばる飛んでくるなんて、本当にすごいことだ。

渡り鳥たちは、自分たちにとって快適な環境に沿って、空をまたいで旅して生きている。

パスポートも書類もビザも税関もお金も関係ない。

命がけではあるが、体ひとつで、ただ自由に移動していることをうらやましく思う。

人間もそうであれたらいいのにな、と。

 

最近、収穫をしている畑の隣の川沿いの土手で、高価そうな望遠レンズのカメラを三脚に立てたおじいさんたちがじっと寡黙に川面を狙っている。

「何が撮れるんですか」と聞いたら「カワセミだよ」と教えてくれた。

私は今年はまだ目にしていないけど、夏場は水辺で時々カワセミを見ることができる。

深い青色が本当に美しく、小さくてすばしこくて愛らしく、見かけたらいつも心が踊る。

 

水路にはカモがのんびりと浮かび、畑の土手にはキジが歩いている。

オスは孔雀のように華やか。

田んぼにはひょろ長い足の白鷺。

目が痛くなるほどの白さで、軽トラが近づくと、ばっさばっさと大きな羽を広げて優雅に飛び去る。

なんて美しいんだろ、といつもどきどきする。

いずれも、家の近所では見られない鳥たちで、畑で働いてて良かったなあと思う。

 

気づいたら、私は普段から、いつも鳥の声に耳を澄ませているみたいだ。

鳥の声さえ聞こえれば、少し安心することができる。

場所によって、国によって、鳥の声は全く変わるのもおもしろい。

鳥の声に耳を澄ませることは、今ここに自分があることを感じられることだ。

「プロジェクト・ヘイル・メアリー」

7

2026年アメリカ/原題:Project Hail Mary/監督:フィル・ロード、クリストファー・ミラー/156分/2026年3月20日〜日本公開

 

原作も未読で、前知識なしで観賞。

1980年代のすごくヒューマンなハリウッドSF大作を堪能したという心持ちで、劇場を後にした。

まるで「E.T.」と「バック・トゥ・ザ・フューチャー」と「インディ・ジョーンズ」を足して3で割ったみたいだ。

ディストピアSFにはもういい加減辟易しているし、コメディとしても面白い作品だった。

いささか直球すぎる表現に、気恥ずかしさも覚えつつ。

 

それにしても今、こういう素直で直球なメッセージをもつ作品が、人々から諸手を挙げて歓迎されているということは、アメリカの人たち、ひいては世界中の多くの人たちが、この人間社会の世知辛さや下劣さにいかに深く傷ついているかのあらわれなんだと思う。

もちろんそれは今に始まったことではなく、2023年に「Everything Everywhere All At Once」を見た時もすごくそう思ったけれど、3年前に比べても、アメリカと世界を取り巻く状況は、目も当てられないほど悪化の一途を辿っている。

 

人間が本来、こんなに醜いものではあるはずはない。

今こそ愛と信頼と友情を取り戻したいんだ。

人々がそう願うのは、至極当然のことだ。

 

いつからだろう、こんなにも「自分さえ良ければいい」がまかり通るようになったのは?

少なくとも、1980年代のハリウッド映画にはそういう思想はまだなかったんだな、とこの作品を見て思う。

「自分さえ良ければいい」という考え方は、本当はめちゃくちゃ格好悪いことなのに、大金持ちや権力を持っている人々が、堂々と毎日のように「自分さえ良ければいい」というメッセージを世界に向けて発信し続けている。

それを見聞きさせられることは、人として善く生きたいと願う一人ひとりにとっては、まるでDVみたいなものだ。

 

この作品は、グレースという「古き良きアメリカンヒーロー」の姿を通して、人としてかっこいいとはどういうことかということを、なんとか取り戻そうとしている映画のように私には感じられた。

仰々しい使命感とかなくて、ちょっと意気地がなかったりして。

でも限定された状況を、けして自暴自棄になることなく、持てるものを全て駆使して、工夫の力でたくましく乗り越えていく。

いつもどこか楽観的で、肩の力が抜けたとぼけたユーモアがあって、チャーミングでセクシーで。

オープンマインドで友情と信頼を大事にする。

そして、命に変えてもdignityを守り抜く。

あの頃子供だった私は、そんな「アメリカンヒーロー」に憧れてやまなかった。

 

しかしそんな本作も、グレースを強制的に宇宙船に閉じ込めて送り出したその他の地球の人々のありようは、チャーミングでもフレンドリーでもない、「仕方がない」を言い訳にした効率主義で非人間的な人々なのが、いかにも今の時代のリアリティだ。

 

そんな世界にあっても、我々はなんとしても「人間味」というものを死守するんだ。

2026年は、みんなで寄ってたかって、切実にそのことを表現する1年になるんじゃないかと思う。

井戸の底に降りていく

暖かく晴れた日曜日。

桜はニ分咲きといったところ。

保育園で同じクラスのお友達のお母さんが海浜公園に誘ってくれていたので、末っ子は前の晩からうきうきだった。

朝目覚めた時も、ベッドからがばと起き上がるなり「ね、ぼくきょうどこいくの?」とにこにこして訊いてきたくらい。

一晩中ずっと楽しみなまま寝て起きて幸せだねえ、ふふ。

 

私自身は、2月からしつこい咳が続き、身体のどこかが常に痛く、気持ちも冴えない日々だ。鬱期と半ばあきらめている。

太陽が降り注ぐ春の公園で、特に親しいわけではない保育園のお母さんたちと、ちょこまか動き回る子どもたちを見守りながら笑顔で雑談できるような気力は、今の自分にはとてもなく。

でも、あんなに喜んでる末っ子のためにスイッチ入れてがんばんなきゃ(泣)と思っていたら、朝ご飯を食べながら夫氏が、今日は自分が引率するから大丈夫だよー、と言ってくれた。

一拍おいて、いやいや私が行くよ、と返すも、最初から自分が行くつもりだったから、と当たり前みたいに言った。

私はもぞもぞ小声で、じゃあありがと、と言った。

安心してどっとゆるみ、こんなことにこんなにもほっとしてしまうだめな自分が情けなくてちょっと泣けた。

 

こういう時の夫氏のただ簡潔にきっぱり引き受ける感じは、私が病気の時の対応だ。

そっか今の私って病人に近い感じなのか。

元気のない時ほど人に頼れないことも含めて分かってくれていて、何も言わずに負荷を分け持ってくれる人がいつも隣にいることは、なんてありがたいことなんだろ。

私も微力ながらできる限り支えたい、といつも思っている。


数日前から久しぶりに「ねじまき鳥クロニクル」を読み返している。

感情が動かず、暗いトンネルの中にいるみたいな停滞が続き、自力ではそこから抜けられそうもないような行き詰まりを感じた時、私はいつも「ねじまき鳥」を読み返してきた。

今ではこの作品は、私をかたちづくる作品のひとつ。

流れに逆らうことなく、上に行くべきは上に行き、下に行くべきは下に行く。

上に行くべきときには、いちばん高い塔をみつけてそのてっぺんに登ればよろしい。

下に行くべきときには、いちばん深い井戸をみつけてその底に下りればよろしい。

流れのないときには、じっとしておればよろしい。

(「ねじまき鳥クロニクル第一部泥棒かささぎ編」p.97〜98)

この長い物語を読むことは、井戸の底に降りて、独りで膝を抱えて座り込んでいるような時間を過ごすことに似ている。

無心に物語を追い、不条理や不可解もただかたまりで受け取る。

私はいろんな物事に対して分かろうとする悪いくせがあるが、いくつかの村上作品に対しては、全然分かろうと思わない。

それは私にとって特別で大事なことだ。

 

孤独で、非情で、理不尽で、とても淋しいこの物語は、分かりやすく人を前向きにしたり、救ったりはしない。

でも確かにこの作品でしか憩えない何かがある。

この物語のもつ何かが、自分の心の深いところにある領域にそっとさわると、ようやく深く息をつけるような心持ちがする。

読み終わった後も依然として落ち込みは続くし、なかなか現実世界に戻ってこられなくて日常生活的には何かと不便だ。

でも、忘れた頃になってふと気付く。

自分が少し生き直し始めていることに。

 

このふた月くらいは、失語症みたいな日々だった。

個人的な状況のあれこれがあり、それに追い討ちをかけるような世界で起こっていることの酷さに、全然適応できないまま、引きずられるみたいにして暮らしている。

私はいろんなことを理解するのが遅いから、ぽかんと口を開けてただ見ているしかなく。

でも、どんなに鈍くても、今目の前で起こり続けていることがどれだけ異常でむごく、道理を欠いたことかくらいは分かる。

言葉を失ったまま、いろいろなことに傷つき、悲しみ、深く怒っている。

その反動みたいに、美しいものや優しいものに接すると、すぐ涙が出てくる。

涙もろく、感じやすくなっている。


「失われた30年」を経て、私たちがこれからいよいよ抜き差しならぬ不遇の時代に入っていくことを、今漠然と感じている。

戦後に生まれ、当たり前のように平和と、民主主義と、自由を享受してきた。

2000年代以降は下降の一途を辿りながらも、ほとんどの人が一定の人権を守られ、機会を与えられ、豊かさと選択肢を行使してきた。

戦後の日本社会に生まれ育つということは、人類の歴史から見ても、それなりに恵まれた幸運な部類だったと言えると思う。

 

私たちがこれまで享受してきた戦後のこの国の仕組みは、「敗戦と310万人の戦死者」という究極の悲劇的な状況と引き換えに手に入れたものだった。

日本国憲法は、デモクラシーにおけるひとつの理想形であり到達点といえる極めてすぐれた憲法だと思う。

人権とは何かを知らず、近代史の基本的な知識なく、政治にも社会にも興味が薄い人たちが多数を占める私たちの社会にはでき過ぎた憲法と言えるかもしれない。

そもそも、意義や意味がよく分からない、よく知らないものを守ったり闘ったりすることは、可能なのだろうか。

 

公共の福祉に基づいて一定の公平性が担保された戦後日本の社会システムは、自民党政治によって絶えず切り崩され続けてきたが、戦後80年が経ち、戦争を直に体験した人たちのほとんどがこの世から去ると同時に、雪崩を打つような崩壊を始めた。

「戦後」というボーナスタイムは、とうとう終わろうとしている。

 

もちろん、社会がどうあれ個人は幸せに生きられるし、私も自分なりの幸せを生きたいと思う。

けれど多分、これまで我々が目をそむけてきた自己欺瞞に真っ直ぐ向き合い、一旦ちゃんと絶望して、その上でまた立ち上がり、できることを粛々とやっていくしかないんじゃないか。

あくまで個人的な考えだけど、今、そんな風に感じている。


半年前には、日本が戦争に巻き込まれるかもしれないなんて、さすがに夢にも思わなかったな。

「平和」って、その中にいる時はいかにも退屈なきれいごとみたいで、ありがたみも薄いものだ。

でも今、突然突きつけられるような不安を感じて辺りを見回したら、夢中で遊んでいるうちにすっかり日が暮れて、もうほとんど何も見えなくなった公園の真ん中に一人立ちすくんでいるみたいな寄る辺なさだ。

いつも空気のようにそこここにあったはずの「平和」は、いつの間にかどこにも見えなくなっている。

 

 

まだしばらくは井戸の底でじっと考えながら、自分の中に言葉が戻ってくるのを待とうと思う。

「センチメンタル・バリュー」

 

2025年ノルウェー・フランス・デンマーク・ドイツ合作/原題:Affeksjonsverdi/監督:ヨアキム・トリアー/133分/2026年2月20日〜日本公開

久々にこれほど見応えのある重厚な人間ドラマを見た、本当にすごい作品だった。

しびれるような充足感と切なさを残す後味があんまりすばらしすぎて、見終えた時、言葉がなかった。

昨日はずっとどこか上の空だった。

 

 

世代を超えて引き継がれていく人の業や歪み。

それでも、加害と被害という関係性を超えて、人と人とがその人がどうしてその人であるのかについての納得性を見出すことができる、それは希望に似ている。

でも同時に、けして癒されることのない絶望を認めることでもある。

 

人として歳とともに成熟できる人と、何かが欠けたままの人とは何が違うんだろう。

きっと欠けた人とは、世界を信じられないから、たのみになるものが自分だけで、自分という人格だけで世界に対峙している。

だから、視野が狭いし、防御的であり攻撃的である。

欠けた人は、今見えている表層における正義だけを手がかりに言動する。

「今」と「自分」しかないからこそ、激昂したり、絶交したり、恍惚したりできるのだ。

成熟している人とは、その人の中に歴史が入っている。

自分が、「自分そのもの」だけではなくって、今の自分を形作っているものがいっぱい合わさってその人になっている。

自分そのものの他に、その人を支えてくれる心強い「サポーター」がその人の中に存在する。

成熟している人は、自分の中にあるチームを総動員して、ものごとに対峙する。

一見煮え切らないように見えたり、事なかれ主義に見えるかもしれないけれど、そうではない。

多様な視点と文脈を持っているということだ。

 

欠けた人は、生々しく血が流れる傷を抱えて苦しんでいて、成熟している人は、一定の調和の中にある。

欠けた人は、未熟なのではなくて、その苦しみが癒されない限り、あるパターンから抜け出すことができない。

成熟している人は、本人の努力というよりは、より恵まれた条件を持っていた人と言えるかもしれない。

欠けた人を救うために有効な手立ての一つは、家族と社会の歴史に向き合うこと。

人は、過去に自分が受けた被害を認め、そのことに対して正当に怒り、嘆き悲しむプロセスがを経てはじめて、自らの加害性や暴力性に思い至ることができる。

 

才能があるとか、社会的に重要な存在だからという理由で、何かを免責されたり、他者を粗雑に扱ってもいいというのは思い違いだ。

才能は良くも悪くも副産物であり、才能に人生を捧げる必要なんか本来はない。

それは本当は倒錯的なことだ。

でも、お金や名声が多くの人に勘違いをさせてしまう。

実際のところ、誰しもそのようにしか生きられなくてそう生きている。

人には上も下もない。

 

いろいろな複雑な文脈だったり、取り返しのつかない時間だったり、生まれながらの不公平な所与の条件だったりが渾然一体となった人間の世界に私たちは生きていて、いろんな素敵なことや残酷なこと、楽しいことや悲しいことにまみれている。

コントロールできないことも多い中で、私たちに確実にできる役に立つこととは、多分、他者に優しくするということ。

それが人間を生きるということの値打ちなのかもしれない。

だから、生きているといろんなことがあるけれども、人は、歯を食いしばってでも、できるだけ他者に優しくあらねばならないんだと思う。

 

 

とりとめのない言葉の断片のほんの一部分を、湧き上がるまま、まとまらないままに置いておく。

言葉にならないものをただ抱えていたい。

作家の誠実さと作品の美しさにただ感謝したい。