みずうみ2023

暮らしの中で出会った言葉や考えの記録

山本太郎氏の国会「講義」

この国がどれだけ国民の意思を尊重していないか、ここ最近報じられた案件を幾つか見ただけでよく分かる。

 

国民の70%、20代は90%が賛成の同性婚や、国民の70%以上が賛成している夫婦別姓は、「議論が足りない」と何十年も認められないままなのに、降って湧いたような共同親権は、さまざまな懸念や反対を無視して、あっという間に採決された。

議論の有無は関係ないのだ。

 

兆単位の税金を投じても、政府への信頼のなさ、必要性のなさから、結局5%しか普及してないマイナンバーカードは、今年の12月に強引に現状の保険証を廃止して、強制的に切り替えに。

国民の95%が要らないと言っているものを、権力で無理やり押し付ける。

 

一方、団体・企業献金の廃止や、政策活動費と文通費の使途公開は、見送りが決定した。

裏金作りの抜け道も温存され、腐敗は腐敗のまま。

結局、自浄作用ははたらかなかった。

 

なにこのやりたい放題。

どこの独裁国家だよ。

 

 

2024年4月18日の内閣委員会での山本太郎氏の国会質疑、すごかったので、いろんな人が見るといいと思う。

「なぜこの国の政治がここまで国民の意思を尊重しないのか」が、かなりコンパクトに分かりやすくまとめられているからだ。

 

政治スタンスは人それぞれだが、何はともあれ私たちは「事実を明らかにして国民に知らせてくれる政治家」は大事にすべきだと思う。

私たちの知る権利は、あまりにもないがしろになっている。

 

今、国会は事実上形骸化している。

第二次安倍政権で国民が自民党与党にあまりにも大多数の議席を与えてしまったので、それ以降、自民党がやりたいことは全部多数決で好き放題決められるようになった。

そうなったら自民党はあっという間にたがが外れた。

野党の力で変えられることがほとんどないという意味においては、国会での議論はもはや無駄である。

何を訴えても、どれほど糾弾しても「後刻理事会で協議します」「善処します」と引き取られて、結局棚上げされる。

 

ただ、この日に限らず、山本氏が国会で質疑する大きなモチベーションのひとつは、「講義」をすることなのだと思って見ている。

彼の質疑は、私たちが知らされていない事実、ほとんど取り上げられないために忘れたみたいになっている事実を、国民や他の議員に対して分かりやすく教示する、ある種の政治の授業だ。

彼の国会での一連の質疑を聞くだけで、この国の現状への基本理解は相当進むと思う。

彼の「講義」は、とても分かりやすく、勉強になる。

公的事実をベースに、数秒の無駄もなく詰め将棋のように緻密に組み立てられた質疑、気迫に満ちた語り口は、ちょっと他の追随を許さないレベルだ。

ドラマチックなやり取りは見ていて普通に面白いし。

 

この日彼が明らかにしたのは、いわばこの国の「公然の秘密」だった。

あるのにあたかもないように扱われ続けてきた、誰も表立ってまともに語ろうとはしない、「巨大な基本的事実」について、山本氏は、あっけらかんと事実を提示した。

これ、結構なアンタッチャブル案件なのではないかと思う。

 

一体、この国の政策は、どのような力学の元に、どういう決定プロセスでもって決められていっているのか。

そのことを、時系列でコンパクトに開示している。

自身の外交スタンスを述べる最後のパート以外は、私見は挟まず、あくまで事実の羅列で構成されている。

「具体的事実」は否定しようがないからだ。

 

この質疑を聞くと、なぜ彼が国会で「講義」を続けているのかが改めて納得できる。

自民党はいわばポチだから、首相を代えたり、自民党をどうこうすれば解決する問題ではない。

「自らの保身や利益のために国の政策や公共財産を平気で差し出すような人間には権力を持たせない」ことが肝要。

倫理観と勇気としたたかな交渉力を持った人物を支援し、権限を持たせることが大事だし、そういう次世代を育てることも大事だし、権限を持った人物が裏切り行為をしたら権限をすみやかに奪えるよう、常に監視していくことも大事。

それには、国民が政治のことを何も知らず全部お任せします、みたいなことではやっぱり無理で。

時間がかかっても、国民一人ひとりが市民的成熟を目指すことしか、結局根本的な改善の道はないということになるんだろう。

 

長くなったので、この質疑のまとめは別記事で。

 

本題は7分10秒くらいから

 

どんどん流されていく小舟

このところ、政治について書くことがなかなかできなかった。

今のこの国の政治は、あまりに問題が多すぎて、一体どこから何を書けばいいのか、途方にくれるほど。

日替わりで不正や腐敗が次々と知らされ、とんでもないことが事後報告で知らされ、あるいは反対の声を無視して強硬に決められていく。

そして、そのどれもがすごいスピードでうやむやになり、既成事実化されてゆく。

 

あらゆる批判や追求は、意図的に焦点がずらされたり、混ぜ返しされたりして状況がカオス化し、だんだん「何の話をしてたんだっけ・・・」みたいになっていく。

ここ10年、社会犯罪を犯した者たちの常道は、何の説明もしないまま一時的に姿を隠すか、言質を取られないためだけの誠実さのかけらもない説明をロボットのように無表情に繰り返すか。

彼らの願いはひとつ。やがて次の問題が出て人々の視線が自分から逸れること。

 

何が起ころうと、誰もまともに責任を引き受けない。

誰かが罰せられるかどうかは、権力者の都合次第でしかない。

何がどれほど間違ったことなのか、もう基準がめちゃくちゃだ。

ある者にはゆるゆるのなんでもありで、ある者には問答無用の冷酷さ。

誰もが社会の不公正や自浄作用のなさに強いフラストレーションを抱えざるを得ない状況にあるが、その感情の出口は意図的に用意されていない。

アマゾンが、顧客と直接繋がる電話回線を持たず、自分たちが攻撃や対応にさらされぬように意図的にコミュニケーションの回路を切っているように、権力は声を届かせないシステムを作り込んでいる。

 

自分が何に怒り絶望しているかを理解していないほどに混乱して苦しい者たちは、それゆえに、脆弱で無防備で安心して直接叩きのめせる者ばかりを日替わりで徹底的に叩き、ささやかに溜飲を下し、次の攻撃を直接届けることのできる対象を血眼で探すということを繰り返している。

学校のいじめの構造と同じで、その繰り返しで癒されるものは何もないし、依存的で不毛な痛ましいループだ。

 

私たちは、慇懃無礼で実は暴力的な世界で、搾取され、取るに足らないものとして扱われ続けることに、本当はとても傷ついている。

けれど、表面上は何だか全部に慣らされたみたいになっていて、感覚は鈍い。

 

今、社会で起こるいろんなことのあまりの酷さに皆ついていけていないし、大事なことを「報じない自由」がメディアではもう当たり前になってしまった。

一見、情報が溢れているように見えて、暮らしや人生の選択に直結するような重要な政策決定は、主要メディアでは常に形骸的、広報的、事後的に報道され、無力感しか湧いてこない。

「怖いことや醜いことばかり、もう見たくも知りたくもない勝手にして」って自ら情弱であることを選ぶ人も多いと思うし、日々の暮らしの余白のなさに汲々として、まともに声をあげきれない人も多いと思う。

今、多くの政治的決定、変更や改正(改悪)が、大多数が知らない間にどんどん決められていっている。

 

私が怒りを感じるのは、これは、権力者が意図的に作り出した状況であり、彼らが確信犯でしかないからだ。

つまり、大多数の国民の政治的無関心を継続させること、政治に接することへの忌避感を高める作戦。

そんなネガティブなやり方で自分たちの好き放題を広げることを良しとするほどに、国政を担う人々が下品な人々だということ。

 

第二次安倍政権はある時から、意図的に選挙をインフォメーションしなくなった。

与党の選挙カーが急に町を走らなくなった。

これが何を意味するかというと、彼らは、全体に支持されることをもう目指さなくなったということだ。

むしろ、人々が気付かないうちに選挙が終わることが自らに利すると明確に意識した。

アメリカや、経済団体や、宗教などのまとまった組織票になる団体のニーズさえ忠実に満たしていけば、国民の声はどれだけ無視しようと、自らの地位は揺るがないと彼らは確信した。

実際今も、昔だったら即解散になるほど低い内閣支持率だけど、自民党は全く揺るいでいないように見える。

国会では、何万、何十万という国民の反対署名もあっさり無視し、危険な法案がどんどん強引に通り、第二次安倍政権以降常態化した閣議決定は、濫用されまくっている。

 

彼らは、ほんとうに国民なんて眼中にない。

ごく控えめに言っても、ついででしかない。

先週見た能登の被災地の画像をSNSにあげた人は「これはガザではありません」と書いていた。

もう4月も終わろうとしているのに、町がまるごと廃墟のまま捨て置かれていた。

 

先週の岸田首相のアメリカでの宣言をニュースで知った。

軍事費が1兆円になり、2兆円になり、5兆円になり、最終的に43兆円になり、そして国内で何のコンセンサスも形成することなく、勝手にアメリカに行って、議会でアメリカの子分として共に戦う覚悟があるという旨を首相が発言するまでたった1年あまりだった。

こんなにも嘘みたいな早さでここまでくることを、さすがに想像できなかった。

 

オセロの四隅は取られてしまったのだ、と思う。

あとは、ぱたぱたぱたぱた、とマス目の色が一斉にひっくり返っていくのを、為すすべなく眺めているしかないというフェーズに、すでに入っていると感じる。

腐敗の度合いも、強硬さも、加速度的だと感じる。

「自分の子供を兵隊に取られない」なんて、当たり前すぎる最低限すぎる願いだと思っていたけれど、こんなことをリアルに真剣に考えなくてはならなくなったなんて。

戦争反対、っていうあったりまえの言葉が、イデオロギッシュに響くようになるなんて。

あまりに情けなく悲しい。

 

シリアを見ても、香港を見ても、ウクライナを見ても、パレスチナを見ても、平和って本当にもろく、失われるときはあっという間なのだなあと思う。

戦争だけは絶対に現実化してもらっては困るから、知ることから目を背けず、小さくとも声を上げること、そして支援すべき人を応援していくことをやっていかなくちゃと思っている。

どんどん流されていく小舟を、必死に風に逆らって漕ぐみたいなものなのかもしれないけれど。

 

とりあえず、1/4が裏金を作り、半数が統一教会と関係していても別にオーケーとされる自民党が、そのままいていいはずがないでしょうと普通に思う。

もちろん、それだけで今の社会問題が解決されるわけではないけれど、そんな不公正が許される社会なんて何も信頼できないので、まずは彼らの権限を奪うことから始めるしか。

先月の対話のこと

 

先月の対話でのことについて、やっと言葉が出て来たので、書き残しておく。

 

対話をはじめて半年足らず、なかなか慣れない。

慣れたら皆で和気あいあいと安心して話せる場がわりと簡単に作れるようになるんだろうか。

でも、今はやるほどに難しさを感じることの方が多い。

対話に謙虚であろうとするほどに、自分のぶざまさに恥じ入ったり、後悔するようなことが色々と起こってくる。

招集係担当、歓待の気持ちを示す以上の大したことをしているわけではないので、そんな無駄に気負う必要はないと分かってはいるのだけど。

 

先月は、これまでで一番下手くそな進行で、言葉がほぼ出てこないという最悪の気分を味わった。

思い出すのもつらく、あーもうやめちゃいたいな〜、と思いながらわりとしょんぼり過ごしていたこのひと月であった。

 

先月の対話の前日、ひとりの参加者から、これまで口外したことのない、きわめてプライベートな思い出を、前に進むために語ってみたいと申し出があった。

そんな風に思ってくれてありがたいと思うと同時に、いやそもそもそういう場だったっけ?とか、他にも来てくれる人いるしどうなるのかなとか、いささか混乱して浮き足立ったまま当日を迎えた。

結果、何のスムースな流れも生み出せず、誰かの話を全員で共有できる問いに変換することも全くできず、いきなり「さあ、あなたのつらい話をみんなの前でしてみてください、どうぞ!」みたいな奇妙なことになってしまった。

私は、頭が真っ白になって、ほとんど言葉が出てこなかった。

 

その方が自分で話したいと言ってくれたことではあったのだけど、でも、皆で取り囲んでいる状況が急にひどく悪趣味なものに感じられた。

カウンセリングでもないのに、関係性もない人の立ち入った部分に雑に踏み込むって、ずうずうしくて暴力的に思えて、いたたまれなくなってしまった。

一方、自分の内に、一体どんな話が聞けるのだろうと思っている好奇心を感じて、その下品さにもうんざりし。

状況まるごとに恥ずかしさを感じ、自分が作ったシチュエーションに自分でドン引きしていた。

 

とても話し出しにくい雰囲気の中、その方はきっとこれまで何度も反芻されてきたゆえに、淡々と、しかし目に浮かぶような鮮明さでその時のことをなんとか話してくださった。

聞いている人たちは全員涙を流していた。

私以外。

その時、私は泣いてはいけないって思って、超がまんしていた。

せめて節度をもって居るために。

つまり、あの場で無理に話を促した自分が、その方の体験をエモーショナルに消費するようなことになるのは更にグロテスクでありえへんと感じたからだった。

でも、そうそう涙をこらえられるような生易しい話ではなかったため、私は親指に爪を立てて、痛みで気を紛らわしてまでがまんすることになった。

何その意味不明の頑張り、笑。

そんなかなり地味かつ珍妙な行動を人知れずしていたことも手伝って、ますますポカーンと言葉を失っていた。

 

とはいえ、場に来てくれた人たちはいつも同様素晴らしく、私がどんなにしょうもなくとも、素晴らしい言葉のやり取りがあって、先月の対話は無事終わった。

 

つらい話をシェアしてくれた方から、その日の晩、改めて温かいメッセージをいただいたのだが、情けないことに、私は返信の中でだめだめで本当すみませんでしたみたいなことを思わず書き送ってしまい。

結果、その方に更に気を遣わせ、優しい長文メッセージを重ねていただくことになるという・・・。

空回りした上に終わってまで面倒をかける自分にほとほと嫌気がさし、もうこれ以上見たくもないみたいから冷凍庫に放り込んで凍らせとく、みたいにして過ごしていた。

 

今月の対話がいよいよ迫ってきて、そろそろ考えなきゃなあと思っていた時、往復書簡(DIARY_2024)をしているみずえさんとLINEしていて「実は先月の対話が散々でして・・・」とふと吐露した。

それを機に、あの時の自分の感情が湖面にぽつぽつ浮かぶ気泡みたいに少しずつ浮かび上がってきて、びっくりした。

あの時、なぜ頭が真っ白になったのか、ずっと自分でも分からないまま過ごしていたが、ひと月経ってようやく言葉が出始めた。

 

私は鈍く、自分の感情を自覚するまでいつもタイムラグがある。

そして思い返すに、きっかけは他者であることが多い。

一人では目を背けてたり、触りたくないところにあくまで触らないまま、不毛な堂々巡りを繰り返しがちだが、他者を前にすると、「伝わるようになんとか説明を試みる」というモードが起動し始めるということがあるように思う。

私の場合、しばらく寝かしとくみたいな一定のブランクを経てそのモードが起動した時、初めて客観性が立ち上がってくるのだろう。

 

そのように、解凍された感情から逃げずにとどまって、ぐっと味わっていると、訳のわからない涙が噴き出ることもある。

それはどうやら、ようやく腑に落ちた、向き合えたというサインみたいだ。

 

その日の夕飯後、娘氏に「実はこんなことがあって、情けなくてへこんだんですわ」と不器用なままになんとか説明してみると、彼女は自分の体験をベースに「そのへこみの根っこには何があるのか」について、クールに意見を聞かせてくれて、より視界がクリアになった。

生き難さの研究にかけては、娘氏は相当長けているので、私はいつも感心して聞いている。

それでようやく湖面から鼻先が出た心境で、今月もなんとかやれるかも・・・と今月の対話におずおずと臨んだ次第。

 

人にとって、自分の正直な思いを誰かに話すことは、生きていく上での基本だし、自分の弱さを安心して話せる人が周囲にいることは心から感謝すべきことだと改めて思ったことだった。

どれだけ世の中が便利になっても、分断が進んでも、配慮すべきことが色々あって人と関わるのがあまりに難しくめんどくさくても、それでも人は、生身の人に自分の思いを話したい。

それがなくてはあまりに人生は虚しくさびしいと感じる。

人間とは、そういう生き物なんだろうと思う。

ますます正直に話すこと真摯に聞くことを大事かつ優先順位高めで暮らしていきたいと思う。

 

今月の対話はあまりに良い話が多くて止めがたく、かなり時間が超過してしまったものの、とても充実した濃い時間だった。

皆がそれぞれなりに何かしら受け取れるものがあったなら、嬉しいかぎり。

「口の立つやつが勝つってことでいいのか」

 

頭木弘樹著/青土社/2024年

このタイトル、まさに自分が常日頃から思っていたことだったので、わっ読みたーい、と思ってすぐに入手した。平易で読みやすい本で、あっという間に読める。

内向的でずっと家にいて、腑に落ちるまでしつこく考え続ける癖を持つ人の思考の世界は、私にはなじみ深い。類友感あったな・・・。

 

タイトルの問題提起だけではなく、身の回りや社会の色んな事象を「普通を疑う力」でもって、いやいやちょっと待てよ、と立ち止まって考えている。

というか、もはや思考の逆張りは、この著者の生きる基本ラインみたいになっている。

こういう人は、世間一般では、あまのじゃくとか、ひねくれてるとか、めんどくさいと評されがちなのかもしれない。

でも、著者のあくまで素朴に問う姿勢、大らかさと優しさをたずさえた語り口は、私にはわくわくと面白く、好ましいものだった。

 

日頃から思うのは、人は厳しい真実を嫌う、聞きたがらないものだということ。

目の前に気まずい現実や、矛盾を体現するような人がある時、人はしばしば「そんなものはない」「そんな人はいない」って言う。

でも、(このフレーズ、ブログでしょっちゅう書いている気がする・・・)あるものはある。

それらをまるでないみたいに扱って、見たい部分だけを見ることはわりと多いし、それに基づいた普遍的な真理っぽい、名言ぽい断言調の言葉は身の回りに溢れている。

 

もちろん、自分も全部を見てる訳では到底なく、誰しも限界はあるゆえ、そうなるのは無理からぬものだとも思う。

でも、真理めいたことを言い切る人の言葉には大抵、言い切った先の具体的説明は特にないので、物足りなく感じたりもする。

 

そんな私だから、どんなことでも底網漁みたいに全部回収してしまうみたいな、宗教やスピリチュアルの語り口には、どうしても身を委ねきることができない。

真摯に考え、信じて生きている人々を否定したい気持ちはみじんもなく、むしろ尊敬している。

けれど、私は彼らと同じにはなれそうにはない。

そういうある種万能な人生の法則的なものを、心から信じられたら幸福なんだろうなあと思って、信じる方向に自分を寄せてみたりしたこともあったけど、結局だめだった、疑う力が強すぎて、苦笑。

 

そしてこの本の著者もきっと、「これがあるよね」って真顔で言って、なんて空気読めない奴だって言われて、引かれたり嫌われたりしたことがある人だと思う。

気まずい事実があるってことは、全部がネガティブと言いたいわけではなく、いつだって両方があると思うのだが、なかなかうまく伝わらない。

正直であろうとすればするほど、人に嫌われてしまうような気がする。

 

きれいなもの汚いもの両方にまみれて、無様に生きるしかない。

悩みや不満も不運も後悔もなくなることはない。

でも、人生は捨てたもんじゃないな。

そういうものに触れた時に、私は希望を感じられる気がする。

この本は、そういう本だ。

 

「三体」「オッペンハイマー」

2023年イギリス・アメリカ・中国/原題:3 Body Problem/製作:デビッド・ベニオフ、 D・B・ワイス、アレクサンダー・ウー/1シーズン全8話各話45〜60分・2024年3月21日〜Netflix 配信

2023年アメリカ/原題:Oppenheimer/監督:クリストファー・ノーラン/180分/2024年3月29日〜日本公開

 

はからずも似た2作を立て続けに見た。

どちらも緻密に作り込まれ、洗練された作品だったけれど、作品自体をあれこれ語りたいとは思わない。

思うことは結局、このことに尽きると思うからだ。

 

いったい、人間の知性とは、賢さとは何なのか。

 

イノベーティブな能力を持つ人々のことを、この世界では、普通の人よりも上等な人間として優遇し、特別視している。

本人たちも自分を優秀だと思っていたり、能力によって得た富を当然の権利みたいに独占的に抱え込んでいる人もいる。

 

でも、彼らは単に専門分野に詳しく長けているに過ぎない。

特定の物事に詳しいことは、人としての成熟とはなんの関係もない。

むしろ「専門家」は、何のために自分の賢さを使うのかという基本を、ともすればすぐに忘れ、近視眼的に手段を目的化し、実現のためには、時にモラルや人間性さえ手放す。

 

今も昔も、世界最高レベルで有能とされている人たちが、その賢さを結局何に使っているかといえば、権力者や有力者の欲望や、支配や、金儲けのために使われるばっかりである。

もちろん、技術は良いことにも使われる。

でも、優先順位はたいてい権力や金への欲望の下位にある。

 

博士然としてパイプをくゆらし、苦悩するオッペンハイマーを見ていても、その知識と見識、もうちょっとましなことに使えやどアホ!としか思いようがない。

物理学について卓越した想像力の持ち主だったというが、あんな凄まじい爆弾を人間に向かって落としたらどういうことになるかについては、実行に移す前にまともに想像しようとはしなかった。

彼は愛人との関係ひとつ清算しなかった。彼女が自殺するまで。

研究であれ、人間関係であれ、自分の行動がどういう影響や結果をもたらすか、少し考えれば分かるはずのことは、目の前の欲望の前に不問に付された。

そのような人物を、果たして「賢い」と言えるものだろうか?

 

「三体」「オッペンハイマー」は、人間の知性の中途半端な賢しさと、それゆえのグロテスクなまでの間抜けさ無反省さを見せつけてくる。

人間は、可能性を前にして諦めたり引き返したりすることがどうしても苦手だし、「可能性の実現が何を意味するか」を深く考えられない。

目の前の衝動に突き動かされ、とりあえずやりたい、やりたい、それだけになってしまう。

全部やってしまって気が済んでから、我に返って後悔したり、おろおろ泣いたりする。

仕方なかったんだと納得したり、祈ってみたり、正当化したりする。

学問や科学技術の世界の話だけではない。

ウディ・アレンのラブコメディで惚れたはれたと大騒ぎする男女たちだって毎回同じパターンを繰り返している。

人間って多かれ少なかれそういうものなんだ、と諦めるべきなのかもしれない。

 

ひとりの力は小さくても、大勢で力を合わせると、人間にはかなりすごいことができる。

他の動物よりもずっと脆弱で無防備な肉体を持ちながら、それゆえに人間は地球の覇者になった。

問題は、「人間が力を合わせたらできること」が、しばしば人間の手に負えないものになることだ。

 

世界がグローバル化され、倫理に欠けたグローバル営利企業が致命的なまでの巨大権力を有するに至って、今、「手に負えなさ」はいよいよ極まってきた感がある。

誰にも責任が取れないようなそら恐ろしいことを、人間は次々と実現し、後先考えず実行している。

取り返しのつかないことをした人々は、取り返しのつかなさが途方もなくなるほどに、その受け止めはまるで他人事みたいになっていくのが定石である。

いよいよ状況が煮詰まって身動きが取れなくなったら、最終的な逃げ場に飛び込む。

「死」という安楽な場所に。

そうすればそれ以上はもう誰に責められることもない。

後のことは自分の知ったことではない、誰かが何とかするであろう。

 

そんな無責任極まりないパスを大人たちから投げられて、次世代は一体どう生きればいいというのだろう?

人々の無力感や思考停止は、この絶望の深さに繋がっていると思う。

 

何のために知恵や賢さを使うのかを考え、人や地球の幸福につながらないことは中断することのできる、「本当の賢明さ」を人はどうすればもてるのか。

これらの作品にその答えはない。

誰も教えてはくれない。

でも諦めずなんとか考えないと早晩人間世界は終わってしまうよ、とこれらの作品は告げている。

 

「パスト ライブス/再会」

 

2023年アメリカ・韓国合作/原題:Past Lives/監督:セリーヌ・ソン/106分/2024年4月5日〜日本公開

こういうしみじみとした美しい余韻を残すラブストーリーを最近ではほとんど見なくなった。

丁寧に丁寧に人物の心情を描き、日常の中にあるさりげない美や優しさにそっとフォーカスし、全編にわたって気持ちの良い光が降り注ぎ、風が吹き抜けている。

 

人は、人生のその時々を、その人なりにベストを尽くして生きていく中で、木の葉の葉脈のように、幾つもの分かれ道をその都度辿って進んでいく。

些細な選択でも、後戻りはきかないから、人と人との関係は、ほんの小さな猶予期間だったはずが、気がつくともう取り戻せないくらいに遠く隔たってしまうこともある。

さして重要と思わぬ気軽な出会いのはずが、一生を共に歩く相手になることもある。

はかりしれない偶然性の中を誰もが生きている。

誰もが心に何かしらのせつなさを抱えながら。

 

韓国語で「縁」を意味するイミョンという言葉が要所要所で出てくる。

自力で人生を切り開いていると、人生は自分の選択の結果だと、人は思うものだけど、人間が自分の思うようにできることは、実はそれほど多くはなくて。

それはせつなくも、優しく心地良いことだ。

 

言葉が少ないことも、実に良かった。

ノラとヘソンが、ただ笑顔で互いを見つめ合いながら、何も言葉を交わさないで一緒にいるさまのなんともいえない可愛らしさ。

言葉よりもずっと饒舌で、どきどきした。

 

また、今、多くの映画が、社会問題や何かしらのポリコレ的課題を背景に語られていて、そういうもの抜きには映画を見られなくなっているが、そういう要素を注意深く排して、あくまで市井をささやかに生きる個人だけに焦点を絞って描いたことも、とても功を奏していたと思う。

「現代の問題」を通して物語が語られることに、自分はいささかうんざりしていたのだなあと気付かされた。

 

 

映画が終わった後も、温かいものが胸の内からじわじわと満たされ続けるような優しい感覚をしばし味わった。

ああいい映画を見たなあ、ありがとう、という気持ち。

 

人生は生きるに値すると思わせてくれる映画って、ほんとうに宝物だ。

 

甘えってなんだ

我が家の娘氏が、ブラックだった前の職場を辞めて、近所のパン屋で働き始めてもうすぐ半年になる。

パン屋さんて、いつもお店の前がいい匂いがして、香ばしいパンたちを丁寧に扱って、笑顔でお客さんと挨拶を交わして、っていう素敵ワールドを漠然と想像するわけだ が、現実はそんなほっこりしたものではない。

やること常に山積み、職人気質のオーナーからの絶え間ない効率化、スピード化を求められるハード体育会系の職場。

30代のオーナー夫妻は、共に10代から叩き上げのパン職人。

毎日夜中の3時から仕込みを始め、人生を文字通りパン作りに捧げているだけに、スタッフへの要求も高くなるのだろうなと、娘氏の話を聞いていて思う。

 

夜、ただいまと帰ってきた時の娘氏は、まるで駅伝で倒れこみながらゴールする人みたいだ。

「うおーん!ハグーー!」と、癒しを求めて3歳の弟にハグを要求し、末っ子はちょっと引き気味でしばし強引に抱っこされる、という一連の流れが半ば儀式化している。

 

ありゃー大変そうだなーと思う反面、どこで働いてもいろいろあるよねとは思うし、引きこもってた頃には想像もできないレベルで立派に社会参加してる娘氏を頼もしく、誇らしくも思う。

そんなしまらない思いで働く我が子を眺めているので、娘氏から仕事であった色々について意見を求められても、私はあんまり歯切れの良い言葉が返せない。

 

17歳の娘氏は今、日々パン屋で働きながら、学び、考え、これから先、自分がどういう場所に、物事に、人にコミットしていたいかということを模索している。

彼女の素朴で本質的な疑問に触れると、資本主義の社会の中で雇われて働くってどういうことなんだろうと、改めて考えさせられる。

私たち大人の多くは、誰かに雇われて働くことがあまりに当然の人生になってしまっていて、雇用を介した人間関係にすっかり慣らされている。

けれどそこには、根本的ないびつさのようなものが確かにある。

 

それは、ほんとうに仕方がないことなんだろうか。仕方のないこととして諦めるべきなんだろうか。

 

こないだの朝の娘氏の話。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

雇われて働く場所で起こっていることって、雇われる人が今できていることは常に当たり前とされて、できないことだけを指摘され続けるということなんだよね。

注意されて、努力してやっとできるようになったら、「あ、それできたんならこれもお願いね」って言われて、新たな何かをまた「できてないよね」と指摘される。

そのループがどこまでも続く。

「できた!」という段階はいつまでもやってこない。

 

そういうことが続くと、人は「わたしは全然できない人間なんだ」と思うようになっていく。

わたしも自分がどんどんそうなっていってるのを感じる。

そんな場所にどうしてみずから通い続けなきゃいけないのかなって思えてくる。

 

さくちゃん(桜林直子さん)が、『自分が本当にやりたいことを見つけるためのワーク』の中で、「自分ができていることを何から何まで全部ノートに書き出してみる」って言ってたじゃん。

あれをなぜやるかって、みんな誰かのできてないことは指摘するのに、できることは誰も言ってあげてないから、もはや自分が何かをできる人間だと思えなくなっている人が多いからなんだよね。

本当は、その人ができてることって、誰しも生きていればめちゃくちゃあるはずなのに。

今の社会ではそれらはたんに「当たり前」と扱う。

だから本人もそう思ってしまう。

 

わたしはさ、もっといろんな人が「あなたができてること」を認められる場所があった方がいいと思う。

存在を全肯定する、みたいな大げさなことではなくって、その人の話を聞いて、ここやここはよく頑張ったと思うよ、みたいなことだけをただ話す場所っていうか。

自分では見えていない、「あなたにはこういう、よくやれていることがあるよね」を言い合う場所っていうか。

 

自分に対する信頼って超崩れやすいんだけど、構築できやすいものでもある。

誰かのさりげないひとことで「そうかも」って思えてくる。

そんな大層なことをせずとも、ただ「よくやってるよ」「できてるよ」って言ってあげるだけで、自尊心が回復していくということが人にはあると思う。

 

 

今、たった15分の休憩を取ってもいいですかってシェフに言えないのはどうしてなんだろう?

多分、それを「甘え」と受け取られるって思ってるから。

ただでさえ仕事が遅いくせにって思われそうで。

「どうしても取りたければ、コーヒーブレイク取ってもらって構いません」って彼らは言う。

言い方からして休むってことに明らかに後ろ向きだし、「コーヒーブレイク」っていかにもゆったり寛ぐ的な言葉を使うけど、半日以上ぶっ続けで働いて普通に集中力が保たないから体を止める時間が欲しいだけ。

でも、理解してもらえないって思う。だから言えない。

本当は、他の人がどうとか関係なく、作業効率が下がったり体が無理なら、それは言ってもいいはずなのに。

 

「甘え」って「求めすぎ」って言葉に変換される。

職場に対して、社会に対してそれは求めすぎっていう時に「甘え」って言葉が使われる。

そこには、その人がすでにやってくれていることは加味せずに、さらに求めていく姿勢がある。

 

でも実際さ、自分の甘えに気付かされる時って、「あなた甘えてるよね」って言われた時ではないよね。

何も言われなかったり、別のことを指摘されたり、促されたりした時、

「あ、甘えてたんだ自分、動かなければ誰かがやってくれると思ってた」と思ったりする。

だから、「あなたって甘えてるよね」という指摘ではっとするとかって、まずない。

 

つまり、自分の権利を主張してんじゃねーよとか、お前の尊厳は守る気がないという意味で、人は「甘えてるよね」って相手に言っている。

甘えって、そういう呪いの言葉になってしまっている。

 

もちろん、期待に応えて好かれたい、大切にされたい、愛されたいとは思う。

でも、それだけを目標にがむしゃらに頑張れないんだよね、なんかもう。

以前はそれだけで突っ走れた。

人に褒められる、必要とされる、責任のある立場を任せられる。

そういうことをモチベーションに頑張れてたんだけど、今は確実に途中で息切れる。

体力なさすぎて無理です、みたいな。

 

どれだけ頑張ろうと、わたし自身が好かれるという感覚はなく、彼らにとって都合のいい、角のない存在になればなるほど、優しくしてくれてるって感じだった。

 

結局、わたしの尊厳を大事にする気持ちはないんだろうな、という。

そういうことに疲れてしまう。

都合のいい人になれば愛してくれる、大事にしてくれる人はいる。

あなたはこういうことをしてくれるから好き。

それって機械やんけ、って。

 

でも、雇われて仕事をしている場では、やっぱり明らかにそういうことばかりを求められる。

そのうちに、わたし自身のことを大切に思って好きになってくれる人なんて、この世にはいないんじゃないかと思えてくる。

 

この人といたらクソみたいな気分になることもある、友達とはいえ顔も見たくない時もある。

それでも、その人のことが好きという方が、わたしは人として納得ができる。

 

ほうぼくの奥田知志さんに会った時に感じたあの安心感って、「自分が都合のいい人になったら優しくしてもらえる感の薄さ」だったんだなーと思う。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

資本主義的には、人をできるだけ安価で多く働かせることが、儲けに直結するから、今できてることをゼロベースにして、さらに生産性をどこまでも上げていくことが「成長」であり最適解だ。

それは、正義とか正論とかじゃなくて、より多く儲けたい側の手前勝手な都合にすぎない。

 

けれども、娘氏の言う通り、人間は機械じゃない。

心と体とそれぞれ固有の事情を抱え、有限な人生の時間をなにかしらの意図をもって使う。

雇われ仕事は、その意図を叶えるためのテンポラリーな手段であり、自分自身の権利や尊厳よりも下位にあることであり、尊厳を明け渡してまで必死にやるような重要なことではないはずだ。

でも、なぜか簡単にひっくり返る。

 

仕事となったら全てを投げ打ってでも、何がなんでも責任を果たせみたいな思想を、あたかも倫理のように流布するのは、ごく控えめに言っても悪質なことだ。

仕事とその人の人生の意義が分かち難く結びついていることはよくあることだが、その人個人の事情であり、がむしゃらに仕事をするのもその人がやりたくてやっている。

人は、人生の多くの時間を割く仕事には、なんらかの意義を見出そうとするものだとは思う。

でもそれは、全員に強制していい思想ではない。

 

そこを「人として〜」みたいな語り口であえてごっちゃにすることで、多くの人が働く現場で背負わなくていい責任を背負わされ、不必要な罪悪感を持たされ、追い詰められている。

仕事となったら、途端に人は簡単に人の尊厳を踏みにじる。雑な扱いをする。

普段、人に何かを頼むとき、理由を相手に説明するのは基本のことなのに、仕事ではなぜか説明をしない人って多い。

いちいちめんどくさい、説明しなくってもいいって相手を侮っているから、説明をしない。

そういう人に説明を求めると、イラっとしたり逆ギレしたりする。

 

仮に友達に対してそんな態度だったら、あっという間に一人ぼっちになるだけ。

そんな人としてあり得ない振る舞いが、仕事だからという一言でまかり通ってしまう。

そんな人間関係がいびつでなくてなんだろうか。

 

 

私たちは、仕事に従事する人である前に、ていうか、どんな立場である以前に、人間。

その基本に忠実でいたい。

自分に対しても、誰に対しても。

 

「それは甘えだ」ってわざわざ言ってくるような人は、あなたの尊厳を踏みにじり、頭を押さえつけてくるだけの人だから、私たちは、ほぼ無視して差し支えなさそうだ。

そんで、「よくやってるよ」「できてるよ」って誰にも気軽にどんどん言ってこう。