みずうみ2023

暮らしの中でふと心が動いたことについて書いています

「Michael」

 

2026年アメリカ/原題:Michael/監督:アントワン・フークア/127分/2026年6月12日〜日本公開

あまり興味はなかったのだけど、夫氏に誘われて行ってきた。

久々にのMAXシアター、音楽が重要なパートを占める映画だからクリアな音響で見られて良かった。

技術的な面では、みっちりとお金をかけてプロが隙のない仕事をした、という感じ。

大抵のポップカルチャーは、その時代を過ぎるとだんだん古臭く、滑稽で気恥ずかしさを感じるようになっていくものだけれど、真にクリエイティブな、独創的なものは、不思議なほどそうはならない。

マイケルの歌声もパフォーマンスも、全然古びていなかった。今も昔もただ唯一無二という感じ。

久しぶりに彼の音楽をまた聴き直したい気持ちになった。

 

一方で、映画のドラマの部分に関しては、個人的にはあまり感心しなかった。

すごく良かった!と語る夫氏の気持ちを削ぎたくないから黙っていたけれど、ひねくれ者の私が映画が終わった後に思っていたことは、まったく、死人に口無しとはよく言ったもんだよ、というものであった。

あの母親とマイケルの関係性がどうにも嘘くさく、化粧くさく感じられたし、ボディガードや弁護士もいささかいい人として描かれ過ぎていた。

家の中で小さな子供たちに暴力をふるう父親を止めもせず、守ることのなかった母親を、まるで善意だけの清らかな、マイケルの心の拠りどころのような存在として描くのは、自分も一人の母親として、率直におかしいと思った。

妹のジャネット・ジャクソンは、なんと家族の一員として存在すらしていなかった。

 

確かにマイケルの父親が酷かったのは周知の事実だけれど、彼を痛めつけ、苦しめ、損なったことに関するあらゆる責任は、すでに死んでいる父親だけにほぼ全集中させていた。

ラストシーンでは、マイケルにとうとう切り捨てられるためだけに、わざわざ妙な場所に登場させていたくらいだった。

んなわけあるかと普通に思いながら見ていた。

 

ステージの上のマイケルは確かに輝いていたし、技術を尽くして完璧なまでに克明に再現されていたけれど、生身のマイケルの生活の描写は、なんだかひどく薄っぺらく具体性を欠いたものだった。

多分、この映画はステージの上にいる時以外の彼をろくに知らない人たちが都合の良いように作っているんだろうなあと思いながら見ていた。

 

それでも、どれほど彼の人生の闇の部分を極力伏せて、繊細で心優しく、純粋な善意を持ち、誰よりも努力する天才という前向きな要素を選択的に描いていても、マイケルの人生の孤独の深さは隠しようがなく滲み出ていて、胸が痛んだ。

彼個人のありようということだけではなく、たくさんのお金を生み出すことのできる巨大な才能は、それを持つ人の個人の人生を根こそぎ奪ってしまうというという避け難い残酷な側面。

世の中からは、誰よりも恵まれている人、成功している人とみなされながら、その人は実は人がごく普通に持っている基本的人権を容赦無く奪われているということが往々にして起こる。

誰にもただの人として見られないということは、それがどんなに讃えられ、崇められるようなものであったとしても、長期にわたるほどに、たまらなく孤独で地獄みたいなものになってしまうだろう、と思った。

 

それでも、親元から離れて自由になり、自分の才能とアイデアで一体どこまで飛べるんだろう?めいっぱいいろんなことにトライしたい、とアルバム「スリラー」をクインシー・ジョーンズらと作った頃のマイケルは溢れる意欲でキラキラしていて、救われるような気持ちになった。(ちなみにクインシー・ジョーンズがあのセクシーさも含めて激似で最高だった)

間違いなく、きっと彼の人生の最良の時期だったろう。

しかし、父親をはじめとする周囲の大人たちは、大きく飛躍した彼を当然放っておいてはくれず、結果的には、しがらみや大人の事情により強く絡め取られていくことになるわけだけれど。

 

マイケル・ジャクソンという存在は、いろんな要素で「覇王別姫」でレスリー・チャンが演じた程蝶衣を思い出させた。

たまたま特別な芸事の才能を生まれ持ち、貧しく逃げ場のない状況で幼い頃に肉体的な虐待を受けながら服従させられ、大人たちの金稼ぎのために子供時代を奪われ、生きる道を固定され、人々に愛され、憎まれ、きわめて限定的な環境の中で、自分に与えられた才能を最大限輝かせるために最善を尽くそうとした。

病的に完璧主義なところも似ている。

 

アーティストとしてのマイケルの素晴らしさにひとつも異論はない。

けれど、こうして彼は死んだ後もマイケルにぶら下がって食べていく人たちによってどこまでも好き勝手に偶像化され、人々に消費され続けるのか、と思った。続編も作るらしい。

彼が本当は何を思って生きていたのかなんて、みんなどうでもいいみたいだ。

 

辛気臭い性分だと自分でも思うけど、こういうものを単純に楽しむことが昔からどうしてもうまくできない。

なんてシュールな2026

梅雨に入って、毎日降ったりやんだり。

農繁期で職場は忙しく、総力戦で乗り切っていきましょう!とオーナー。

今の時期は整枝作業も多く、きゅうりの三本仕立てがどうにも下手くそだったけれど、3年経って、きゅうりもナスも、だいぶ要領良く整枝できるようになってきたかなと思う。

わさわさと根元にだまになっている枝を、適切に選んで剪定していく。一株一株、淡々と、延々と手入れをしていく。

背中合わせに作業しているIさんが、「盆栽やってる気分っすねー」と言う。

全部終わってよっこいしょ、と立ち上がって見渡すと、ぐっと風通しが良くなって、涼しそうに気持ち良さそうに風に揺れている苗たちの姿、そのビフォーアフターを見る時の達成感。

みずみずしい緑の中に体をうずめるようにして、雨を吸い込んですくすくと育つ野菜たちのお世話をするのは、私にはいつだって楽しいことだ。

 

昨日は、夕方保育園の個人面談だった。

最近の末っ子の成長は目覚ましく。先生も私たちも彼の特性をだいぶ理解し、彼にとって適した環境はこういうものだから、そこに近づけるようにしていく、塞がず押さえつけず添う、という考え方で終始話すことができて、確認作業のようないい時間だった。

 

話が終わったついでに早めのお迎えになったので、そのまま日帰り温泉に行った。

雨上がりの平日の温泉はガラガラに空いていた。

この温浴施設には、日替わりでいろんな薬草とか、ゆずとか入浴剤とかを入れる浴槽がひとつあって、エレベーターの中に月スケジュールが貼り出してある。

そこに今月中旬が「サッカーワールドカップの湯」と書いてある。一体何を湯に投入したらワールドカップの湯になるのか。

へ?今月ワールドカップあんの?と夫氏に訊いたら、「えっっっっ知らないの?」と驚愕された。

 

私は私で、行きの車の中で、発議して国民投票したらほぼ100%改憲できてしまうようにルール変更をした「国民投票法改正案」が11日に審議入り、1週間ほどで成立してしまいそうというニュースについて話したら、夫氏に「いやー、全く知らなかった」とあっさり言われ、どびっくりしていた。

国の根幹に関わるルールの変更を、大メディアはあえて報じていないみたいだ。

今、この国では、国民の知る権利は、堂々とないがしろにされているんだな。

夫氏のように、全く知らない人はきっと大勢いるんだと思う。おそろしいことだ。

 

それにしても、私たちの世界線ってつくづくかけ離れているね、とエレベーターの中で苦笑しあった。

私は野球やサッカーに興味なく、スポーツ選手を賛美する気持ちも特にないし、夫氏は政治について考えることをだいぶ前にやめてしまった。

それでも私たちはそれなりに仲良く暮らしていて、協力して子育てをしたり、ウッドデッキの解体作業をしたり、こうして一緒に温泉で1日の疲れを癒して美味しいものを食べたりしている。

 

身の回りにコミットしなくてはならないことが、とてもいっぱいあるんだ。

みんながあれはどうなったか、これを教えてほしい、この書類を作って欲しい、見積もりをあげてほしい、これを修理してほしい、この会議に参加してほしい、そう全方向から言ってくる。

その上で親父が「今日私は何をすればいいのか」とか「夕飯が来ない、食パンがない」とか「ここが痛むんだけどどうにかしてくれ」と、毎日電話をかけてくる。

それだけで、どれほど人生の時間の多くを持っていかれてしまうことか。

今の政治のことは、本当に最悪だと思う。

だけど、もう人生も折り返し地点を過ぎ、手の届かない遠いことに対して憤ったり、嘆いたりすることに時間を割きたくはないんだ。

なるようになる、そう思って、自分はただただ機嫌良く生きていきたい。

そう夫氏は言う。

それはひとつの見識だと思う、もちろん。

自分には興味と余裕があるから、調べたり、考えることができているんだとも思う。

 

誰もが一人の人として、各々の人生を一所懸命生きていて、余裕のある人は少なく、誰もがそれぞれの事情を抱えている。

そして私たちは民主主義社会の成員として知っておくべき教養を、恣意的に与えられていない。

そのことは重々承知の上で、その上で思う。

 

社会で起こっていることについてほぼ考えず、選挙に行かず、自分以外の立場の人々のことを自分ごととして想像することをせず、自分が今のままを維持できればとりあえず良いと考え、犠牲を見ず、多数派は多数派だから多分正しいとし、黙って傍観し、とにかく周囲に合わせて、やり過ごそうとする。

理由はどうあれ、もしもそういう方針の人が社会の大多数になってしまったとしたら、民主主義が節度を持って維持されることなんて、そりゃあるわけないよなーと。

 

それにしても、国民主権や基本的人権を全削除するような狂った憲法改変が、「時代に合ったアップデート」と言われる時が来るなんて、それをそれなりに多くの国民が賛成する時が来るなんて、さすがに想像できなかった。

淡々と暮らしながらも、なんてシュールな2026年、と日々思わずにはいられない。

 

海と末っ子との日々

雨音で目が覚める。

ドアを開けると、新鮮な空気が流れ込み、強い雨が降っている。

今日は台風の一日。

用事で出かけずに済むのなら、雨に閉じ込められるような一日って心が落ち着いて大好きだ。

 

見渡す限り家がびっしりの自然の少ない町に住んでいる。

身近な唯一の大自然は海だから、健やかに日々を暮らすために、普段からすごく海の力を借りている。

寒い季節以外は、早朝に海まで散歩に行く。

サイクリングロードをしばらくぽてぽてと歩いて身体を目覚めさせてから、砂浜に座って瞑想をしたり、寝っ転がって空を眺め、気持ちのいい空気を身体いっぱいに満たしてから、自転車に乗って帰る。

早朝に干潮が重なった波の強い日は、潮干狩りをしたり、夏は海に入って涼んだりもする。スマホを持っていって写真を撮る日もある。

海は毎日、何かしら発見するものがあって、飽きることがない。

家に帰っても家族はまだ寝静まっている。

コーヒーを淹れて、皆が起き出してくるまでは、こうして文章を書いていることが多い。

今、3つ書く場所を持っている。

 

皆が起き出してきたら、朝食の準備を始める。

早朝に小さな冒険をしていることを誰にも言わずにお母さんを始める。

そんな朝の時間を、とても大事にしている。

これをするのとしないのとでは、その日を過ごす心持ちがだいぶ違うから。

 

ところが、しばらく前から寝起きに私の姿がないと、5才の末っ子がひどく不安がって泣き叫ぶようになった。

保育園ではべつに私がいなくても楽しく過ごせているのに、家ではトイレに行っても、庭に出ても、ゴミ捨てに行っても、私の姿が見えなくなるとすぐさま大声で「おかーさーん!」と近所じゅうに響きわたる大声で叫び、探す。

はーいここだよ、と返事を返して急いで用事を済ませて傍らに行くも、どうしていなくなったの、と責められる。

めちゃくちゃ可愛いけど、めんどくさい。

早朝私が海に行っている間に起きて叫びまくるということが何日かあって、夫氏から毎日これで起こされるの勘弁、ご近所にも申し訳ない、とクレーム。

あーもう当分朝のルーティーンは諦めるしかないのかも、つらい・・・とがっくりしていたのだけど、はたと思いつく。

そっか、末っ子も一緒に連れてけばいいのか。

 

最近、末っ子は補助輪なしの自転車に乗れるようになって、大得意だ。

だから、早朝の海に自転車で一緒に行く?と誘うと大喜びだった。

部屋着のまま腕時計だけつけて、小さなビニール袋ひとつポッケに入れて、自転車にまたがる。

まだ早朝の車もがらんとした広い道を、末っ子は小さなべダルをくるくると高速で漕いで、意気揚々と海に向かう。

自分で自転車を漕いで移動することができるって、こんなにも世界が広がるわくわくするようなことなんだって末っ子を見ていると思う。

まっすぐ背を伸ばしてハンドルを握る後ろ姿を見ていると、もう本当に赤ちゃん時代は終わったんだなあ、と名残惜しく思う。

 

海に着いたら、手を繋いでしばらくビーサンでペタペタと遊歩道を歩く。

最近は歩くのに飽きて、なかなか歩かせてくれない。

だけど、小さい子と朝の海を歩くのは、とても素敵な気持ちだ。

すれ違う人たちが末っ子を見てちょっと笑顔になるのも、嬉しく思う。

今は、鳥のひなたちの巣立ちの季節で、つばめたちが遊歩道と防砂林の周りで飛ぶ練習をしている。

肩越しすれすれの低いところをびゅんびゅんと飛び交う。

なんとなく飛ぶのがまだ不慣れで、でもうれしくってたまらないみたいにむだにぐるぐる飛び回っているさまが、覚えたての自転車を漕ぐ末っ子と重なって、にっこりとした気持ちになる。

しばらく歩いた後は、波打ち際まで行ってきれいな石や貝やビーチグラスなどを集めたり、いきものの死骸を観察したりしてから、家に帰る。

この先は、海水パンツで海に行って、海に入ることも増えそうだ。

 

先週は、何度か夜の海にも行った。

長年この町に住んでいて、これまで話題にならなかったのに(私が知らなかっただけかも)、なぜか今年はにわかに「夜光虫」のことを誰もが口々に興奮気味に語り、完全に流行っている状態だった。

夜光虫とは、海洋性プランクトンのこと。

昼間、赤潮が見られた場所に行くと、波間にLEDライトが仕込まれたくらいの明るさで、海が青く光る。

ネットでさかんに情報が飛び交い、海岸線のライブカメラをチェックして、夜の海岸に大勢の人が繰り出していた。

私たちも夕飯後に車に乗り込んで、水曜日はとりあえず江の島まで行ってみたものの空振り、こりずに木曜日はちゃんと情報をゲットしてから茅ヶ崎海岸に行って、無事見ることができた。

その日は濃い霧が出ていて、すべてがぼんやりけむって美しかった。

波間で夜光虫が青く光るたびに、おおーと歓声が上がり、陸の建物のカフェの入り口に掲げられた松明やネオンがぼやけて光って、なんだか異国の町にいるようだった。

今年の初夏のいい思い出になった。

 

いつもいつかどこか別の、ここが私の場所って思う町で暮らすんだと漠然と思ってきた。

でも、私はこれからも多分、小さな違和感を抱えながら、この海辺の町にずっと住み続けるんだろう、と最近では思う。

いろんなお店や建物が、なくなっては新たにでき、町のかたちが変わってゆくさまを眺めながら、自転車にまたがってビーサンですいすい町の狭間を動き回って暮らしていくなかで、ゆっくり年老いていくんだろうな、と。

この3ヶ月の間に起こっていること

今日は暑い一日で、汗をかいてよく働いた。

職場でまたちょっとしたいざこざが起こっていて、一緒に働く人の機嫌の悪いのに内心閉口しつつ、振り払うようにできるだけ声を出して笑って、無心に身体を動かした。

それでも人の悪意は、目に見えない澱のように胸の内に溜まり、心のもやもやはなかなか晴れなかった。

 

人間のつくる社会は不完全だし、人間は愛らしくて、つくづくしょうもない。

それでもその不完全さやしょうもなさと共に生きていくしかない。

家に帰ってチューハイを飲んで、夕飯は農園でもらった野菜や鶏肉をどんどん揚げながらもりもりと食べ、夫氏と一昨日亡くなったことを知った岸田秀さんについて話すなどしたら、少しだけましな気分になった。

何の教養もなかった大学生の頃にメンターでもある友に手渡された「ものぐさ精神分析」は、その後の人生の私のものの見方を根本的に変えたと思う。

私にとって、「考える人生」の入り口になった書。

本棚から黄ばんだ文庫本を取り出して読み返し、その影響を深さを再確認している。

 

気持ちが塞いでいるのは、もちろん職場のことだけじゃない。

というか、「せめて職場くらいはしょうもないことを言ったりしたりすんなよー」という気持ち。

 

2月に自民党が大勝してからの3ヶ月間のすさまじい政治状況に、毎日新鮮に絶句し続けている。

日替わりでひどいニュースが降ってくる。

2月の衆院選で大敗したために、今野党の議席がほとんどなく、与党(自民党、維新)は目を剥くような愚策を異様なスピード感で思うがままに決めていっている。

たった3ヶ月の間に、第二次大戦の死者たちの屍の上に先人たちが作った戦後日本社会の仕組みを、政治家たちが(与党も野党も)目の前で根こそぎなぎ倒すようにして壊していくさまを、呆然と見ている。

もう何から考えればいいかも分からない、何も書けない、もう考えたくない、という気持ちだった。

 

第二次安倍内閣以降、折に触れて政治についての考えや、その時々に起こっていることの意味を書きながら考えることをしてきたけれど、今の深刻さと異常さは、これまでとは度合いが違うと言い切れる。

いまや、この国に暮らす人々をもっとも愚弄し、苦しめている存在は国会議員たちだと思う。

国が悪の組織すぎてつらい(岸本佐知子)

 

メディアは、今政治の世界で何が進行しているのか、政府が何をどのように変えようとしているのか、その経過や背景をますます報じなくなっている。

全てが決まってしまった後に、形式的な事後報告の形で、絶句するような内容のニュースを流すのが常になっている。

今の新聞やテレビも異様だ。

メディアって、普段正義の味方づらをしているのに、こんなにもあっさりと、戦前と同じことをする存在になってしまえるのだな、と思いながら見ている。

こうしたメディアのありようも、この国が今「戦前」にあることを教えてくれている。

それでも、こんな異常な情報環境に慣れてしまっていいわけがないし、この期に及んで政治に無関心でいるのはあまりに危険なことだと私は思うから、時折水面から顔を出してぷはっと息継ぎするように、息抜きしつつ、なんとか踏みとどまって考え続けたいと思っている。

 

自分の頭を整理するために、この3ヶ月に続々と決められていった主な政策を知りたいと思ってネットに訊いてみたのだけれど、すごかった。

自民党や高市個人のサイトなど、政権側による「実績」を述べるページだけがずらずらと続き、GoogleのAIによる概説も、権力にとって都合のいいことしか書かれていなくて、びっくりした。

「公に与えられる情報」を見ていたのでは、今、何が起こっているのかが全く分からなくなっていることを実感した。

 

ちなみに、GoogleのAIが解説した、高市政権の取り組み。

1. 迅速な物価高対策と国民負担の軽減

2. 「強い経済」の実現と経済安全保障の強化

3. 外交・安全保障と食料・エネルギー安定供給

自民党のホームページの内容とほぼ同じ。

 

この3ヶ月に起こったこと、進められてきた実際の政策は、こういうものだったはずだ。

・殺傷能力のある武器を輸出売買ができるよう法改悪(五類撤廃)、

・台湾有事発言。失言によって中国との関係を急速に悪化させて謝罪・撤回せず

・軍事費の飛躍的かつ前倒しの増額

・国民への防衛増税

・「国家情報局」「スパイ防止法」「国旗損壊罪」など個人情報を国家が吸い上げ、自由な表現や思想を処罰できる国民監視の法整備

・高額療養費制度の解体

・医療制度、介護制度、年金制度、生活保護制度をはじめとしたと社会保障制度、福祉制度の個人負担増と受給額の切り下げ

・イランとの外交をせず、あらゆる分野での欠品、工事の中断など国内産業に悪影響を引き起こす

・正しく危機管理した企業を政府が「売名」と非難

・外国人差別的な法案、外国人経営の料理店の閉店、帰国が相次ぎ、経営管理ビザの新規申込みは96%減

・比例代表のみ国会議員定数削減

・米パランティアと契約し、個人情報を国や企業が個人への承諾なしに自由に利活用できるように法改悪

 

他にも抜けている法案は色々あると思うけれど、思い出せるものを書いてみた。

その上で「時は来た」と、改憲発議に乗り出しているのが、今だ。

最近の調査では、改憲を優先課題と考える人はわずか1%だったので、高市氏の言う「時」とは、「数の力であらゆる物事を強行採決できる時」という意味。

与党が改憲によって最も手に入れたいものは、緊急事態条項(国会維持機能条項)。

「緊急事態条項」とは、権力者の自己判断で政府に権限を集中させて、正当な手続きなく立法することを可能にし、選挙も停止し、何をしても安心して国会議員の椅子に座り続けることを可能にするための仕組み。

この一点だけ取っても、自民党が政権を担う資格はないと思う。

国会の憲法審査会のやりとりを一度でも見れば、これがどんなに正当性を欠いた、醜い欲望むき出しの主張かが普通に分かる。

 

日本はすでに世界で最も税負担率の高い国であり、さらにここ数年、日本は毎年最高税収を更新し続けている。

それなのに、国はステルス的な増税を更に繰り返し、国民生活への還元は減額と自己負担増を繰り返し、税金の大部分は、軍事や大企業の利益や国会議員自身のために注ぎ込まれていく。

だから、どれだけ納税しても、私たちの暮らしは全く楽にはなっていかない。

残念だけれど、これが我々が今置かれている現実的な状況だ。

「迅速な物価高対策」も、「国民負担の軽減」も、ほんの言い訳程度に過ぎない。

軍事と権力のために使われる額とは桁が違う。比較にもならない。

 

 

国会議員は、搾取や監視の枠組みから自分たちだけを都合良く外していることも、もっと広く知られなければならないことだと思う。

現在、日本の国会議員報酬は各種手当を含めると4000万円を超え、世界中の議員で最も高収入。

当然、国民年収との差も世界一。

そして、国会議員が受け取る金の半分は非課税で、残りの半分も自身の政治団体に大部分を「寄付をする」という形で非課税化できる仕組みを作っているので、納税していない国会議員は珍しくない、というか、自民党や維新なんて大半がそうではないかと思う。

更に、政党助成金や企業献金を受ける与党議員の一人当たりの年収は8000万円を超えるとも言われている。

政治家は、政治団体を引き継ぐことで、相続税も払わないで済む仕組みを作っている。

国民は、年収の半分以上を納税し、相続税も最高で55%も収めているというのに。

 

また、スパイ防止法の対象から、国会議員は除外されている。

つまり、国民は監視しても、国会議員は監視されることはない。

高額療養費制度が壊されることによる医療費の負担増も、国会議員には全く影響がない。

なぜなら、国会議員とその秘書は「国会議員秘書健康保険組合」という専用の健康保険組合に入っていて、どれだけ高額な医療を受けても支払いの上限は2万円だからだ。

そして、国会議員ための健康保険の財源の半分は、国民の税金でまかなわれている。

 

これほどの特権を持っていても尚、裏金を作り、国民健康保険を払いたくないがために脱法的なズルをしているのが今の与党議員たち。

脱税をしたり、法律違反を犯している者たちが、検察の無為によってまともに裁かれることなく、国民に対してはぎりぎりまで増税し、社会福祉を切り下げたり廃止したりし続けている。

権力者にさらに絶対的な権限を与えて、人々の抗議や非難を封じるために、国民を監視し、国民の人権侵害を法的に可能にする憲法に変えようとしている。

そして、自分は絶対に戦争に行かない者たちが、アメリカや大企業のために、日本を戦争できる国にするための仕組みを作り続けている。

 

それが、「この3ヶ月の間にこの国で起こっていること」のはずだ。

 

なんてしんどく、認めがい事実だろう。

書いていてつくづく嫌気がさしたー。はーしんどー。

一人ひとりの政治への無関心の果てに、国会議員がこれほど増長し、国民一人ひとりの首を絞めるフェーズに入っている。

安心して暮らせるためのセーフティネットが急速に壊され、自由に思っていることが言えない社会にどんどん向かっている。

だから、釈迦に説法だとは思いながら、不可視化されている事実をあらためてずらずらと並べ置いてみた。

「思い」や「意図」はいくらでも嘘がつけるが、「事実」は否定しようがないからだ。

 

あるものはあるし、起こっていることは起こっている。

ゆらゆらぐらぐらしながらでも、どんなかぼそい声でも、自分が本当に大事だと思うことを言語化することは無意味ではなく、目に見えないかたちで世界に波及していくと信じている。

そして、こういうことを書ける自由がいよいよ失われようとしている、そのことを今ひしひしと実感している。

 

2004年に作られた、この7分の短いアニメーションが描く世界に、2026年の日本がこれほど近接していることに、心から怯えてる

「そして彼女たちは」「オールド・オーク」

「そして彼女たちは」

2025年ベルギー・フランス合作/原題:Jeunes mères/監督:ジャン=ピエール・ダルデンヌ、リュック・ダルデンヌ/104分/2026年3月27日〜日本公開

「オールド・オーク」

2023年イギリス・フランス・ベルギー合作/原題:The Old Oak/監督:ケン・ローチ/113分/2026年4月24日〜日本公開

先週は、ダルデンヌ兄弟とケン・ローチの新作を立て続けに見た。

ダルデンヌが人間をシビアに残酷性をもって描き、ケン・ローチはよりヒューマンで人の善性をまなざすという味わいの違いはあれど、彼らの映画に対するスタンスは、かなり似通っていると言っていいと思う。

その時代時代の問題を抱える社会のはざまに落ちて苦しんでいる小さな個人に光を当て、一体なぜ彼らがそのような苦境にあるのか、そこにある社会構造を物語を通して可視化する。

ダルデンヌやローチが見出すのは常に、理不尽さと必死に闘っている、何かしらの弱者性を持ったごく普通の人たちだ。

時代の犠牲者のような、組織の後ろ盾を持たない脆弱な個人。

社会から透明人間みたいに扱われている人たち。

 

そうした弱い立場にある人たちを、生々しい心を持つ一人の尊厳ある存在として、彼らの人生の文脈を丁寧に描き出す。

人は、ある特定の属性やスティグマを持つ人を前にすると、ステレオタイプな枠組みに入れて、人を決めつけ、分かったつもりになってしまいがちだが、一人ひとりの文脈を知ることで、思い込みや偏見は揺らぎ、その人々の中に自らを見、人間をやっていくのは誰にとっても楽なことじゃないよね、という諦観に似た思いを寄せることになる。

そして、物語の中の人々、ひいては自分自身を苦しめている(でも目を逸らしてきた)社会構造と、はたと目を合わせることになる。

 

「弱者とは何か」という命題を持つのも、彼らの映画に共通するテーマだろう。

人は弱さや経済的、知的、身体的脆弱さのために、あなどられ、排除され、暴力をふるわれたり、無視されたり、搾取されたりすることが起こる。

弱さのせいで、惨めで辛い、恥ずかしい、悔しい思いをすることはいろいろある。

けれど一方で、弱さを持っているからこそ、優しさが生まれ、連帯が生まれる。

そして、人々が連帯した時、共に支え合った時、彼らはすでに無力ではない。

弱さを持っているからこそ、与え合う状況が生まれる。

弱さによって人はつながり合う。

そう考えると、誰にも迷惑をかけない強さみたいなものって、孤独なものだなと思う。

 

だから、あるものはあるのだ、とちゃんと声に出して言うこと。

そこにいる他者をちょっと気にかけ、共に食卓を囲んだりすること。

そうした地味で極めて個人的なことたちって、忙しい毎日の中で、あるいは他者との軋轢を恐れて、ついおろそかに、後回しにしてしまう。

でも本当は、自分の存在をかけて守り抜かなくてはいけないほど重要で、なにより優先すべきことなんだと思う。

それらを軽視したり、自分に閉じこもることがつのると、自分の存在を肯定できなくなっていく。

人は、他者なくしては、誰かに愛を向ける、誰かから愛を受けるということなくしては、生きられないのだという大原則が、彼らの映画の中にはいつも見える。

 

ダルデンヌもローチも、弱者を弱いだけの者としてはけして描かない。

むしろ、弱さを持つ者だからこそ持ちえる他者への想像力。

控えめで他意のない、いたわりの優しさと思いやり。

「持たない者」おのおのが自分にできることを持ち寄る中で、うねりのように生まれる活気。

そういう、弱いからこその強みをしっかりと描く。

もっと賢く、強く、すごくなれ、と常に駆り立てられているような世界において、それがどれだけ慰められ、励まされることか。

 

人は弱音を吐いたり、どうしていいか分からずおろおろ歩き回ったり、泣いたり、腐ったりする、頼りない生き物だが、他者の存在によって何度でも持ち直す、しぶとさを持つ。

人は、迷惑をかけたりかけられたりしながら、互いがつっかえ棒になって、温め合うように生きる。

どんなに社会が世知辛くなろうとも、人間性を手放すことはない。

手放したらそれは生きているということにはならないから、手放すことはできない。

私たち全員の体内には、温かい、同じ赤い色をした血が流れている。

 

彼らの人々への力強い眼差しは、一人ひとりの人間が内包する生き物としてのパワーへの確信と畏怖の念に裏付けられている。

私は、いつもいつもそこにすごく動かされる。

全てのものごとがものすごいスピードで移り変わっていき、あらゆるものが泥にまみれていくような時代にあって、彼らが変わらぬ頑固さで存在してくれて、あるものはあるのだということを静かに力強く見せ、人の尊厳を描く作品を作り続けていることは、なによりの希望だなと思う。

 

自分が、どちらの側に立ちたいか。何を大事に生きたいか。

彼らの映画は、いつも再確認させてくれる。

「ハムネット」

 

2025年イギリス/原題:Hamnet/監督:クロエ・ジャオ/126分/2026年4月10日〜日本公開

魔女は、なぜ人々から疎まれたり怖がられたり、ヒステリックなまでに弾圧される対象になったのだろう。

それはきっと、彼女らが(そもそもが男性に従うべき)女であるにも関わらず、王とか村の掟とか家父長制とかのあらゆる人間社会の枠組みに決して絡め取られない、誰にもかしずくことない、なびかない、恐れない、つまり支配不可能な存在だったからだろう。

 

魔女たちの上に君臨できるのは、自然だけ。

彼女らは、人間社会に生きる人々とは全く別の文脈の中で生きていた。

 

アニエスは、森の土の上をころげまわるようにして、五感であらゆることを感じて体全体で味わい、満たされ、喜びや悲しみを感じ、「生きる意味」みたいなものによりかかることをせず、自然に抱かれるようにして、無心にひたすらに生きる人。

そんな彼女のありようは、16世紀イングランドにおいてでさえ、粗野と見下され、忌避された。

でも、アニエスは全然粗野ではない。

確かに彼女は自分の見た目を気にして着飾ることに何の興味もなかったので、いわゆる洗練された見た目をしてはいなかったけれど(物語の初めから終わりまでずっと同じ深紅のドレスを来ていた)、薬草の知識をはじめとした、暮らしを営むための過不足ない技術に、むしろ誰よりも長けていた。

 

日本語の「人間」という単語は、6〜7世紀に中国から伝来したと言われる。

元々は、その漢字が示す通り、人の間つまり「人の住む世間」「世の中」という意味を持つ仏教用語だった。

人と人間(じんかん)は、あくまで別のことを指す別の単語だった。

それが、いつの間にか変わっていき、江戸時代(17世紀〜)以降、人のことを「人間」と表現するようになった。

言語とは人間の思想を反映しているもので、これは人と社会を一体とみなす人々の認識のあらわれであると思う。

日本であれヨーロッパであれ、近代以降の世界においては、この思想を共有せず、服従しない存在は、人々にとっては冒涜であり、脅威であり、ゆえに敵としてみなされるリスクと常に隣り合わせになったといえる。

 

人類は、他の動物とは比べ物にならないほど圧倒的に繁栄して、物質的豊かさや文化を獲得してゆくにつれ、全てが人の力でコントロールできる、人こそが世界のルールであり、支配者であるかのように振る舞うようになっていった。

人が一番重要で価値があり、他の動物や自然は、人のための「資源」とみなす考え方。

 

現在では、(口ではいろんなきれいごとを言うかもしれないけれど、)私たちみんな、程度の差こそあれ、基本的にそれを信じて疑わない前提で言動している。

もちろんその考え方に批判的で、それとは違う生き方をしている人はいるけれど、あくまで少数派といえると思う。

実際に、取り返しがつかないほどの深刻さで地球の自然環境が壊され続けて、その中で多くの動植物が絶滅したり、激減したりしているのだから。

あらゆることが人間都合で、よりありていに言えば資本原理に従って、それ以外に考慮すべきことは特にないという前提で、決定され、実行されていく。

そこに「人は自然によって生かされている存在だ」という視点を見出すことは、特に都市部においては難しい。

 

産業革命が起こったのは18世紀だが、16〜17世紀の絶対王政時代に始まった工場制手工業(マニファクチュア)が、資本主義の原点と言われる。この時代に「資本家」という存在も生まれている。

その16世紀のイングランドに、今もなお世界で最も卓越した劇作家・詩人として君臨し続けるシェークスピアという「クリエイター」が生まれたことは、きわめて示唆的といえると思う。

そして、「ハムネット」はあくまでマギー・オファーレルによるフィクションを交えた物語ではあるが、シェイクスピアが強く惹きつけられた女性が、自身とはまるで正反対のような、自然と深くコミットする、地にどっしりと足をつけた生き方をする魔女的な女性であったことは、とても興味深いことだ。

 

経済的に発展し、生活が豊かに楽になる素晴らしさを享受できるようになる一方で、人は自分自身の生を見失っていくレールに入っていくことにもなった。

この時代はその分かれ目のような時期だったのではないだろうか。

 

家族や小さな共同体の中での自給自足に近い土地に根差した生活からだんだんと離れ、都市に住み、あらゆるものをお金で買う生き方への転換。

自給自足するための大地から離れ、都市の貨幣経済に依存して生きるということは、文字通り足が宙に浮いたような、よるべない生き方といえる。

そこでは、何もかもをお金で買うのだから、よりお金を稼げる人間にならなければならないし、「稼げない人間には価値がない」という考え方も生まれる。

お金はひとりでに湧いて出るものではなく、他者からの何らかの要請に応えることや、評価されることによって「与えられる」という形で得るものである。

それゆえ、社会的成功、他者からの称賛、有名性といった他者評価や他者基準を重視する価値観も登場し、人々はそれに翻弄されるようになっていく。

シェイクスピアは、新しい時代の黎明期において、まさに最高の他者評価を得て、社会的・経済的成功を手にしたひとりとなった。

 

共同体から離れ、個人として生きることは、人々をあらゆる因習から解放し、自由にし、人間至上主義的な万能感をもたらしたが、その一方で、拠り所のない不安と、肥大した自我とは裏腹の、自分をちっぽけで無価値な存在と感じさせようとする何者かとの闘い、つまり他者評価との闘いを、深い実存的苦しみを、人々の心に徐々に植え付けることにもなった。

だからこそ、この時期を境に、人はフィクションなしには生きられないようになっていったのではないだろうか。

つまり、たくさんの人々が、シェイクスピアの描く物語を切望したからこそ、彼はその名を轟かせることになったのであって、それ以前の時代には、フィクションがそこまでは熱狂的に求められることはなかったのではないか、と。

誰もが共同体的生き方をしていた頃は、アニエスのように、フィクションを必要としない人が大勢いたのではないだろうか。

 

あまりに有名な「ハムレット」の一節、「生きるべきか死ぬべきか、それが問題だ」は、作品の中で、生きる苦悩にあえぐシェイクスピア自身の口から漏れ出た切実な叫びとして描かれる。

しかし、アニエスにそんな悩みはそもそも存在しない。

「べき」もなにも、彼女は、ただ生きているから生きている。

お腹が減ったら食べ、排泄し、男と交わり子を産み、子を育て愛おしみ、自分と家族にとって心地良い暮らしを工夫してつくる。

これほどかけ離れた者が同時に存在した、過渡期ともいえる時期が16世紀のイングランドだったのだろう。

 

アニエスは、物語の初めから終わりまで、一人の家来も持たない女王のような人だった。本当に、ほれぼれするような。

作品の冒頭は、鬱蒼とした森の中。

二股に別れた巨木をカメラがじっくりとパンアップした後、その木の根元にくるまるようにして眠るアニエスの姿を見せる。この物語の全てを伝えているような、美しいシーン。

やがてアニエスが初めての子を産気づいた時、その巨木の根元に彼女は一人で向かい、動物のように雄叫びを上げながら子を産み落とす。

その、畏怖を感じるほど、堂々としたさま。

 

夫のシェイクスピアは、子が生まれて間もない、アニエスの文脈に包まれて生きている短い期間は、身の回りの幸せを感じて安定していた。

けれど彼は、アニエスのようなあり方に強く憧れながらも、自身はそれに充足して生きることは結局できなかった。

彼は身体性で生きる人ではなく、知性と言葉を使って自己表現することで生きる人だった。

そして彼は、物語ることについて、誰よりも素晴らしい才能を発揮することができた。

むしろ、アニエスという存在を通して、近代的自我と自然との間に誰よりも引き裂かれて葛藤した人だからこそ、暴力的な父親を筆頭とした共同体の抑圧に誰よりも苦しんだ人だからこそ、これほど素晴らしいドラマを生み出せたのかもしれない。

 

アニエスは、どこか死んだばあちゃんを思わせた。

私のばあちゃんも、まじないのような仕草が普通に日常の中にあったし、野草をすりつぶして食ったりしていた。

ばあちゃんが本を読んでいるところを、見たことがない。テレビドラマに夢中になっているのも、見たことがない。

憧れ、尊敬しながらも、私は同じようには生きられない。

そんな私のような浮ついた生き方をする人々のことを、ばあちゃんはけして好きになれないことが、彼女の態度からはっきり伝わっていたので、私はそのことがずっと悲しかった。

 

でも今、私は現代的な生き方もやっぱり好きだって改めて思う。

自然も好きだけれど、自然以外のいろいろなものにも美しさを感じ、アートを楽しみ、お金で自分の好きなものや体験を手に入れたり、自分の好きな格好をして、世界のいろいろなところへ行く自由もあるって、どうしたって素晴らしいことだ。

何より、映画や本の世界が大好きだ。

 

この作品は、フィクションが持つ前向きな可能性を思い出させてくれた。

もちろんそれは、人を操作したり騙したりする意図を持った巧妙な物語ではなく、個人的で、切実で、祈りのような思いがこもった物語だ。

(全く成り立ちの異なるものを「物語」という同じ単語であらわすから混乱するのだと思う。別の言葉があってほしい)

物語は、客観性の力によって、思い込みを外して、ありのままの現実を照らすように見せてくれることもある。

物語に入り込み、そこで追体験するように自分の感情を深く感じきることで、何かが解決しないままに、自分を癒してくれることもある。

物語の中の他者を通じて、自分以外の誰かに思いを馳せて、そこにある愛や優しさや思いやりにはじめて気付けるということもある。

それは間違いなく、フィクションが持つ素晴らしい側面だ。

 

アニエスとシェイクスピアというひと組の男女の生きざまを通して私が思ったこととは、どちらか一方だけを採らねばならないということではない、ということだ。

というか、どちらも私の中にある。それは豊かで、ことほぐべきこと。

 

バランスを取るのは難しいことだけれど、複数の異なる文脈をいつも自分の中に持っていたい。

今は資本主義的な原理が力を持ち過ぎているけれども、その文脈の中だけで生きるのではなく、地に足のついた、あらゆる比較や評価から離れた、ごくパーソナルな文脈を、自分の中にいつも持っておくということが、きっと私にとって、とても、とても大事なことになるだろう。

デモに意味はあるのか

水曜日、全国150箇所で大規模な反戦デモが行われた。

直前になって、私の家からほど近い場所がエントリーしたことが分かったので、夕方から家族で参加してきた。

駅に着いたらすぐに、前から行きたかった老舗の中華屋さんに直行し、まずはたらふく美味しいものを食べて、ちょっと遅れて参戦した。

 

デモに参加するのは特定機密保護法反対の時以来だから、ほんとうに久しぶりのこと。

国会前は何万人という人出だったみたいだけど、私の行った場所は主催者発表で180人程度のこじんまりとしたものだった。

マイクの声すら小さく、不器用でおどおどとしたスピーチは何を言っているのかどうもよく聞き取れないくらいで。

それを、通路の両脇に立ち並んだ人たちが、ネットでプリントした可愛い反戦イラストを黙って片手に持ち、もう一方の手に持ったペンライトをふるふるふる、と小さく揺らして応えている。

そのなんともぎこちないさまが優しくて、微笑ましかった。

同時に、本来こんなことにちっとも慣れないような人たちが、「戦争反対」という基本すぎるメッセージに連帯するために、やむにやまれぬ気持ちで路上に出てきているというこの狂った事態に、情けなさや憤りを感じていた。

 

行き交う人々は、ほとんどが早足で通り過ぎていく。

「きっしょ!まじきっしょ!」と大声で言い捨てていくサラリーマン風の男性がいた。

2秒くらい空気が凍ったが、皆静かにスルーした。

 

1時間程度のデモの終盤、小学生2人の男の子を育てる若いお父さんが声を詰まらせながらスピーチしたのが心に残った。

会社帰りにここに来ました。

こういう場所に来るのは初めてのことです。

自分は、子供を戦争に行かせるために育ててるんじゃない、冗談じゃない。

恐ろしいことが急速なスピードで進行しているのに、会社や、周囲の人たちの反応はあくまで鈍い。

自分の方がおかしいのかと思うくらい。

こうして声を上げることで、今無関心に通り過ぎていく中の一人でも、少し心に留めてもらえたらと願っています。

皆、拍手とペンライトの光で彼の悲しみに連帯していた。

 

帰り際、娘氏は「しばらくデモから遠ざかっていたけれど、ちょっと元気出たからまたちょくちょく行こーっと」とのんびりと言っていた。

デモとしてあんまりいいことかどうかは分からないのだけど、盛り上がりの少ない、静かで、近所で疲れないような感じのデモだったのも良かったのかなと思う。

 

デモって激しいものと思われがちだが、もちろんそういうデモもあるとは思うが、参加している人のスタンスは、怒りだけではないと思う。

皆、自分の絶望にあらがい、自分を健やかに生きさせるために行動しているということがまずあると思う。

人は社会の中にあって、個人の感情をさまざまな形で抑圧されている。

権力や声の大きい者たちは、自らに都合の良いように、手を替え品を替え、倫理やルールを操作しようとする。

戦争反対って無責任に言えばいいってものでもないだろう、とか。

いろんな大人の事情があるから仕方がない、とか。

したり顔で押しつけてくる何かに思い切り良くあらがい、社会圧や「常識」に大人しく従っている自分を解放する。

その表現のひとつが、平和的なデモだと思う。

今起こっていること、今ごり押しで進められようとしていることを、私はちゃんと見ているし、全く賛成してませんから、と自らの行動で表明する。

自分と同じような気持ちを抱えた生身の人間たちが、確かにこの社会のそこここにいるのだということを自分の目で確認する。

不器用でも切実な声をあげているそれらの人を励まし、温かい連帯を示す。

自分の心に正直に行動すること、語ることは、人にとって何より大切なことのひとつだと私は思う。

 

先週、妹と話している時、「デモってなんか意味あるん?」と素朴に聞かれた。

その時はちょっと面食らって「いや、めっちゃあると思うよー」としか言えなかったんだけど、上に書いたような個人的な必然性に加えて、デモには、きわめて現実的な効果も確実にある。

なぜなら、SNSの台頭で双方向性は増したものの、依然としてマスの空間で日常的に人々に意見や考えを表明しているのは、権力者と知名度を持つ人たちとメディアの人間に限られている。

公空間とは、実は圧倒的に一方的なもので、非常に不公平なものだ。

権力や知名度がなく、メディアの人間でもない99%の人たちは、自らの意見や考えを広く表明する手段を持っていない。

99%の人たちが、「私はこう思っている」ということを社会に広く表明しようとした時にできることの数少ない、最も一般的な手段は、束になってデモ、あるいはストライキをすること。

それがニュースとなることで、社会にたくさんの人々の思いが可視化される。

ばかみたいに当たり前のことを改めて書くが、それ以外に一般の人たちの意思表示の方法がほとんどないからこそ、世界中の人々が事あるごとにデモをしている。

 

そんなことをしても無意味だ、恥ずかしいことだ、暴力的なことだ、などというメッセージを、そりゃ権力側は出すであろう。

平和的なデモ民をあたかも暴徒のようにみなして、なんとか警察権力によって遠ざけさせようともする。

でも、政治が国民に暴力をふるっていることを、彼ら自身がよく自覚しているからこそ、政治家はデモを怖がる。

 

国会議員は、私たちの税金で期間限定で雇った人に過ぎず、支配者ではない。

衆参合わせて国会議員は全部で713人しかいない。

さらに安倍政権以降になし崩し的に認められてきた「閣議決定」の構成員は、たった14人から19人だ。

3万、5万、10万という人々が実際の身体を持ち寄って、国会前を取り囲んで「勝手なことをするな、我々は認めない」という表明をし続けたら、それが713人の政治家とりわけ内閣にとって脅威にならないわけがない。

だからこそ、揚げ足を取られぬようあくまで平和的に、無理がこないよう、楽しく面白く、しぶとくプロテストし続けることがむしろ肝要だ。

 

そしてもうひとつのデモの重要な意味は、国内のみならず、世界中に人々の民意を示すことができることだと思う。

独裁的な政治権力は、自分たちの正義を国民の総意であるかのように語る。

そして、政府と国民は別の存在だが、ごっちゃにされがちなものでもある。

「アメリカ」と「イスラエル」がイランを攻撃した、と言うと、アメリカ人やイスラエル人を憎むべき存在と思いそうにもなる。

でも、アメリカ全土で、テルアビブで、とんでもない数の人々が集まって、軍や警察に脅かされながらも必死で政府に反対しているデモのニュース映像を通じて、私たちは今起こっていることにさまざまな複雑な思いを馳せることになる。

 

4/9の日本全国で行われたデモに対する大手メディアの報道は、到底不十分なものだった。

日本の報道機関が、多くの人々が政治に疑問や違和感を持っているという事実を出来るだけ報道したくないというスタンスは、もはや隠しようもなくなっている。

けれども、CNNをはじめとした海外の大メディアは、国会前のデモのニュースを通じて高市政権とはどんな政権なのか、今日本に何が起こっているのかを率直に報じていた。

日本のデモを知った韓国の人々による温かい連帯のムーブメントも起こっている。

世界中に軽蔑されているトランプに媚びたり、不用意な発言や謝罪を頑なに拒む姿勢で中国との関係を急速に悪化させている首相下にある日本にあっては、デモがニュースになることは外交的な意味さえ持つ。

 

だから、デモには意味はある。めちゃくちゃある。

世界中の事例がそれを証明している。

デモに参加したくてもできない人はたくさんいるし、デモが肌に合わない人がいるのも当然だし、本当は同様の効果を持つ他の手段がもっとあったらいいのだけれど、分かりやすくマスに訴えられる手段は、今のところ現実的にはあまり他にない。

 

「高市やめろー」と私たちは声を上げるけれども、首相ひとりが辞めることが根本的な解決でないのは皆分かっている。

今の国会議員の大多数が、ある種の人々の利益を体現するために買収された人たちであるという意味において。

分かっていながらも声を上げるのは、それは私たちが主権者であるという認識を取り戻すことに他ならないからだ。

だから、デモは日常と地続きであるべきなんだと思う。

 

この2ヶ月、私はほとほと絶望してきたし、すでにいろいろ手遅れなことも起こっている。

でも、だからこそ機会を見つけてまたデモには行こうと思ってる。

 

(2026/4/13加筆訂正しました)