みずうみ2023

暮らしの中で出会った言葉や考えの記録

エネルギー考

週末は二日とも雨。

よし、朝から近所の水族館へ行こう、と思い立つ。

小さい子をまた育てているので、本当に久々に水族館の年間パスを作った。

予想外の混雑は疲れたけれど、さくっと見て回って昼には戻り、昨日のビーフシチューをたらふく食べさせて、ご機嫌で眠らせることができた。

計画的に行動することが苦手な自分は、いつも末っ子のお尻を追っかけて後手後手へろへろな日々。たまにかっちりプランを完遂できると、すごい勝った感がある。うー快感。

 

大の字で眠る末っ子を横目に、老夫婦もゆっくりランチを食べ、お茶してしばらくしたら娘氏が打ち合わせから帰ってきた。お土産の菓子パンをつまみながらおしゃべり延長。

こないだのブログでも触れたけれど、最近なんだか娘氏がひっぱりだこである。

いろんな人がいろんな理由で娘氏に「ちょっと手伝って欲しいんだけど」「一緒にやってくれませんか」「大した額は出せないけどバイトどう」と声をかけてくる。

写真の仕事もまだ始めて間もないのに、ギャラ付きのれっきとした仕事としての依頼も複数あったりして、一体どうしたことだろう。

人の出入りが活発な時ってこうして重なるものだよねえ、と夫婦して感心して眺めている。

 

ところで、ここ1週間で一番印象に残っている話は、「ジェーン・スー堀井美香のOVER THE SUN」というポッドキャスト番組のEp.128(相手のことを考える、を、考える。)でのスーさんの「エネルギーの強い人」の話。

(スー)何度も言ってますが、エネルギーの塊みたいな我々はオワコンです。

じゃあ私たち何するかっていうと、エネルギーのない人を俎上にあげるという大きい仕事がありますから。

(堀井)トロ火、トロ火を出していくってことですね。

(スー)無理です、あたしたちの調整は無理です。ついてると思うなよ、トロ火機能。

〈中略〉

(スー)まじで、エネルギー量のある人の時代は終わり。あたしはスーパーオワコン。ほんとそれは自覚してる。

 

(「ジェーン・スー堀井美香のOVER THE SUN」Ep.128より)

この番組の会話って、一見すっごい陽気なおばちゃんトーク、もちろんそうでもあるんだけど、ふとした折に本質的な話にぐーっと入っていくところがとても刺激的で楽しい。

 

エネルギーの塊みたいな人がしんどいってほんとそう。

でも、今の世の中で公の人として目立った活躍をしている人たちを見ると、かなりの割合で多動でマルチタスクであんまり寝なくても平気、みたいなちょっと過剰な感じの人たちである。

能力や成功や努力を、こういう人たちを基準に語るっておかしいでしょ、と前々から思ってはいたが、それでも皆、競争に駆り立てられ、そういうゲームの中で世の中が動いていた感はすごくあった。

でもここ数年、いやそもそもそんなモーレツスーパーマンを目指したいか?いや、別にいらんし。

ああいう生き方って強欲すぎない?所有するよりはシェアしあって、軽やかに幸せに生きたいっていう気分に、多くの人の意識がどんどんシフトしてきているように感じる。

 

昭和の成長期と違って格差が広がり固定化され、地球環境は目に見えて壊れ疲弊している。

「社会はだんだん豊かに、物事は良くなっていく」「馬車馬みたくがむしゃらに頑張れば、成功やお金は後からついてくる」って世の中ではもはやなくなってしまった上に、坂道を転がるように国が貧しくなり続けていることで、社会に対する楽観も目減りし、無理ゲーを自己責任で押し付けられていることを多くの人が自覚しだしたこともあるように思う。

 

こういった状況に加えてSNSの広がりで、様々なジャンルの当事者、弱者の声が広く聞かれるようになって多様性の認識が急速にアップデートされている昨今、これからはもっと配慮的な世の中になっていくと思う。それはとても良いこと。

ガサツで強くて声の大きい人は、これまでは社会がそういう人をもてはやし、調子を合わせてくれていたが、これからはどんどん通用しなくなっていく。いるだけで加害性を帯びる可能性を持つ存在だという自覚が求められるようになるだろう。

パワハラもセクハラもモラハラも、なくなりはしないがどんどん肩身が狭くなっていく。

それによって良くなることも、新たな問題も起こってくるだろうが、変わっていくことだけは確かなこと。

 

で、このエネルギーの話は、娘氏の今の状況にも繋がっている話だなあと感じていて。

彼女がすでに何かを成したわけでもないのに、いろんな人が何かの折に娘氏のことを思い出し、頼みごとや話を持ちかけてくるのは、実績や能力とはもちろん関係がない。大して人柄を知ってのことでもない。

きっと彼女が今、発している若いエネルギーを、周囲の人たちは感知していて、なんとはなしに引き寄せられてる、そんな無意識的な動きが起こってるのではなかろうかと思う。

案外人気ポイントは、元引きこもりなのでエネルギー低めで年の割に落ち着いてるところなのかも、と思う。

スーさんの言う通り、あんまり元気だと、エネルギー量が低い大人には存在の圧が強すぎてくたびれてしまうので。

そして今の若者たちは皆もかれも忙し過ぎる。

娘氏のように暇そうな、何か頼まれごとを受けられる余地のありそうな若い子って、周りを見渡してみてもそうそういない。

そんな訳で娘氏が重宝がられているのかもしれない。

 

スピリチュアル的なことには疎いが、人って案外そういうエネルギー的なものを察知して、人と近づきたく思ったり、疎ましく感じたりという、直感的な判断をしているようにも思う。

そういう意味で人って良くも悪くもめっちゃ正直というか。

芸能人が急にわーっとブレイクしたり、「旬を過ぎた」みたいに言われたりするようなことにも近い感じ。

とりわけ若い人においては、エネルギーは本人のコントロール外の現象だったりする。だから人が寄ってくるということは良し悪しあって、別に一概に良いこととも言えないと思う。

他人の勝手な思惑でどうにでも変わってしまうようなことではある。

 

人の出入りが全然ない状態というのは、他人からすると「エネルギー的に与えてもらえるものがない」という肌感覚を持たれているということなのかも、しれないが、それはそれでしかなく、やっぱり人にとって大事なのは、景気ベースの関係性ではなく、信頼と愛情と長い年月を伴う地道な間柄だと思う。

取り返しのつかない失敗や、ままならない別ればっかりの人生って気もするが、年取るごとにそう思う。

 

今日もいたって静か。末っ子が眠っている間にこりこりと文章を綴る。

こまめに油を差して錆びつかぬように体調と気分を温存し、数少ないレギュラーメンバーと和やかに関わることを大事に地味な日々を繰り返す。

娘氏の、側でくるくるといろんな話が降ってきては軽やかに展開していくさまを、眩しいような、ああ自分もそうだったと懐かしく思い出すようなにっこりとした気持ちで見ている。

あの頃は、特にありがたいこととも思わず、それが当たり前のように思っていたものだったな。きっとあの子もそうであろう。

 

ともあれ、自分もはた迷惑にはならぬよう、できるだけ悪い気を出さず、良いエネルギーを出して生きていきたいものと思う。

 

再会

昨日の午後は市内某所での集まりに本当に久々に参加して、そこでもしや会えるかなー会いたいなー、となんとなくイメージしていた人に無事会うことができた。

しかし、その人が来月にはこの土地を離れて新しい人生を踏み出す、それも単なる移住とかではなく、仏門に入るということを知らされ、どびっくりであった。

その人の風貌は、昨日見た時にすでにお坊さんそのものに見え、その時着ていた赤いチェック地のラフなジャケットよりは、袈裟の方がずっとしっくりくると思えるほどで、その雰囲気の変化にも静かに驚いていた。

人の選択は、すべてが一長一短なんだろうし、基本全部が正解なんだと思うけれど、彼に降って湧いたように訪れたその人生の流れは、あまりに自然で、無駄な力がひとつもかかっていない穏やかさで、なるほどと深く納得させられるものがあった。

 

再会が嬉しくて、別れがたくてしばらく二人で立ち話をしていたが、きっとしんどいことやつらいこともあったんだろうなという優しくて傷ついたきれいな目をしていた。

じっと目を逸らさずに、笑顔で、噛みしめるみたいに優しく話し続けるその人と向き合っていると、不意に泣けてきて、慌てた。

 

こういう人を、今の暴力的な世界はどこまでも軽んじて踏みにじる。

隅へ隅へ追いやり、時には生きる最低限の小さな場所さえ奪ってしまう。

弱さを面倒くさく思い、声が小さいからといって何も考えてない人みたいに思い違いする。

どんだけ逆かよと思う。

簡単に白黒つけて切り捨てる、大声や力で押し通すことの、どれだけ雑で、浅はかなことか。

 

彼のような人が、自分の安心していられる場所で自分の生きたいように生き、彼にしかできない優しさと丁寧さで、人を助けて生きていく道に入っていくことになったことが、本当に嬉しいし、ありがたい。

もう会うこともないかもしれないけれど、幸せに生き抜いて欲しいと願う。

彼のような人が馬鹿にされたりいじめられたりする世の中を、絶対に肯定したくはないからだ。

寝不足の祝日の朝

もうどんどん春になるかと思ったら、少し曇って肌寒い。

久しぶりにホッカイロの袋を開けた朝。

 

午前中は、保育園仲間N家と川沿いの公園へ。

桜が満開になるのは来週くらいだろう。

 

夜中に何度も末っ子に起こされるので私は相変わらずの寝不足。

今朝も頭がずきんずきんと痛かった。

でも、いつも夫氏がここが痛い、何が辛い、これがしんどいと先んじて愚痴るので、私はほとんど何も言えない。

よれよれなんだろうし、年なんだろうし、仕方ないんだろうけれど、きついのはお互い様なので、自分のことを棚に上げて人を咎めるような態度はやめいと思う。

言っとくが私も全然優しくしてもらってはないからな。

色々言いたいことはあるが、子育て夫婦あるあるであることも承知なので、しょうがないね、と切り替える。

9時過ぎにはパパ友の「先に行って待ってるよー」のLINEにも背中を押され、えいやっと振り切るようにして自転車に飛び乗った。

行ってみれば子供たちは子犬みたいにじゃれあって可愛く、親たちもおしゃべりをしてるうちに随分気も紛れた。

気のおけない人と会うのは大事だなあ。

でも4月からは別の保育園。せっかく仲良くなれたのに寂しいねえ、と言い合う。

 

帰りに美味しいパン屋さんで、腹いせのように惜しみなくばんばんと籠に放り込み、山盛りのパンと帰途に着く。

腹いせで思い出したが、昔の友達に、夫さんが子育てを放り出して仲間付き合い優先でサーフトリップにしょっちゅう行ったり、浮気をしたりしているという人がいた。(この界隈のサーファー夫ではまあ聞くケースではある。)

彼女の家にお茶しに行くと、彼女が何か腹の立つことをされるたび秘密裏に買い集めた高価そうなジュエリーがじわじわと増えていくのだった。

今は疎遠になってもう色々忘れてしまったが、あのジュエリーは目に焼き付いている。

自分がジュエリーに興味もないがさつなタイプなだけに、その女っぽい意趣返しに胸がどきどきした。

私なんてあれに比べたらちょろいものだ。パンだもの。

 

同じ種類のパンを2つずつ買って帰ると、夫氏が温かい紅茶を入れてくれたので、ダイニングで向き合って一緒に食べた。

真ん中で末っ子がにっこにこでクリームパンを頬張っている、そのテンションの高低差www

どんどん外へ

雨の中、娘氏は都内へ。知り合いづでて某メディアから出演依頼を受けている。

最終的に引き受けるかどうかは未定だけれど、社会科見学と思ってとりあえず行ってみれば〜、と勧めておいた。

「あなたにぜひお願いしたい」と誰かに言われたことは、自分が思うよりも適性のあることなんだと思うので、嫌じゃなければ思い切ってトライしてみるといい。とりわけ若いうちは。

 

このところ、何かと彼女に行ってみれば、やってみれば、とすすめている気がする。

自分からがつがつ何かに手を伸ばしてる感じは特にないのに、向こうからいろんなものが降ってくる感じ。

あんなに一日中引きこもって病んでいたのが嘘みたいに、娘氏の日常がアクティブになっている。

毎日朝早く起きて、週に3回フルタイムのアルバイトを続けてるなんて。

まだうまく信じられない。

 

先週は、このイベントの養老先生と中沢新一氏の講演を立て続けに聴きに行っていた。

養老先生の融通無碍な語り口に自分の若さを痛感し、中沢さんの縦横無尽の教養をベースとした刺激的な話に「学ぶってこういうことなんだなーって思った」と感心しきりだった。

講演後に素敵な大人の女性とお茶をする機会もあって、色んな出会いを楽しんでいる様子に嬉しくなる。

 

自分が地方出身者だからこそ実感するが、東京圏内に住んでいる文化的なアドバンテージはやはり大きいものだと思う。

直接生身のその人に接してみると色々腑に落ちることやなるほどと思うことは多いので、気になる作家や芸術家に直接会いに行くことは良いことだと思う。

パリにいる息子氏も、なんだかんだで週2ペースでコンサートに通う生活をしているらしい。先輩にチケットを安く横流ししてもらえるみたいでありがたいことだ。

 

小さな枠組みからどんどんはみ出して、色んないいものも悪いものも見聞きして人と出会っていくことが、若い頃には一番だと思う。

自分の教えられることなんてほんとに限られているし、むしろ一番役立つのは反面教師としての役割くらいなんではないだろうかと思っている。

 

夜、帰宅した娘氏からあーだったよこーだったよとみやげ話を聞く。

詳細が書けないのでちょっとぼやかして書くが、メディアの大人ってのはずるいもので、自分たちのフィールドで話を進めるために、そもそもの前提条件がアンフェアだったり、ゴールポストをずれたところにさりげなーく置いてみたりするわけである。

あたかもそれが当然、常識みたいな顔をして。

自分たちの手の平の上で物事が逸脱なく展開するように。

けれど、そういう大人の姑息なトラップに、娘氏は

「だって、そもそもそういう恣意的な設問をすれば、話の展開も当然地に足のつかない、宙に浮いたものになることははじめから分かるから」と別に敵意を持つことも相手を否定することもなく、でもひとつも同調しないで通したみたいだった。

その場にいる人たちが皆、お金やメリットデメリットの話ばかり熱心にしているのにびっくりしたと言っていた。

まず賛成か反対かという立場を明確にしようとするのも、全然肌に合わないみたいだった。

それで聞き役に回っていたが、時々急に振られて自分の意見を問われても、誰もが言葉がひどく流暢で、でも言っていることがよく分からなくて困ったなあと思っていたと。

それでも、普段の生活では会えない、興味深い経験をしている人の話を聞けて面白かったよー、色んな人がいるんだねえ、とにこにこしていた。

 

なーんか目に浮かぶなあと思いつつ、それもこれも経験だね、と思う。

何よりも娘氏が、変にその場の空気を読んだり大人の期待に変に応えようとせず、別段敵対的になることもなく、ただ自分自身が落ち着いて本質的であることで、誰かに誘導されたりコントロールされたりせずに自然にいられることができる人であることを嬉しく頼もしく思った。

本人はなんだかなあ、浮いちゃってて困ったなあ、あんなんでよかったのかなあ、と言っていたけど。

 

意地悪なのは誰か

今年も無事、確定申告を提出できた。

滅多に自分を褒める気持ちになれない私が、唯一手放しで自分を褒めてやりたくなるほどの達成感を感じさせてくれる毎年恒例の苦行、確定申告。

エブエブでも、確定申告で役所の人にあーだこーだ言われてる最中に、マルチバースに飛んでっちゃうというのが、大スペクタクルの始まりだった。

いやあ、分かるなあ!きっとダニエルズも確定申告で頭ぐるんぐるん、お尻むずむずで逃げ出したくなったクチなんだろうな。

 

何十年生きてもやっぱり数字というものが、苦手である。

そして辻褄を合わせる行為というものが、苦手である。

さらに申請スキルというものがいささかもない。てか、申請という行い自体が全く好きになれない。

経理関係の職業は、最も自分には適性のない職業なんだろうなと思う。

年に一回確定申告することで、経理というものからほぼ無縁で人生が成立していることの幸せを感じて、胸をなでおろす。

私にとっては経理や税務のプロって、スーパーマンみたいにすごい人たちだ。

ミッションが無事終了した後は、他ではないほどせいせいとした開放的な気分を数日に渡って味わえる。もはやこの気分のために毎年確定申告をやってると言っても過言ではない。

 

 

日頃、銀行の通帳記帳すらしたくなく溜め込みがちなので、いつもこのシーズンには慌ててまとめて記帳をしている。

先日、駅前の銀行の支店へ末っ子乗っけて自転車で行ったら、銀行前のスペースが有料駐輪場になっていた。利用者サービスもない。

記帳のために5分停車しても100円かかる。

もったいないなと小さく躊躇してしまう。

 

このところ、私の住むエリアではちょっと駐車したり、駐輪したりというスペースがどんどんなくなっていっている。

これまでは無料で停めていた区画も、ここ数年でどんどん工事されて有料化している。いつの間にか料金もじわじわ値上がり。

地域の大きい公園は、さすがに自転車は無料だけど、車だと3時間も滞在すれば1000円超え。

 

はー、いちいち高いなーってふっと小さなしんどさが心をよぎる。

ただ生きて、生活圏内をちょこちょこ動き回っているだけでお金が目減りしていくことに、気付かないうちに心が削られてるように思う。

ただの日々の活動にこまごまと課金しようとする社会って、おおらかさに欠けるよなあ。

都市部に住んでいるから仕方ないと言われればその通りなのだろうけれど、世知辛い。

 

 

その銀行前の駐輪スペースには、有料スペース外に駐輪させないよう見張るための監視員が、ねずみ色の制服と帽子と緑の腕章をつけて立っていた。

もう老人と言ってよいほどの年代の人だ。

ああやって、ちょっとした隙間に停められないように目を光らせてるのか。もうなんかやだなあ、記帳はまた今度にしよう。

そう思って踵を返そうとしたら、監視員のおじいさんに、

「銀行に用事なの?じゃあ、この宝くじの店の前にちょっと停めるといいよ」

と声をかけられた。

一瞬虚を突かれて、え、そうですけど、いいんですか、と訊き返すと、

「すぐ済むんでしょう、いいよいいよ」とおじいさんは言う。

ありがたく目の前のスペースに停めさせてもらって、あちこちせわしなく動き回る末っ子に気を配りながら記帳をすませ、そそくさと自転車に戻る。

「ありがとうございましたー」と小さな声で言いつつ、末っ子を後ろの座席に座らせる間、おじいさんは遠くをぼんやりと見つめて返事をしなかった。

去り際、この人はここでねずみ色のぎこちない制服を着て、一体一日何時間、黙って立っているんだろう、とふと思った。

 

帰り道、自転車を漕ぎながらこういうの良くないな、ともの悲しい気持ちで考えた。

意地悪なのは、店舗の前の道路スペースを駐輪場にして、利用者からもお金を取ろうとする銀行側で。監視員を置いて見張らせる経費はかけるのに。

あのおじいさんは、多くの高齢の労働者同様、仕事の選択肢が少ない中で、あの仕事をおそらくお金のためにしている。

おじいさん自身がなにも意地悪な気持ちで見張ってるわけではなくて、「銀行が」おじいさんにああいう仕事と憲兵みたいな格好をさせて、意地悪な存在として記号化している。

でも、私はおじいさんを、あの制服の印象もあいまって、非寛容で意地悪い存在として反射的に嫌な気持ちを抱いた。

非寛容なのはああいうシステムにした企業の方なのに、おじいさんが行き交う人々に無言のうちにうとまれることになる。

ただでさえ高齢者に冷ややかな昨今なのに。

 

こういうズレをきちんと認識せずに、ものごとを切り分けずに、雑に印象で判断してしまうことで、人と人は簡単にすれ違い、ぎすぎすしてゆくものだと思う。

分断って、大仰な言葉だが、こういう些細なズレに端を発していることのようにも思う。

気をつけなくっちゃ。

 

 

自分の暮らす町の保水力みたいなものが、コロナ禍以降、また一段と目減りしているように感じる。

個人店や古い商業施設が潰れて、大資本の分譲マンションや大手チェーン店ばかりが増えていってる。

住宅街のお年寄りの住むゆったりとした敷地の家は、そこに住むお年寄りがいなくなったらすぐに潰されて、土地を4つとか6つとかに切り分けて、あっという間にぎゅう詰めで建売住宅が立ち上がる。

自転車を少し走らせれば親子三代手作りの和菓子屋さんなんかもまだあるけど、いつまで持つかな、と心配している。

 

いろんなものがどんどん変わっていっても、できるだけ親切に、丁寧であるために、意地でも余裕を手放すものかと思う。

気付いたら深呼吸をして、空を見上げて雲や月の形をしげしげと眺め、住宅地の小さな緑の変化を感じ、鳥の声を聴き、風を肌に感じる。

本当はもっと自然の多いところで暮らしたいけど、難しい。

そうやってなんとか余白を保とうと思ってる時点で、実際、相当しんどさを感じているということなんだろうなあ。

「エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス」

ポスター画像

2022年アメリカ/原題:Everything Everywhere All at Once/監督:ダニエル・クワンダニエル・シャイナート/139分/2023年3月3日〜日本公開

 

昨日はちょうど今年の米アカデミー授賞式の日で、あれもそれもどれも、ぜーんぶエブエブが授賞〜!とネットの速報ごとに興奮高まる状況の中、ぽてぽてと近所のシネコンへ行って鑑賞してきた。

一見いかにもポップでキャッチーなビジュアルだけれど、あの風変わりすぎる「スイス・アーミーマン」の監督なだけに、そんな飲み込みやすいものではなかろう、しかも139分あるし、と小さく気合いを入れて臨んだけれど、果たしてその通りであった。

 

この作品が、2022年を代表する作品として大喝采で受け入れられているということが痛快すぎて笑いがこみ上げる。

キテレツお下劣、整合性なんてぶっ飛ばす突き抜け感、しかし優れて暗喩的で愛と自由な精神に溢れたこのけったいな作品が、ハリウッドのメインストリームとして堂々評価され、世界中に大拡散されることになるなんて。

なんじゃこれ、口ぽかーんってなってる人が何百万人いることだろう。うう、最高。

 

そもそも、映画作品に優劣をつけるということ自体が無理だしナンセンスであるのは当然の前提として、とりわけ米アカデミー賞の立ち位置は、他のどの映画祭とも異なると思っている。

それは、今の世界の文化や価値観のスタンダードは、好むと好まざるとに関わらず、ハリウッドが提示する物語によって形作られていく部分が少なからずあると考えるからだ。

だから、オスカーの意味とは「今年はどの『物語〈ストーリー〉』がハリウッドから祝福を受けたのか」ということなんだと常々思って見ている。良くも悪くも。

アカデミー賞を受賞することの大きな価値とは、作品の芸術性の評価もさることながら、その映画が提示する世界観、価値観が世界のスタンダードとして急速に世界中の人々に受容され、組み込まれていくことにあると思う。

 

アメリカの優れたポップアートが提示する物語〈ストーリー〉は、単なるエンタメと侮られながらその実、どんな政治行動や学校教育よりも強く、速く、人々の意識を変革するパワーを持っている。

そして、ここ何十年間、世界に最も大きな影響を与える物語は、ほとんどがカリフォルニア州ハリウッド周辺から発信されてきた。

今では地球上の大多数の人々が、程度の差こそあれ、ハリウッドから送り込まれた物語を通じて、バーチャルなアメリカ文化に浸って過ごしている。

アメリカのエンタメを消費し、楽しんでいるだけのつもりで、実は世界中の人々が自前の土着の文化を緩やかに手放し、アメリカ的思想を無意識のうちに内面化している。

言語、服装、欲望、美の基準、物質主義。人々は教育や政治ではなく、ハリウッドエンタメの物語を通じて、アメリカの価値観に染まっていく。

そのような圧倒的な影響力をハリウッドが独占的に持っていることは、怖いことだし、かなり問題があることだとは思う。

しかしだからこそ、ハリウッド映画は『善き物語』を世界に提示し続ける責務がある。

多様性と平等を肯定し、差別や偏見を打ち砕き、人々のエンパシーを高め、意識をアップデートさせ、エンパワメントするような物語を。

 

もっとも、投票権を持つアカデミー会員の92%が白人、内75%が男性という偏った構成が2016年に問題視されて以降、非白人、非アメリカ人の会員をかなり増やした結果、ここ数年はハリウッドのエスタブリッシュメントの受賞が敬遠される傾向がより強まっているように見える。

スピルバーグも、トム・クルーズも存在感の薄い今年のオスカーだった。

 

そんなわけで「イニシェリン島の精霊」や「エンパイア・オブ・ライト」が無冠であったことにも、特段の感想はない。お祭りだから。

今年の〈ストーリー〉はエブエブだった、それ以上でも以下でもない。

ベトナムボートピープルからスピルバーグ作品の子役になり、30年の不遇の後にオスカー俳優になったキー・ホイ・クァンも、アジア人俳優として長いキャリアを持ちながら、60歳でキャリアの頂点を極めたミシェル・ヨーの堂々たる輝きも、今年のストーリーとして、全くもって非の打ち所がない。ちょっと出来過ぎなくらいだ。

一方で「シー・セッド」が全くノミネートすらなかった、この物語をハリウッドが黙殺したことは、あってはならないことだったと思う。

 

臭い物に蓋をするような側面を見せられたのは残念だったけれど、何はともあれエブエブは、コロナ禍のアジアンヘイトに痛めつけられたアジア系の人々を勇気づけ、「クレイジー・リッチ!」からまたさらに一段、今後アジア系への認識をアップデートするきっかけの作品になっていくだろうことは間違いがなく。

 

なによりも、アジア系にスポットライトが当たったこと以上に素晴らしかったのは、ダニエルズが彼らならではのパンチの効いた、かつ愛ある語り口で、今の世知辛い世界へのアンチテーゼとなる物語を示したこと。

誰もが情報の海に溺れ、何か損をしているような焦燥感を常に抱え、欲深さを刺激されて浮き足立ち、あまりの忙しさにすっかり余裕を失っている。

その帰結が、他者への想像力に欠け、雑で優しさのない、ギスギスした怒りっぽい世界。

人々は互いに傷つけあいながら、同時に孤独や不安や悲しみを抱えてもがいている。

この映画は、そんな世界への解毒剤として、大仰な愛や勝利や世界平和とかではなく、今目の前にいる人への「親切心」と「簡単に切り捨てない、見捨てない姿勢」を示したと思う。

今、語られるにふさわしい物語。とても本質的で実際的なメッセージだと思った。

 

ダニエルズには、これからも変わらず見る人を煙に巻くような、理解に苦しむような訳の分からん作品作りに磨きをかけてほしい。世界の豊かさを担保するために。

 

Everything Everywhere All at Once: What to know before Oscars - Los Angeles  Times

Congratulations!

 

「エンパイア・オブ・ライト」

ポスター画像

2022年イギリス・アメリカ合作/原題:Empire of Light/監督:サム・メンデス/115分/2023年2月23日〜日本公開

 

こんなに涙が止まらない映画を見たのは、久しぶり。

この物語を彩る人々の優しさ、人生の悲しさを抱きしめたからこその控えめで深い思いやりに溢れる優しさたちが、胸をうって、言葉を失った。

全ての要素が調和していて、美しすぎる。

素晴らしく繊細で、静謐で、端正。

オリヴィア・コールマンが、愛おしくてたまらなかった。最高の俳優だと思う。

 

この10年、大作ばかりを手がけてきたサム・メンデスだったけど、ここにきてあの「アメリカン・ビューティー」を超えるほどの作品を送り出してくれるとは、あまりに嬉しい予想外で、今もまだ胸がいっぱい。

 

この映画の持つ品格、思慮深さ、率直さ全てが、今の時代のアンチテーゼとなっている。

あらゆる意味で一流とは何かを見せつけられたという気持ち。

 

何よりまだ生きていきたいって思わせてくれた。

人間世界の夢を見せてくれた。

ありがとう、映画よありがとう、としか言いようがない。