みずうみ2023

暮らしの中でふと心が動いたことについて書いています

「ハムネット」

 

2025年イギリス/原題:Hamnet/監督:クロエ・ジャオ/126分/2026年4月10日〜日本公開

魔女は、なぜ人々から疎まれたり怖がられたり、ヒステリックなまでに弾圧される対象になったのだろう。

それはきっと、彼女らが(そもそもが男性に従うべき)女であるにも関わらず、王とか村の掟とか家父長制とかのあらゆる人間社会の枠組みに決して絡め取られない、誰にもかしずくことない、なびかない、恐れない、つまり支配不可能な存在だったからだろう。

 

魔女たちの上に君臨できるのは、自然だけ。

彼女らは、人間社会に生きる人々とは全く別の文脈の中で生きていた。

 

アニエスは、森の土の上をころげまわるようにして、五感であらゆることを感じて体全体で味わい、満たされ、喜びや悲しみを感じ、「生きる意味」みたいなものによりかかることをせず、自然に抱かれるようにして、無心にひたすらに生きる人。

そんな彼女のありようは、16世紀イングランドにおいてでさえ、粗野と見下され、忌避された。

でも、アニエスは全然粗野ではない。

確かに彼女は自分の見た目を気にして着飾ることに何の興味もなかったので、いわゆる洗練された見た目をしてはいなかったけれど(物語の初めから終わりまでずっと同じ深紅のドレスを来ていた)、薬草の知識をはじめとした、暮らしを営むための過不足ない技術に、むしろ誰よりも長けていた。

 

日本語の「人間」という単語は、6〜7世紀に中国から伝来したと言われる。

元々は、その漢字が示す通り、人の間つまり「人の住む世間」「世の中」という意味を持つ仏教用語だった。

人と人間(じんかん)は、あくまで別のことを指す別の単語だった。

それが、いつの間にか変わっていき、江戸時代(17世紀〜)以降、人のことを「人間」と表現するようになった。

言語とは人間の思想を反映しているもので、これは人と社会を一体とみなす人々の認識のあらわれであると思う。

日本であれヨーロッパであれ、近代以降の世界においては、この思想を共有せず、服従しない存在は、人々にとっては冒涜であり、脅威であり、ゆえに敵としてみなされるリスクと常に隣り合わせになったといえる。

 

人類は、他の動物とは比べ物にならないほど圧倒的に繁栄して、物質的豊かさや文化を獲得してゆくにつれ、全てが人の力でコントロールできる、人こそが世界のルールであり、支配者であるかのように振る舞うようになっていった。

人が一番重要で価値があり、他の動物や自然は、人のための「資源」とみなす考え方。

 

現在では、(口ではいろんなきれいごとを言うかもしれないけれど、)私たちみんな、程度の差こそあれ、基本的にそれを信じて疑わない前提で言動している。

もちろんその考え方に批判的で、それとは違う生き方をしている人はいるけれど、あくまで少数派といえると思う。

実際に、取り返しがつかないほどの深刻さで地球の自然環境が壊され続けて、その中で多くの動植物が絶滅したり、激減したりしているのだから。

あらゆることが人間都合で、よりありていに言えば資本原理に従って、それ以外に考慮すべきことは特にないという前提で、決定され、実行されていく。

そこに「人は自然によって生かされている存在だ」という視点を見出すことは、特に都市部においては難しい。

 

産業革命が起こったのは18世紀だが、16〜17世紀の絶対王政時代に始まった工場制手工業(マニファクチュア)が、資本主義の原点と言われる。この時代に「資本家」という存在も生まれている。

その16世紀のイングランドに、今もなお世界で最も卓越した劇作家・詩人として君臨し続けるシェークスピアという「クリエイター」が生まれたことは、きわめて示唆的といえると思う。

そして、「ハムネット」はあくまでマギー・オファーレルによるフィクションを交えた物語ではあるが、シェイクスピアが強く惹きつけられた女性が、自身とはまるで正反対のような、自然と深くコミットする、地にどっしりと足をつけた生き方をする魔女的な女性であったことは、とても興味深いことだ。

 

経済的に発展し、生活が豊かに楽になる素晴らしさを享受できるようになる一方で、人は自分自身の生を見失っていくレールに入っていくことにもなった。

この時代はその分かれ目のような時期だったのではないだろうか。

 

家族や小さな共同体の中での自給自足に近い土地に根差した生活からだんだんと離れ、都市に住み、あらゆるものをお金で買う生き方への転換。

自給自足するための大地から離れ、都市の貨幣経済に依存して生きるということは、文字通り足が宙に浮いたような、よるべない生き方といえる。

そこでは、何もかもをお金で買うのだから、よりお金を稼げる人間にならなければならないし、「稼げない人間には価値がない」という考え方も生まれる。

お金はひとりでに湧いて出るものではなく、他者からの何らかの要請に応えることや、評価されることによって「与えられる」という形で得るものである。

それゆえ、社会的成功、他者からの称賛、有名性といった他者評価や他者基準を重視する価値観も登場し、人々はそれに翻弄されるようになっていく。

シェイクスピアは、新しい時代の黎明期において、まさに最高の他者評価を得て、社会的・経済的成功を手にしたひとりとなった。

 

共同体から離れ、個人として生きることは、人々をあらゆる因習から解放し、自由にし、人間至上主義的な万能感をもたらしたが、その一方で、拠り所のない不安と、肥大した自我とは裏腹の、自分をちっぽけで無価値な存在と感じさせようとする何者かとの闘い、つまり他者評価との闘いを、深い実存的苦しみを、人々の心に徐々に植え付けることにもなった。

だからこそ、この時期を境に、人はフィクションなしには生きられないようになっていったのではないだろうか。

つまり、たくさんの人々が、シェイクスピアの描く物語を切望したからこそ、彼はその名を轟かせることになったのであって、それ以前の時代には、フィクションがそこまでは熱狂的に求められることはなかったのではないか、と。

誰もが共同体的生き方をしていた頃は、アニエスのように、フィクションを必要としない人が大勢いたのではないだろうか。

 

あまりに有名な「ハムレット」の一節、「生きるべきか死ぬべきか、それが問題だ」は、作品の中で、生きる苦悩にあえぐシェイクスピア自身の口から漏れ出た切実な叫びとして描かれる。

しかし、アニエスにそんな悩みはそもそも存在しない。

「べき」もなにも、彼女は、ただ生きているから生きている。

お腹が減ったら食べ、排泄し、男と交わり子を産み、子を育て愛おしみ、自分と家族にとって心地良い暮らしを工夫してつくる。

これほどかけ離れた者が同時に存在した、過渡期ともいえる時期が16世紀のイングランドだったのだろう。

 

アニエスは、物語の初めから終わりまで、一人の家来も持たない女王のような人だった。本当に、ほれぼれするような。

作品の冒頭は、鬱蒼とした森の中。

二股に別れた巨木をカメラがじっくりとパンアップした後、その木の根元にくるまるようにして眠るアニエスの姿を見せる。この物語の全てを伝えているような、美しいシーン。

やがてアニエスが初めての子を産気づいた時、その巨木の根元に彼女は一人で向かい、動物のように雄叫びを上げながら子を産み落とす。

その、畏怖を感じるほど、堂々としたさま。

 

夫のシェイクスピアは、子が生まれて間もない、アニエスの文脈に包まれて生きている短い期間は、身の回りの幸せを感じて安定していた。

けれど彼は、アニエスのようなあり方に強く憧れながらも、自身はそれに充足して生きることは結局できなかった。

彼は身体性で生きる人ではなく、知性と言葉を使って自己表現することで生きる人だった。

そして彼は、物語ることについて、誰よりも素晴らしい才能を発揮することができた。

むしろ、アニエスという存在を通して、近代的自我と自然との間に誰よりも引き裂かれて葛藤した人だからこそ、暴力的な父親を筆頭とした共同体の抑圧に誰よりも苦しんだ人だからこそ、これほど素晴らしいドラマを生み出せたのかもしれない。

 

アニエスは、どこか死んだばあちゃんを思わせた。

私のばあちゃんも、まじないのような仕草が普通に日常の中にあったし、野草をすりつぶして食ったりしていた。

ばあちゃんが本を読んでいるところを、見たことがない。テレビドラマに夢中になっているのも、見たことがない。

憧れ、尊敬しながらも、私は同じようには生きられない。

そんな私のような浮ついた生き方をする人々のことを、ばあちゃんはけして好きになれないことが、彼女の態度からはっきり伝わっていたので、私はそのことがずっと悲しかった。

 

でも今、私は現代的な生き方もやっぱり好きだって改めて思う。

自然も好きだけれど、自然以外のいろいろなものにも美しさを感じ、アートを楽しみ、お金で自分の好きなものや体験を手に入れたり、自分の好きな格好をして、世界のいろいろなところへ行く自由もあるって、どうしたって素晴らしいことだ。

何より、映画や本の世界が大好きだ。

 

この作品は、フィクションが持つ前向きな可能性を思い出させてくれた。

もちろんそれは、人を操作したり騙したりする意図を持った巧妙な物語ではなく、個人的で、切実で、祈りのような思いがこもった物語だ。

(全く成り立ちの異なるものを「物語」という同じ単語であらわすから混乱するのだと思う。別の言葉があってほしい)

物語は、客観性の力によって、思い込みを外して、ありのままの現実を照らすように見せてくれることもある。

物語に入り込み、そこで追体験するように自分の感情を深く感じきることで、何かが解決しないままに、自分を癒してくれることもある。

物語の中の他者を通じて、自分以外の誰かに思いを馳せて、そこにある愛や優しさや思いやりにはじめて気付けるということもある。

それは間違いなく、フィクションが持つ素晴らしい側面だ。

 

アニエスとシェイクスピアというひと組の男女の生きざまを通して私が思ったこととは、どちらか一方だけを採らねばならないということではない、ということだ。

というか、どちらも私の中にある。それは豊かで、ことほぐべきこと。

 

バランスを取るのは難しいことだけれど、複数の異なる文脈をいつも自分の中に持っていたい。

今は資本主義的な原理が力を持ち過ぎているけれども、その文脈の中だけで生きるのではなく、地に足のついた、あらゆる比較や評価から離れた、ごくパーソナルな文脈を、自分の中にいつも持っておくということが、きっと私にとって、とても、とても大事なことになるだろう。