「そして彼女たちは」

「オールド・オーク」

先週は、ダルデンヌ兄弟とケン・ローチの新作を立て続けに見た。
ダルデンヌが人間をシビアに残酷性をもって描き、ケン・ローチはよりヒューマンで人の善性をまなざすという味わいの違いはあれど、彼らの映画に対するスタンスは、かなり似通っていると言っていいと思う。
その時代時代の問題を抱える社会のはざまに落ちて苦しんでいる小さな個人に光を当て、一体なぜ彼らがそのような苦境にあるのか、そこにある社会構造を物語を通して可視化する。
ダルデンヌやローチが見出すのは常に、理不尽さと必死に闘っている、何かしらの弱者性を持ったごく普通の人たちだ。
時代の犠牲者のような、組織の後ろ盾を持たない脆弱な個人。
社会から透明人間みたいに扱われている人たち。
そうした弱い立場にある人たちを、生々しい心を持つ一人の尊厳ある存在として、彼らの人生の文脈を丁寧に描き出す。
人は、ある特定の属性やスティグマを持つ人を前にすると、ステレオタイプな枠組みに入れて、人を決めつけ、分かったつもりになってしまいがちだが、一人ひとりの文脈を知ることで、思い込みや偏見は揺らぎ、その人々の中に自らを見、人間をやっていくのは誰にとっても楽なことじゃないよね、という諦観に似た思いを寄せることになる。
そして、物語の中の人々、ひいては自分自身を苦しめている(でも目を逸らしてきた)社会構造と、はたと目を合わせることになる。
「弱者とは何か」という命題を持つのも、彼らの映画に共通するテーマだろう。
人は弱さや経済的、知的、身体的脆弱さのために、あなどられ、排除され、暴力をふるわれたり、無視されたり、搾取されたりすることが起こる。
弱さのせいで、惨めで辛い、恥ずかしい、悔しい思いをすることはいろいろある。
けれど一方で、弱さを持っているからこそ、優しさが生まれ、連帯が生まれる。
そして、人々が連帯した時、共に支え合った時、彼らはすでに無力ではない。
弱さを持っているからこそ、与え合う状況が生まれる。
弱さによって人はつながり合う。
そう考えると、誰にも迷惑をかけない強さみたいなものって、孤独なものだなと思う。
だから、あるものはあるのだ、とちゃんと声に出して言うこと。
そこにいる他者をちょっと気にかけ、共に食卓を囲んだりすること。
そうした地味で極めて個人的なことたちって、忙しい毎日の中で、あるいは他者との軋轢を恐れて、ついおろそかに、後回しにしてしまう。
でも本当は、自分の存在をかけて守り抜かなくてはいけないほど重要で、なにより優先すべきことなんだと思う。
それらを軽視したり、自分に閉じこもることがつのると、自分の存在を肯定できなくなっていく。
人は、他者なくしては、誰かに愛を向ける、誰かから愛を受けるということなくしては、生きられないのだという大原則が、彼らの映画の中にはいつも見える。
ダルデンヌもローチも、弱者を弱いだけの者としてはけして描かない。
むしろ、弱さを持つ者だからこそ持ちえる他者への想像力。
控えめで他意のない、いたわりの優しさと思いやり。
「持たない者」おのおのが自分にできることを持ち寄る中で、うねりのように生まれる活気。
そういう、弱いからこその強みをしっかりと描く。
もっと賢く、強く、すごくなれ、と常に駆り立てられているような世界において、それがどれだけ慰められ、励まされることか。
人は弱音を吐いたり、どうしていいか分からずおろおろ歩き回ったり、泣いたり、腐ったりする、頼りない生き物だが、他者の存在によって何度でも持ち直す、しぶとさを持つ。
人は、迷惑をかけたりかけられたりしながら、互いがつっかえ棒になって、温め合うように生きる。
どんなに社会が世知辛くなろうとも、人間性を手放すことはない。
手放したらそれは生きているということにはならないから、手放すことはできない。
私たち全員の体内には、温かい、同じ赤い色をした血が流れている。
彼らの人々への力強い眼差しは、一人ひとりの人間が内包する生き物としてのパワーへの確信と畏怖の念に裏付けられている。
私は、いつもいつもそこにすごく動かされる。
全てのものごとがものすごいスピードで移り変わっていき、あらゆるものが泥にまみれていくような時代にあって、彼らが変わらぬ頑固さで存在してくれて、あるものはあるのだということを静かに力強く見せ、人の尊厳を描く作品を作り続けていることは、なによりの希望だなと思う。
自分が、どちらの側に立ちたいか。何を大事に生きたいか。
彼らの映画は、いつも再確認させてくれる。