みずうみ2023

暮らしの中でふと心が動いたことについて書いています

デモに意味はあるのか

水曜日、全国150箇所で大規模な反戦デモが行われた。

直前になって、私の家からほど近い場所がエントリーしたことが分かったので、夕方から家族で参加してきた。

駅に着いたらすぐに、前から行きたかった老舗の中華屋さんに直行し、まずはたらふく美味しいものを食べて、ちょっと遅れて参戦した。

 

デモに参加するのは特定機密保護法反対の時以来だから、ほんとうに久しぶりのこと。

国会前は何万人という人出だったみたいだけど、私の行った場所は主催者発表で180人程度のこじんまりとしたものだった。

マイクの声すら小さく、不器用でおどおどとしたスピーチは何を言っているのかどうもよく聞き取れないくらいで。

それを、通路の両脇に立ち並んだ人たちが、ネットでプリントした可愛い反戦イラストを黙って片手に持ち、もう一方の手に持ったペンライトをふるふるふる、と小さく揺らして応えている。

そのなんともぎこちないさまが優しくて、微笑ましかった。

同時に、本来こんなことにちっとも慣れないような人たちが、「戦争反対」という基本すぎるメッセージに連帯するために、やむにやまれぬ気持ちで路上に出てきているというこの狂った事態に、情けなさや憤りを感じていた。

 

行き交う人々は、ほとんどが早足で通り過ぎていく。

「きっしょ!まじきっしょ!」と大声で言い捨てていくサラリーマン風の男性がいた。

2秒くらい空気が凍ったが、皆静かにスルーした。

 

1時間程度のデモの終盤、小学生2人の男の子を育てる若いお父さんが声を詰まらせながらスピーチしたのが心に残った。

会社帰りにここに来ました。

こういう場所に来るのは初めてのことです。

自分は、子供を戦争に行かせるために育ててるんじゃない、冗談じゃない。

恐ろしいことが急速なスピードで進行しているのに、会社や、周囲の人たちの反応はあくまで鈍い。

自分の方がおかしいのかと思うくらい。

こうして声を上げることで、今無関心に通り過ぎていく中の一人でも、少し心に留めてもらえたらと願っています。

皆、拍手とペンライトの光で彼の悲しみに連帯していた。

 

帰り際、娘氏は「しばらくデモから遠ざかっていたけれど、ちょっと元気出たからまたちょくちょく行こーっと」とのんびりと言っていた。

デモとしてあんまりいいことかどうかは分からないのだけど、盛り上がりの少ない、静かで、近所で疲れないような感じのデモだったのも良かったのかなと思う。

 

デモって激しいものと思われがちだが、もちろんそういうデモもあるとは思うが、参加している人のスタンスは、怒りだけではないと思う。

皆、自分の絶望にあらがい、自分を健やかに生きさせるために行動しているということがまずあると思う。

人は社会の中にあって、個人の感情をさまざまな形で抑圧されている。

権力や声の大きい者たちは、自らに都合の良いように、手を替え品を替え、倫理やルールを操作しようとする。

戦争反対って無責任に言えばいいってものでもないだろう、とか。

いろんな大人の事情があるから仕方がない、とか。

したり顔で押しつけてくる何かに思い切り良くあらがい、社会圧や「常識」に大人しく従っている自分を解放する。

その表現のひとつが、平和的なデモだと思う。

今起こっていること、今ごり押しで進められようとしていることを、私はちゃんと見ているし、全く賛成してませんから、と自らの行動で表明する。

自分と同じような気持ちを抱えた生身の人間たちが、確かにこの社会のそこここにいるのだということを自分の目で確認する。

不器用でも切実な声をあげているそれらの人を励まし、温かい連帯を示す。

自分の心に正直に行動すること、語ることは、人にとって何より大切なことのひとつだと私は思う。

 

先週、妹と話している時、「デモってなんか意味あるん?」と素朴に聞かれた。

その時はちょっと面食らって「いや、めっちゃあると思うよー」としか言えなかったんだけど、上に書いたような個人的な必然性に加えて、デモには、きわめて現実的な効果も確実にある。

なぜなら、SNSの台頭で双方向性は増したものの、依然としてマスの空間で日常的に人々に意見や考えを表明しているのは、権力者と知名度を持つ人たちとメディアの人間に限られている。

公空間とは、実は圧倒的に一方的なもので、非常に不公平なものだ。

権力や知名度がなく、メディアの人間でもない99%の人たちは、自らの意見や考えを広く表明する手段を持っていない。

99%の人たちが、「私はこう思っている」ということを社会に広く表明しようとした時にできることの数少ない、最も一般的な手段は、束になってデモ、あるいはストライキをすること。

それがニュースとなることで、社会にたくさんの人々の思いが可視化される。

ばかみたいに当たり前のことを改めて書くが、それ以外に一般の人たちの意思表示の方法がほとんどないからこそ、世界中の人々が事あるごとにデモをしている。

 

そんなことをしても無意味だ、恥ずかしいことだ、暴力的なことだ、などというメッセージを、そりゃ権力側は出すであろう。

平和的なデモ民をあたかも暴徒のようにみなして、なんとか警察権力によって遠ざけさせようともする。

でも、政治が国民に暴力をふるっていることを、彼ら自身がよく自覚しているからこそ、政治家はデモを怖がる。

 

国会議員は、私たちの税金で期間限定で雇った人に過ぎず、支配者ではない。

衆参合わせて国会議員は全部で713人しかいない。

さらに安倍政権以降になし崩し的に認められてきた「閣議決定」の構成員は、たった14人から19人だ。

3万、5万、10万という人々が実際の身体を持ち寄って、国会前を取り囲んで「勝手なことをするな、我々は認めない」という表明をし続けたら、それが713人の政治家とりわけ内閣にとって脅威にならないわけがない。

だからこそ、揚げ足を取られぬようあくまで平和的に、無理がこないよう、楽しく面白く、しぶとくプロテストし続けることがむしろ肝要だ。

 

そしてもうひとつのデモの重要な意味は、国内のみならず、世界中に人々の民意を示すことができることだと思う。

独裁的な政治権力は、自分たちの正義を国民の総意であるかのように語る。

そして、政府と国民は別の存在だが、ごっちゃにされがちなものでもある。

「アメリカ」と「イスラエル」がイランを攻撃した、と言うと、アメリカ人やイスラエル人を憎むべき存在と思いそうにもなる。

でも、アメリカ全土で、テルアビブで、とんでもない数の人々が集まって、軍や警察に脅かされながらも必死で政府に反対しているデモのニュース映像を通じて、私たちは今起こっていることにさまざまな複雑な思いを馳せることになる。

 

4/9の日本全国で行われたデモに対する大手メディアの報道は、到底不十分なものだった。

日本の報道機関が、多くの人々が政治に疑問や違和感を持っているという事実を出来るだけ報道したくないというスタンスは、もはや隠しようもなくなっている。

けれども、CNNをはじめとした海外の大メディアは、国会前のデモのニュースを通じて高市政権とはどんな政権なのか、今日本に何が起こっているのかを率直に報じていた。

日本のデモを知った韓国の人々による温かい連帯のムーブメントも起こっている。

世界中に軽蔑されているトランプに媚びたり、不用意な発言や謝罪を頑なに拒む姿勢で中国との関係を急速に悪化させている首相下にある日本にあっては、デモがニュースになることは外交的な意味さえ持つ。

 

だから、デモには意味はある。めちゃくちゃある。

世界中の事例がそれを証明している。

デモに参加したくてもできない人はたくさんいるし、デモが肌に合わない人がいるのも当然だし、本当は同様の効果を持つ他の手段がもっとあったらいいのだけれど、分かりやすくマスに訴えられる手段は、今のところ現実的にはあまり他にない。

 

「高市やめろー」と私たちは声を上げるけれども、首相ひとりが辞めることが根本的な解決でないのは皆分かっている。

今の国会議員の大多数が、ある種の人々の利益を体現するために買収された人たちであるという意味において。

分かっていながらも声を上げるのは、それは私たちが主権者であるという認識を取り戻すことに他ならないからだ。

だから、デモは日常と地続きであるべきなんだと思う。

 

この2ヶ月、私はほとほと絶望してきたし、すでにいろいろ手遅れなことも起こっている。

でも、だからこそ機会を見つけてまたデモには行こうと思ってる。

 

(2026/4/13加筆訂正しました)