明日は関東に台風1号が近づく見込みらしい。直撃ではないようだけれど。
台風の前はいつも、気持ちが泡立つ。
独特の予感をはらんだ空気がもったりと重い。
身体の奥でアラートが鳴る。
おののくような、どこかぎらぎらと湧き立つような感覚になる。
でも。
その感覚を感じているのは台風の前ばかりじゃないことにはたと気付く。
いつの頃からか、頭の片隅には常に「予感」が居座るようになっている。
今、私たちは「何か」が起こる前の暫定的な時間を生きている。
どこかにいつも、そういう感覚がある。
さまざまな事象が、人類が破滅に向かっていると告げている。
あくまでも人間は、歩みを止めない。
全てがやりっぱなしの汚しっぱなし。
やがて巨大なしっぺ返しがくるということを、誰もが薄々感じている。
近いうちに「何か」が来るのは明らかで、それはおそらく多くの人にとって良くないことだ。
自分だけは上手いことやって逃げられると思いたいが、誰もが一蓮托生だ。
コロナ・パンデミックは、まるでその前哨戦だったようにも思える。
「その時」が来たら、人類はどうするのだろう?
世界の不安を反映して、地球の異常事態を描いたサスペンス・スリラー映画は今どき珍しくもないのだけど、本作が興味深いのは、その異常事態とは一体何かについては潔く放り出し、異常な状況下に置かれた人間の心理や振る舞いにフォーカスしている点だ。
本作は、現代人を取り巻く不吉な予兆のバリエーションを、ひとまとめにパッケージして見せてくる。
私たちの優雅で快適な生活は、社会システムが精密につつがなく機能していることの上に成立している。
ひとたび基本的なインフラが機能しなくなったら、あっという間に無能力化し、おろおろするしかない。
所詮、薄氷の上でパーティをしてるだけなのだ。
予兆は、さまざまな異変の形をとって何度もサインを送ってくる。
危険が迫っている、と。
しかし、誰も「起こっている物事が何を意味しているか」を想像しようとはしない。
とりあえず、自分たちには関係がない。
自分たちの安全と快適が守られていれば、それ以上のことは考えない。
必要なものや人の助けは、お金で買って済ませればいい。
私たちは、もう全てを捨てて逃げるしかない、という段になってやっとびっくりして動く。
私たちは、本当はこんなにも脆弱なのに、かりそめの安心に緩み切っている。
しかし、いかに正面から向き合うことを放棄し、無自覚で鈍感であるように見えても、さまざまなサインは人々を漠然とした不安に駆り立てている。
だからこそ、人々はこんなにも憂鬱そうで不機嫌である。
サイバーテロ、停電やテクノロジーの機能不全によるインフラの麻痺、移民、中東嫌悪、アジア蔑視、戦争紛争内戦ジェノサイド、黒人差別、未知の感染症、監視社会、陰謀論、利己性むき出しのトランプ主義者的人々、経済破綻の危機、そして地球環境の危機。
世界は幾つもの不安要素に全方位的に取り囲まれている。
こんな世界では、むしろ不機嫌にならないほうがおかしい。
なぜあなたはいつも怒っているのかと問われた時の、主人公のアマンダ(ジュリア・ロバーツ)の台詞は、まさに作り手の心情の吐露だ。
毎日、朝から晩まで、私の仕事は人をある程度理解して、嘘をつくこと。
不必要なものを売りつけるために。
そういう目で人を観察し、人間関係を眺めていると、分かる。
人は、傷つけ合う。
常にいつだって、気付かぬうちに。
人間は、地球の全ての生物をぞんざいに扱いながら、紙ストローを使ったり無農薬チキンを食べることでごまかしている。
そんなもの、何の役にも立たないのを知っているくせに。
私たちは、わざと偽りの生活を送っている。
お互い承知の上で、妄想をごり押ししている。
自分たちがどんなにひどいかを、認めたくないから。
資本主義の成れの果て、もうなるようにしかならぬ段階なんだと認めざるを得ない中で、どう納得性のある生を自分なりに生ききるか、何を子どもたちに手渡せるのか、こういう作品を見ると改めて深く考え込んでしまう。
作中の重要なモチーフである、物言わず見つめてくる鹿との対峙は、自然から致命的にかけ離れ、痛ましいほど鈍麻した哀れな人間の姿を可視化していた。
鹿の目を、見つめ返せる自分でありたいと、思うのだけれど。