みずうみ2023

暮らしの中で出会った言葉や考えの記録

ムズカシイとは何か

外遊びができないほどの暑さのために、夏のあいだ会っていなかった友達ファミリーと、近所の森に行ってきた。

自然のままの森に溶け込むようにして、ツリーハウスやアスレチックの吊り橋がある素敵な場所。

ハイジのオープニングみたいな大木に吊るされた長ーいブランコ、森の入り口にはヤギが放牧されている小さな一角もある。

子どもたちは終始コロコロと笑いながら機嫌良く遊び、友達のとこの下の妹が眠くなったからそろそろ帰ろうと促すと、兄は帰りたくないーとママの足にしがみついて泣いていた。

かわいいな。また来ようね。

 

友達夫婦とは、ほとんどはたわいもない子育て話をする仲だが、ふとした折にぐっと深い話になることもある。

基本は、日本の暮らし90点!と高評価の彼らだが、ヨーロッパ人である彼らが日本で暮らす難しさはもちろんあって、時々溢れ出るようなやるせない思いを聞く。

そんな彼らのここ最近の大きな悩みの一つが、彼らの息子が通う幼稚園との関わりについて。

それがいかにも日本特有の理不尽という感じなので、何の適切なアドバイスもできない。

私自身が、これまでこうした理不尽に向き合って克服するという経験をしてこなかったことに、改めて気付かされる。

すぐあきらめてその場からひとり去るみたいなことばっかりであった。

役に立てなくてひたすら申し訳ない。

 

彼らの息子が通うのは、自然育児を掲げるこだわりの小規模幼稚園だ。

少人数でもやはり日本の学校組織である以上、そこは日本社会的な性質をしっかり帯びている。

つまりその園では、園長の考えや園の方針に疑問を呈したり、お互いの希望や意見をフラットに話し合えるような素地がどうやらあまりないらしい。

 

たとえば、入園説明会では「ここは小規模だから普段から密に話し合って、子供の状態に合わせてフレキシブルな保育に対応します」と言っていたのに、いざ相談や要望を園に伝えると、全く取り合ってもらえない。

彼らが対話を求めると、園長は曖昧な笑顔で「考えておくのでまた来月話しましょう」と言う。

しかし、来月になって再度切り出すと、「来月話しましょう」とまたも言われてしまう。

しまいに「いや、あなたはどう思うのですか」と重ねて食い下がると、園長は「難しい」と言う。

他の保護者に相談しても、みんな「難しい」と言うばかり。

「みーんなムズカシイ、ムズカシイ。ムズカシイって何!?」とママ友は憤慨していた。

 

そんな彼らの話を聞いていると、私ってとっても日本人なんだなと実感する。

本音と建前がかけ離れていること(言行不一致)をあまり気にしなかったり、

いち人間ではなく、「立場」からものを言いがちだったり、

全体のために自分の考えを押し殺しがちだったり、

違うこと・異質なことに何しろ慣れていなかったり。

こうした日本的要素はそれぞれに興味深い論点を含んでいると思うけれど、それはまた別の機会に。

 

「ムズカシイ」とは何か、について考えたい。

あくまで個人的な考えだけど、それは「応答しないこと」をどこか軽く考えているということではないだろうか。

というか、「問われたことには何かしらのresponsibilityを果たす義務がある」とは、さほど思っていない人が、実はまあまあいるのじゃなかろうか。

もとより日本語は主語がなくても会話が成立する言葉だ。

だから、自分の責任において何かを返答しなければならないことに迫られる経験が、他言語圏の人々よりも少なくなる傾向はあると思う。

国内外の要人の記者会見などを見比べても、日本語って自分の意見か誰かの意見か曖昧なままに、答えたくないことには答えないで逃げ切るのに便利な言語だといつも思う。

 

友達夫婦は基本的に控えめな人たちであり、日本の暮らしに順応するために前向きに努力している。

けれど、自分の意見を積極的に言うことを避けて察し合う日本的なコミュニケーションのあり方や、同調圧力で異論をふさぎ、暗黙のうちに従わせようとする全体主義的なものごとの進め方には、かなり強いストレスを感じているようだった。

そして、彼らなりの異議申し立てに対して、どこからもまともな返答が得られないまま、ただスルーされ続けることに疲れと悲しみを感じているように見えて、つらい気持ちになった。

 

日本人は親しくなるのに本当に時間がかかる人たち、とパパ友は言う。

「まず8ヶ月間くらいはお天気の話。一緒に遊ぼうって誘うのは1年後くらいね」と冗談めかして言う。

親しいとか親しくないっていうエクスキューズなんて不要で、そんなに人付き合いに構える必要はないのに、多くの日本人はすごく構える、とちょっと寂しそうに言っていた。

ひとつには、彼らが白人の見た目をしていることはやはりあると思う。

彼らと一緒に公園で遊んでいると、時々独特の視線を感じる。

 

ただ、それは結局、単なる慣れの問題だとは思う。

「一番の問題は、日本人はみんな忙しすぎること」と友達夫婦は言う。

とりわけ小さな子供のいる共働き家庭は、日々の暮らしが朝から晩までやることでびっしりで、これ以上の何か別の予定を入れるような余地がないし、その練り上げられたフォーメーションを日々遂行していく、暮らしとはそれでいいんだと考えているように思えると。

 

確かに今、人と関わることに身構えたり、おっくうになっている人は社会全体でも少なくないと感じる。

特にコロナ禍以降は、誰もが異質な他者と関わるわずらわしさから逃げ、淋しいけど一人でいる方が楽だと考える向きが広がった。

でも、人が人と会って喋ったり、一緒にご飯を食べたりして、誰かとのんびり共に過ごすことは、いつだって人が生きるうえで大切な楽しみのひとつであるはずだ。

それがないのは淋しいことだと彼らは考えている。

 

今、ヨーロッパに住んでいる上の息子が以前言っていた。

日本では友達と遊ぶとは、ショッピングモールに行くとかカラオケに行くとか、「何かをする」ことだった。

でもフランスでは家にあるちょっとした食べ物を持ち寄って、公園の芝生に座っておしゃべりして過ごしたり、散歩したりして過ごす。前もってかっちり約束をしたりもしない。お金が全然かからないし、気楽なんだ、と。

 

私は目的や生産性というものにとらわれて、家族以外の誰かとただ共に過ごすということを、いつの間にか随分後回しにするようになっていたかもしれないな、とふと思う。

「明日遊べる?」「いいよ〜」っていうような気楽なやり取りをして、ただ集ってわいわい誰かと共に過ごすことはシンプルに楽しいことだったんだということを、なんでこんなにも忘れてしまっていたのだろう、って。

孤独から目を逸らし、スマホで余白を全部埋めて生きていくのか?

どうしていつも時間がない、時間がないと追われるような気持ちなんだろう?

いつの間にか巻かれているような、溺れているようなこの日常を、一度立ち止まってしっかり考えないといけないんじゃないだろうか。

あっという間に子供は育って離れていくし、あっという間に人生だって終わってしまうのだから。

ふと、そんな思いに駆られた。

 

 

今回久々に会って、「あれから幼稚園の件はどうなったの」とママ友に訊いてみた。

なんと園の譲歩が得られて状況が改善していた。

すごい!どうやって?と訊くと、どれだけごまかされても流されても「で、考えてもらえましたか?」って毎朝言い続けた。7日連続で!と彼女はいたずらっぽく、少し誇らしげに笑った。

「空気なんてあります?見えないですけど?」で押し通すのは、外国人だからできる技ってところはあるけれど、笑。

でも、本当に偉いな、自分と息子くんのために頑張ったんだね、と思う。

私も見習わなくっちゃ。

私なりのやり方で、理不尽に向き合っていきたい。逃げてるばっかりじゃなく。

 

友達ファミリーと別れた後、「この先小学校中学校、もっといろいろあるんだろうねえ」と呟くと、夫氏は「いやあ、小学校からはインター(ナショナルスクール)に行けばいいんだと思うよ。その方がいいよー」と言っていた。

まあ確かにそうか。

私としては、本人の希望ではなく幅寄せされるようにして外国人のための学校に通うことになるのだとしたら、少し残念だなと感じる。

願わくば、多様な背景を持っていたり、異なる個性を持つ子どもたちが楽しく通えるような、本当の意味でのインクルーシブな学校がもっと社会全体で増えるといいと思う。

 

均質的な環境を安全に思う人がいることは理解できる。

でも、私は子供の頃から社会にはいろんな人がいるんだっていうことに環境で慣れてしまっておくというのが一番いいんじゃないかと思っている。

気がつけば普通にみんな友達だった、というような環境がいい。

違うことによる軋轢は必然的に起きるが、学校はそこでの問題解決の経験を積むことのできる、そういう社会経験を積める場所であってほしい。

異質な他者と共に生きる術を学ぶことは、勉強よりもずっと大事なものなんじゃないかと思うから。

何より、人が一人ひとり違うことは、面白く豊かなことだから。