落書きが突然アート作品としてバズって、嵐のような毀誉褒貶に巻き込まれる男の話。
今の世界では、誰かが絶え間なく「これには価値がある」「これは無価値」というジャッシを繰り返している。
誰よりも権威のある誰か、誰よりも目利きな誰か、誰よりも金を持っている誰かによるジャッジメントに、全体が無思考に追随する。
それによってものごとの価値が評価され、その扱われ方がおおむね決まってくる。
本当は、誰だよてめえなに様だよ、という話なのだ。
誰かのジャッジメントは、所詮好みの問題である。
気まぐれで不確かなものだって多分に含まれている。
今私がこうして書いているように、人は何かに対して好きなことを言う生き物だが、全ての意見は本来等価であるはずだ。
でも今の世の中では、なぜか特定の誰かの意見は尊重されありがたがられ、別の誰かの意見は全く顧みられない。
それは、本当はおかしいことだと思う。
つまり、誰もがてんで勝手にそれぞれの好みを表明し、それらに従って好きに生きていればいいだけのことが、ありとあらゆるものが資本主義の価値のふるいにかけられているということだ。
そのプロセスによって、私たちはどれほど多くのものを見失い、自分を信じられずにいることだろう。
誰かの意見を鵜呑みにしていることを、あたかも自分自身の意見のように思い込んでいることだろう。
まるを描いた沢田本人は、一貫して静かで何もない場所にぽかんと立っているだけである。
まるで、台風の目の中にいるみたいに。
彼が黙ってじっとしている間に、
世間では感動の嵐が巻き起こり、
大きなお金が動き、
それっぽくラッピングして見せて価値をより釣り上げようとし、
あれこれしたり顔で論評し、
勝手に嫉妬され、
擦り寄っておこぼれにあずかろうとされ、
社会で起こっている問題をお前もないがしろにせず考えろって責められる。
そして、沢田が黙ってじっとしているうちに、やがて嵐が過ぎ去るみたいに、勝手にそれらの物事は消費され尽くし、飽きられあるいはほとぼりが冷め、まるで元から何もなかったかのようにあっさりと忘れ去られていく。
その毀誉褒貶には、彼の言動は一切関係がない。
全部誰かが勝手にやったことであり、沢田にとっては全部とばっちりである。
利益はほぼ全部誰かが持っていってしまったが、あやふやな「一時的な名誉」みたいなものと「製造物責任」だけは沢田が負わされることになる。
つまり、クレームは沢田にどうぞ、ということだ。
これに似たことって、私たちの身の回りでも、年中起こり続けている。
これは「バズる」ということの一連の動きそのものだから。
そんなものは全部まやかしだよ、と物語は伝える。
他者に判断や価値を開け渡すと、いずれ行き詰まる。
そもそも、他者は当然、彼らの利害や、感覚や、好みといった他者都合でジャッジしている。だけ。
一人の意見を、あたかも絶対的な、公平なジャッジのように装うから(そんなもの原理的に存在するはずがないんだけど)、勘違いが起こる。
本当は、そんなジャッジに対して引け目を感じたり、自信をなくしたりする必要はないのに。
「ご要望に応える」ことを生きていく上での指針になんてしちゃいけない。
誰がなんと言おうと、私はこれが好きなんだ文句あっか、と言って、自分の好きなことにてんでで打ち込んでおればいい。
人は他者と共に生きる以上、あらゆることに対する折り合いというものは必要になるが、基本的には多分そういうことなんだろうと思う。
と、なんだか堅苦しいことを書いてしまったが、とぼけた味わいのコメディ作品で、気負わず見られる。
いい映画って大抵そうだが、タイプキャストでなく俳優のポテンシャルをぐぐっと引き上げるようなキャスティングも素晴らしかった。
荻上直子監督の作品は、これからも心待ちにしていく。