みずうみ2023

暮らしの中で出会った言葉や考えの記録

「料理と利他」「家事か地獄か」

年末年始は、認知症の義父にとって不安が増幅する期間だ。

彼がいつもランチに通っている近所の地域の人々でやっている食堂(兼居場所)が長期休暇になるし、生協の夕食の配食サービスも数日間はお休みになる。

彼の住む鎌倉の山上は、ハイキングコースなどもあって自然豊かな場所だけれど、お店はほとんどなく、一番近いドラッグストアも徒歩ではとても行かれない距離にある。

昨年車も処分して、足は市バスのみだが、バス停の場所を忘れてしまったりと使うのはおぼつかなく、一回2000円は超えてしまうが、配食のない時は、ほぼウーバーイーツ(たまに出前館)に頼ることになる。

高いなあと思うけど、遠隔でお願いできるので本当に助かっている。

 

何かイレギュラーなこと、とりわけ何か納得のいかないことが起こると一日10回、20回と夫の携帯が鳴るけれど、基本的に彼の不安の源は「三度三度の食事が自分の元にきちんと届くか」それに尽きる。

10時には昼食の注文を心配する電話が夫の携帯にかかってくるし、17時5分に夕食がまだ届いていない時は、軽いパニック状態で連絡が来る。

もちろん17時までに食事が届くように手配しているが、なぜか義父が家のインターフォンのコンセントを何度でも抜いてしまうので、配達に気がつかずに「どうなってんだ」となる。

 

ここまで時間に厳密に連絡が来るというのは、身体的な空腹感ではないのだろうと思う。もうめっきり山歩きもしなくなってしまって、ずっと家の中にいるようなので、お腹もそれほどすかないんじゃないかなと思うし。

生存へのとても強い不安感なんだろうな、と思う。

 

 

土井善晴中島岳志著/2020年/ミシマ社

 

稲垣えみ子著/2023年/マガジンハウス

 

この年末年始に、土井善晴中島岳志著「料理と利他」、稲垣えみ子著「家事か地獄か」を読んで、自分が毎日食事をこしらえる人で本当に良かった、助かったと思った。

米を炊き、ありあわせの野菜を放り込んで味噌汁を作り、あとは少々のおかずや飯の友。

そんな簡単な食事を、今ではほぼ自動操縦でやることができるということが、今後歳をとっていくにあたって、どれほど自分への確かさに繋がっていくことだろうと思う。

 

全く家事をしない実家の父も、病に伏せる前から口を開けば母に「昼めしは〜」「夕飯は〜」と毎日聞いては母にうっとおしがられていたし、よく聞く話ゆえ、そういう中高年男性は世の中多いのだろうと思う。

義父はもう10年以上一人暮らしで、生前から義母は料理をできなかったが、毎食外食に頼る暮らしだった。

お店での人間関係が彼の元気の源でもあったので、それはそれで良かったと思うけれど、どうしてあくまで自分で料理をしてみようとは思わないのかな、外食ばかりで普通に疲れないのかしら、と不思議に思ってはいた。

 

でも、私たち主婦でも子供が巣立ってしまった後に食事を作る気が全然起きない、という話をたびたび聞くし、私も家人がいない時は「わーい休める!」と途端に食事づくりを放り出している。

健康的で質素な食事を自分の体が欲するということはもちろんあるが、「毎日自分のために作るのだ」という意識はまだまだ低い。

皆で外出して帰ってきて、他の皆はソファで当たり前に、なーんも気付かずに寛いでいるのに、私は座ることもままならずせかせか食事の支度をしなくてはならない時などは、食事づくりを当然のように押し付けられていることをすごく理不尽に感じる。

 

でも、この二冊の本を読んで、別の価値観のスイッチが小さくカチリと入った。

「毎度毎度の簡単で健康的な食事を自分の手でこしらえ、自分で自分の世話をして生きてゆく」という主体的な決意を持ち、日々実践することは、実は生きる不安を払拭する最大かつ不可欠な方法なのではないか。

第一、目の前の男親たちが身をもってそれを証明している。

 

体よく家事、とりわけ食事づくりを自分以外の誰かに当然のようにやってもらっていたり、お金で済ませている人は、楽だし得だくらいに思っているかもしれないが、それは、生き延びる能力の大きな部分を自ら手放していることに等しい。

まじでほんとうにそうなのだ。

 

土井善晴さんの「料理は食材が勝手に美味しくするんですよ、味噌自体が上手いんやから、まずくなりようがない。味噌汁が濃くても薄くてもそれぞれに美味しいんです。野菜から出汁が出るんやから毎度毎度鰹出汁なんて取らんでよろしい」という言葉、魔法の言葉だったなあ。

日々の料理が責務である私にとって、「私が作った料理」は家族に「ジャッジメントされるもの」であった。

夫は灰色の天然(@穂村弘)なので、昔のバイトの先輩が言ってたらしい「まずい食材はない、下手な料理法があるだけだ」を何かの名言風に言ってみたり、同じおかずが続くのを嫌い、育ちのせいもあってファミレスぽい重たい洋食メニューを好むわりに「普通に美味しいものが食べたいだけ」(毎日失敗せず「普通」にするのは相当大変なことだし、「普通」っていう本人にしか分からない物差しでジャッジされる人の身にもなってほしい)とか言う。

たまにでもそういうことを言われるのはすごくプレッシャーで悲しくもなったし、終わりのない料理作りにますます嫌気が差していた。

毎日のことで慣れきっているから仕方がないとは思うが、作ってもらっている側にとっては料理って当たり前のことで、あんまり感謝もないものだ。

 

でも「料理は食材が自ら作る、人はそれに手を添えるだけ」という土井さんの考えに触れ、料理が「自力で」作ったものではなくなったら、とても気持ちが楽になったし、面白くなった。

ままならないことが当たり前で、食材が違う以上、毎回違うものができるのは当然で、それら全部が私の責任ではない、ということの軽やかさ。

きっちり作らず「ええ加減」を見る、というスタンスになると、かえって料理がうまく行くようになったことも驚きだった。

そういう実験精神で、もっと自分のための料理を面白がれるようになるといいなあと思っている。

 

稲垣さんの「老いてしんどくなったら、都度無理のないようにサイズダウンして楽なものにしていく。食べるものも、住まいも、着るものも、持ち物もどんどん小さくしていけば大丈夫」という清々しい思想も、とても希望あるものだった。

家族がいると彼女ほど大胆に減らせないが「たくさんのものを所有することが豊かで得」という価値観が、根底からひっくり返った一冊だった。

今のご時世、断捨離本は山のようにあれど、稲垣さんの本はどれも「自分が限りある資源と状況の中で、いかに幸せに生き切るか」という問いがベースにあるため、やはり他のライフハック本とは一線を画すのが「食事づくりという生きる最大にして基本の技術を決して手放すな」という思想だったと思う。

 

 

「生きることは食べること」なのは、義父の食事に対する執着からも明らかだ。

資本主義の便利な社会に生きていると、すっかり忘れられているけれども、食べるものを自分で作れないということは、生存のもっとも根幹に関わる部分を自力で賄えないということを意味している。(料理していた人が作れなくなる状況ももちろんあるが)

それは本当はかなり怖いことなのだ。

自分でやろうと思えばできるのに、誰かに食事作りを丸投げしたり買ったりして、楽だラッキーと思っているのは、思う以上に深刻な思い違いかもしれない。

 

今の世の中は、めんどくさいをお金で何とかすることに罪悪感を持つ必要はないというイデオロギーがある。

もちろん、誰もが多忙な中、便利な何かに頼ることは悪いことではないが、世の中の大半のイデオロギーは「その思想の方が企業が儲かるから」という理由で広められていることは多いので、注意が必要と思う。

実は、大抵はめんどくささの中にこそ、面白さや喜びや大事なものはあるのだよな、と長く生きてきた実感として思う。

 

ジェンダーギャップ指数が世界最低レベル、かつ世界一の超高齢社会のこの国で、男たちがやらなければいけないことは、女たちの手から家事を取り戻すこと、なんじゃないのー、と冗談交じりに思ったり。