みずうみ2023

暮らしの中で出会った言葉や考えの記録

YOASOBIの紅白のステージを見て思ったこと

紅白をリアルタイムでは見なかったんだけど、いくつかのステージを遅ればせながら見た。

どのアーティストにもさすがの気合いを感じつつ、YOASOBIの完璧に作り込まれたステージが圧倒的だった。

これがトリでないなんて、なんともったいない。

今、この時代が目の前で歌い上げられている、という感じだった。眠気が吹っ飛んだ。

 

自分自身はアイドルに疎いが、ジャニーズ喜多川による大規模な児童性虐待の問題があって、昨年はアイドルや推し活について考えることが多かった。

娘氏が撮影の実績を積みたいためにコスプレ界隈に足を踏み入れたことで「コスプレイヤー」なるアイドルとホストの中間のような独特な存在を知り、色々闇が深い話を多く聞いたこともある。

今年の紅白ジャニーズ不在も、ジャニオタの妹や姪っ子はものともせず。

晦日はジャニーズの夜通しのライブ鑑賞で寝不足だよー!と年明けにご機嫌なLINEが来ていた。

 

楽しそうで良かった良かった、と思う一方で、私はアイドルへの推し活をあまりに爽やかなものとして語る、最近よく聞かれるようになった語り口には違和感を覚えてきた。

推し活の形は十人十色で誰がどのように推し活しようとその人の自由なのは当然。

ただ、推し活という行為が避けがたく含むある種の側面をまるっと「ないこと」みたいにして、諸手を挙げて健全な行為とみなすような流れにはもやもやしていた。

そういうことは大抵別の何かに利用されるから、注意が必要だというリテラシーの観点からもそう思うし、何であれ、あるものをないとすることにはアラートが鳴る設定になっている。

 

でもまあ、人間のやることなすこと全てがいびつさや狂気と背中合わせなのだと言われたらその通りとしか。

今ではあらゆるジャンルで情熱を持って応援すること全般を推し活と言うけれど、ことアイドル界隈の推し活に関しては1980年代からずっとあったこと。

ファンが自らのアイドルを神格化して、そうすることでアイドルは生身の人間であることが許されなくなるというある種の人権侵害的な関係性も、これまでもずーっとあったことで、その狭間で何人ものアイドルが人生を損なわれていったこともよく知られている事実。

 

YOASOBI「アイドル」のアイドル像は、健全でもポジティブでもない、そして神格化もされていない。

妬み嫉みにまみれ、美しさは過酷な食制限の上に築かれたものであり、弱みや汚点を隠して誰よりも強く完璧に振る舞い、そうでない自分を誰より自分が許せず、自らを無敵で最強と常に鼓舞し、完璧な嘘つきを自認する。

ストイックに完璧であり続けようとするあまりに歪みと欠落を抱えた人間丸ごとを、胸を張って歌い、その周りをびっしりとバービー人形みたいな完璧な肢体と笑顔の日韓のスーパーアイドルたちが取り囲み、紙吹雪舞う中、キレッキレのダンスを見せるさま。

これぞショービジネス、という凄みがあった。

 

そう 嘘はとびきりの愛だ

誰かに愛されたことも 誰かのこと愛したこともない

そんな私の嘘が いつか本当になることを信じてる

嘘と毒を双方承知の上でひとときの夢を見せる命がけの遊び。

そんなアイドルの世界の禍々しさを正面切って歌い上げることで、欺瞞を華々しく昇華して見せた。

これは一種の解毒だと思うし、Ayaseは心ある作り手なのだなと思った。

 

日本で一番たくさんの人が見るであろうステージの上にいる人が、嘘を嘘とちゃんといい、アイドルを不完全で生々しい人間だとちゃんと言うことの意義は、大きいと思う。アイドルにとっても、ファンにとっても。

なんてったってアイドル」を歌った小泉今日子が、1980年代アイドルをもっともまっとうな人としてサバイブしたように。(しかし昭和と令和のダーク味の違いに白目になる〜)

 

誰もが自由に存分に推し活を楽しめばいいけど、推しは生きた人間であることを忘れず、自分を損なうほどには真に受けないでほしい。

結局のところ、思うことはただそれだけなのかも。