実の妹とそのひとり娘の姪っ子(大学生)が、年季の入ったジャニオタである。
春に帰省して会った時には、例の英BBCがジャニー喜多川による性犯罪を告発したドキュメンタリーがすでに放映され、世間的に物議を醸していたので、雑談の折にこのことをどう思っているのか、妹と姪っ子に聞いてみた。
いつも温和な妹が、思いがけなく苛立った調子で返してきて、おお、とひるんだ。
姪っ子は、なんというか、意見というもの自体がないみたいにぽかーんとしていた。
あっさり引き下がって話題を変えたけれど、実に印象的な出来事だった。
昨日は敬老の日だったので、実家の母に短い電話を入れた。
母は、姪っ子が地方都市のジャニーズのコンサートチケットが当たったので行くこと、相変わらずバイト代を全部右から左でジャニーズにつぎ込んでいると話していた。
「ジャニーズなんて一旦なくなった方がええと私は思うけど、言うたらキレられそうやろ?だから黙ってるねん。あの子らうちでも、いっつもジャニーズの話しとるけど、そんなことまるで起こってないみたいに話しとうわ」
しかし、世の中の反応を眺めていると、妹、姪っ子に限らずそういうジャニーズファンは少なくないと思われる。
いや、ジャニーズファンだけではない。そういう人は思うより多いのじゃなかろうか。
7月に「性暴力とは何か」についてブログに長い記事を書いた。
今目の前に提示されている事象とは、こういう意味をもつのだということを、自分自身への確認を含め、改めて書きたいという思いがあった。
暴露されたジャニー喜多川による類を見ない規模の男児・少年への性犯罪事件に対する世間の反応は、めちゃくちゃふんわりしていて、強い違和感を覚えた。
でも、よく考えてみれば自分が感じているもやもやって、何もこの事件だけのことではない。
今、この国で立て続けに起こり続けているさまざまな間違った政治判断や、腐敗や、不透明で納得性の薄い税の使われ方や、差別容認や、弱者や少数者への想像力のなさといったもの。
それら諸々のよろしくないことに、もちろん個人的に憤る、でもそれ以上に、こうしたかなり底の抜けたようなことが、現在進行形で私たちの社会の中で起こっている中で、それがどんなイシューであっても、
「え?全然知らないんだけど。何か悪いことあるんだっけ?なんかすごい怒ってる人もいるみたいだけど、よく分からない」
というスタンスの人々が、多分この国の主流なのだということ。
そのことが何よりもやもやする、もやもやの中核にずっと居座っているのだろうと思う。
自省を込めて書く。
この社会の中心的な役割を担う大人たちが、
社会や人生のことは(逃げ場のない当事者になるまでは)ほぼ考えず、
本も読まず、
選挙も行かず、
自分以外の立場の人々のことを想像することもせず、
自分の仕事のことだけやっていればいいって思っている。
目の前に不都合で複雑な事実が差し出されたら、
見て見ぬ振りをして、そんなものは存在しないかのように扱い、
あるいは声を上げたり、権利を主張する者を疎ましく思って攻撃して黙らせ、
自分が今のままを維持できて、これ以上何の配慮もしないで済む方が良く、
何があっても私は上機嫌でポジティブでありたい、みたいな。
自分で考えてみるということをせず、
多数派が正しいとし、
黙っている、傍観している方が得であり、
誰か権威的な人が話していることを鵜呑みにして、自分の意見のように内面化している。
そうして周囲に合わせておれば、大抵のことはうまくやり過ごせる。
普通に考えて、
社会の大多数がそんなんだったら、
良い社会になる道理がないよねと。
誰もが一人の人として、各々の人生を一所懸命生きている。
今のご時世、余裕のある人は少なく、誰もがそれぞれの問題や悩みを抱えている。
自分も小さな人生を生きている。
誰かを責めたいとか全然思わないし思えない。
ただ、ひとつの端的な事実として、今の日本は毎回の選挙結果が端的に示す通り、社会や他者に無関心な人々が最大の層であり、その結果、政治は明らかに暴走していて、私たちの暮らしは安心より不安が増加する方向に向かい続けている。
妹が「今回ジャニーズに起こっていることをどう思う?」と問われた時に逆ギレっぽくなったのって、やはりファンという立場から生ずる複雑な思いが一番にあるのだろうと思う。
でも意識的かどうかは分からぬが「社会的な個人」としての脆弱さを不意に突かれた不快感もどこかにありそうに思う。
(相互依存的な推し活の仕組みがはらむ悪質性については、今回の件を通じて改めて考えさせられていて、そのことはまた別に書きたい。)
いずれにしてもジャニーズ事件を通じて、私たちの社会は、個々のばらつきはあるものの、総体としてはいまだ社会的な個人が未確立な段階にあるということが可視化されたのだと感じている。
(続く)