はからずも似た2作を立て続けに見た。
どちらも緻密に作り込まれ、洗練された作品だったけれど、作品自体をあれこれ語りたいとは思わない。
思うことは結局、このことに尽きると思うからだ。
いったい、人間の知性とは、賢さとは何なのか。
イノベーティブな能力を持つ人々のことを、この世界では、普通の人よりも上等な人間として優遇し、特別視している。
本人たちも自分を優秀だと思っていたり、能力によって得た富を当然の権利みたいに独占的に抱え込んでいる人もいる。
でも、彼らは単に専門分野に詳しく長けているに過ぎない。
特定の物事に詳しいことは、人としての成熟とはなんの関係もない。
むしろ「専門家」は、何のために自分の賢さを使うのかという基本を、ともすればすぐに忘れ、近視眼的に手段を目的化し、実現のためには、時にモラルや人間性さえ手放す。
今も昔も、世界最高レベルで有能とされている人たちが、その賢さを結局何に使っているかといえば、権力者や有力者の欲望や、支配や、金儲けのために使われるばっかりである。
もちろん、技術は良いことにも使われる。
でも、優先順位はたいてい権力や金への欲望の下位にある。
博士然としてパイプをくゆらし、苦悩するオッペンハイマーを見ていても、その知識と見識、もうちょっとましなことに使えやどアホ!としか思いようがない。
物理学について卓越した想像力の持ち主だったというが、あんな凄まじい爆弾を人間に向かって落としたらどういうことになるかについては、実行に移す前にまともに想像しようとはしなかった。
彼は愛人との関係ひとつ清算しなかった。彼女が自殺するまで。
研究であれ、人間関係であれ、自分の行動がどういう影響や結果をもたらすか、少し考えれば分かるはずのことは、目の前の欲望の前に不問に付された。
そのような人物を、果たして「賢い」と言えるものだろうか?
「三体」「オッペンハイマー」は、人間の知性の中途半端な賢しさと、それゆえのグロテスクなまでの間抜けさ無反省さを見せつけてくる。
人間は、可能性を前にして諦めたり引き返したりすることがどうしても苦手だし、「可能性の実現が何を意味するか」を深く考えられない。
目の前の衝動に突き動かされ、とりあえずやりたい、やりたい、それだけになってしまう。
全部やってしまって気が済んでから、我に返って後悔したり、おろおろ泣いたりする。
仕方なかったんだと納得したり、祈ってみたり、正当化したりする。
学問や科学技術の世界の話だけではない。
ウディ・アレンのラブコメディで惚れたはれたと大騒ぎする男女たちだって毎回同じパターンを繰り返している。
人間って多かれ少なかれそういうものなんだ、と諦めるべきなのかもしれない。
ひとりの力は小さくても、大勢で力を合わせると、人間にはかなりすごいことができる。
他の動物よりもずっと脆弱で無防備な肉体を持ちながら、それゆえに人間は地球の覇者になった。
問題は、「人間が力を合わせたらできること」が、しばしば人間の手に負えないものになることだ。
世界がグローバル化され、倫理に欠けたグローバル営利企業が致命的なまでの巨大権力を有するに至って、今、「手に負えなさ」はいよいよ極まってきた感がある。
誰にも責任が取れないようなそら恐ろしいことを、人間は次々と実現し、後先考えず実行している。
取り返しのつかないことをした人々は、取り返しのつかなさが途方もなくなるほどに、その受け止めはまるで他人事みたいになっていくのが定石である。
いよいよ状況が煮詰まって身動きが取れなくなったら、最終的な逃げ場に飛び込む。
「死」という安楽な場所に。
そうすればそれ以上はもう誰に責められることもない。
後のことは自分の知ったことではない、誰かが何とかするであろう。
そんな無責任極まりないパスを大人たちから投げられて、次世代は一体どう生きればいいというのだろう?
人々の無力感や思考停止は、この絶望の深さに繋がっていると思う。
何のために知恵や賢さを使うのかを考え、人や地球の幸福につながらないことは中断することのできる、「本当の賢明さ」を人はどうすればもてるのか。
これらの作品にその答えはない。
誰も教えてはくれない。
でも諦めずなんとか考えないと早晩人間世界は終わってしまうよ、とこれらの作品は告げている。