みずうみ2023

暮らしの中で出会った言葉や考えの記録

「さらば、わが愛 覇王別姫」

1993年中国・香港・台湾合作/原題:覇王別姫 Farewell My Concubine/監督:チェン・カイコー/172分/2023年7月28日〜4Kリマスター版公開

 

最後に観たのがいつだったのか思い出せないくらいだけれど、忘れっぽい自分が多くのシーンのビジュアルを克明に覚えていることにびっくりした。

それだけ焼きつくように刻まれている、自分の血肉のようになっている作品なのだと思う。

 

昔の中国映画の凄みとは、一人の人間が大河の一滴のようなちっぽけさであることを痛感させることだなあと毎回思う。

それは中国大陸で生きる人たちの根底にある如何ともしがたい人間観なのだと感じる。

経済大国になった今も、偶像化された特別な権力者(それはもはや人間を超えた存在ということになるのだろう)以外は、深いところで「人は誰もが取るに足らない、儚い存在だ」という共通認識がどこかあるのではないか。

最近ではコロナ対応で顕著だったが、これに限らず、度々中国において発動される「ほぼ例外なく全員への圧倒的な強権、人権侵害」は、時の中国共産党の価値観だけでは説明しきれるものではない、民族的な根深い価値観も根強く影響しているように思える。

 

この作品で描かれる近代中国における幾つかのドラスティックな波乱は、まるで台風のようだ。

群衆の暴走は制御不能で、あらゆるものを根こそぎなぎ倒していく。一人ひとりは為す術もない。

この時代、常に荒々しい流れに押し流されるように人々は生きていて、ある者は荒波に抗うようになりふり構わず大声でわめき立て、ある者は狡猾に潮目を読んで体制や景気の良いものにすり寄って生き抜こうとし、ある者は川底に沈む石のように、全てを呑み込んでじっと沈み込んでいる。

このような人間社会のありさまは、けして美しいばかりではなく、醜さや下品さも含んでいるけれど、裸足で大地を踏みしめるような力強くむき出しの人間味と生命力に溢れていて、観る者を釘付けにする。

一皮剥けば皆人間はこうなんだと見せつけられているようでおののくけれど、あまりにあっけらかんとむき出しなので、自虐的な清々しささえ覚える。

 

この味わいは中国映画ならでは。インドも近いがまたちょっと違う。

アメリカはやっぱりヒューマニズムあるいは人間存在そのもの訳の分からなさや底知れなさを描くことになっていくし、ヨーロッパはあくまで個人の自由と孤独を中心に据えるし、北欧は圧倒的な自然の中にある人間の営み、日本を含む他のアジアの国々は家族を含む世間の中の人間という描かれ方に総じてなっていく。それぞれの面白み。

 

ただ、今の中国にはこのような映画を作れるだけの表現の自由はもはや存在しない。

チェン・カイコーの近作も、痛ましいくらいのプロパガンダ映画。

さらに、世界的にも様々な分野で価値観の変遷があり、現在のポリコレ的には相当アウトな描写が多々含まれるこの作品は、今回初めて見ると一周回ってかなりショッキングなものと言えるかもしれない。

 

この作品には、様々な呪いが渦巻いている。

師匠から弟子への教訓のように語られる言葉でさえ禍々しい歪みを内包している。

そもそもの前提が全部狂っている、すさまじいまでの理不尽な設定の中で、自分の尊厳を保って生きることは、ほぼ不可能に近い。

程蝶衣は、暴力の渦巻く嵐のような時代の中で、与えられたほとんど唯一の選択肢を運命とし、彼なりのベストを尽くして生きようとした。

それは誰よりも美しい徒花として咲くということだった。

しかし時代はやがて美を憎むようになり、多様なものや美しいものは軒並み破壊され、ほとんど全てのものが無に帰した。

それは狂気じみた迫害でしかなかった。

 

そのような残酷で醜悪な粛清によってもたらされたものを「新しい平等な時代」と人々は言ったが、そんなものは新しいものでもなんでもなく、人々は結局別の暴力的な枠組みに入れられただけだった。

いまだ文革清算できていない中国において、この呪いはどこまでもついて回る。

中国がいくら経済的に豊かになろうと、個々の人々はひとつボタンをかけ違えば、圧倒的な暴力にさらされる不安を今も身近に感じ続けていることを思う。

 

ああ、蝶衣(レスリー・チャン)の隅々まで美しい所作や、潔癖で頑なでありながら脆さをはらんだ佇まいは何度見ても完璧で見飽きることがないなあ。

菊仙(コン・リー)の狡賢さと大らかな母性が混在する、生々しく女であるさまも改めて素晴らしかった。

何よりも、この作品の白眉は小樓(チャン・フォンイー)を間に挟んでの菊仙と蝶衣の間の友情に似た何かを描いているところだと私は思う。

立場や役割や利害や性別を超えた人間同士のいたわりの感情。

 

どれだけ苛烈な全体主義にも奪えない、支配し尽くせない人間性というものが我々にはある。

そのささやかだがしぶとい何かは、人間であることの尊さにまっすぐに繋がっている。

菊仙と蝶衣の名付けようのない関係性は、人が人であることの証。

たとえ彼らが死んだのだとしても、それは人間性の敗北ではないのだと思う。