みずうみ2023

暮らしの中で出会った言葉や考えの記録

「月」

ポスター画像

2023年/監督:石井裕也/144分/2023年10月13日〜公開

 

津久井やまゆり園障害者施設殺傷事件(相模原事件)から9年が経ったけれど、事件をこの社会がどう考え、我々はどう歩みを進めていけば良いのかという総括には、いまだ程遠い段階にあると感じる。

この上なく気まずい事実に向き合うことを何とかぎりぎりまで先送りにしたい。まともに考えたくない。

そんな空気にしびれを切らし、切り裂くようにして、あえて直裁にこの事件に切り込んだ作品を世に問うたことに驚いたし、作り手の相応の覚悟を感じないわけにはいかなかった。

 

「福田村事件」も、この作品も、核心にあるのはもうこれ以上の外部化は許されないという切羽詰まった心情だと思う。

相模原事件のような、社会全体を震撼させる事件たちは、どこか遠くにいる、特別異端で、狂った誰かが引き起こしたことではない。

私たちに内在化する暴力性や保身や排除の心を「真に受けた誰か」が委託者となり、実行犯となったという構造を抱えている。

 

そうは言っても自分だけは違うと誰もが思いたい心理に、これらの映画は挑んでくるのだけれど、「月」は福田村事件のような100年前のことではなく、今の時代のことだけに、より逃げ場を塞ぐようにして立ちはだかってくる感覚がある。

この作品を見てすぐに、思いを言語化できる人はなかなかいないと思うし、言葉にならない感情の塊を、気まずさを、じっと抱えてみることが、何よりも大事なことなんだと思う。

 

今、立て続けにこういう作品が上梓されている背景には、少なからずこの国の政治的状況も深いところで影響していると感じる。

安倍晋三という政治家が、縁故政治や自分の名を冠した経済政策など、個人の存在を前面に出した政治を長期間行ってきたために、私たちはいろんなことを「彼のせい」にしてきた。

経済が急速に沈み続け、貧富の差が広がり多くの貧困者が生まれ、女性活躍と言いながらむしろ家父長制が強化され、無償あるいは低賃金のケア労働が女性に押し付けられるような社会設計がなされ、差別やヘイトや誹謗中傷が激化している、殺伐と不安に満ちた今の社会は、彼をはじめとした一部の「悪い」権力者によって生み出されたものだ、と。

 

しかしあらゆる意味で、彼も「真に受けて委託された人」の一人でしかなかったという現実に、我々はとうとう向き合わざるを得ないフェイズに差し掛かっている。

首相や内閣がどれだけ代わろうと、政治は何も変わらないどころか、より鈍感なまでの無慈悲さを増していく。

死んだ魚の眼をした為政者たちを、あのマリオネットそのものみたいな岸田首相を、「お前が犯人だ!」と言ってみても、もはやガス抜きにすらならない。

 

面倒くさいことや考えたくないことを、誰かに丸投げして、自分は「無垢で善良な市民」という立ち位置から、何かが起こると、ことの背景や経緯も鑑みずに、その場の気分であれこれ言いたいことを言い、なんとかしろと言い、自分は何も引き受けずに、やがて忘れていく私たち。

 

そんな己の姿を見よ、自らの内なる暴力性や差別の心や保身の心から眼を逸らすな、とこれらの映画は迫ってくる。

「月」は、クライマックスの自分と自分との対決という象徴的な演出で、より直接的にそれを訴えてくる。

さあ、あなたは目の前にあの殺戮をしようとしている者が現れてその論の正当性を語った時に、いかにしてそれを食い止められるだろうか?

突きつけられたのは、それに対する言葉をあまりにも持ち合わせていない自らの脆弱さだ。

だめなものはだめ、それ以上の何が自分に言えるのかという途方に暮れるような思いだ。

 

ただ、この作品の素晴らしいところは、人間の欺瞞を糾弾するだけではない、人間の美しさや思いやりや可愛らしさも垣間見せてくれるところだと思う。

人間は誰しも、優生思想や、排除の心や、保身のために他者を犠牲にしても仕方がないと考える利己性といった心を持っている。

究極、マザー・テレザやダライ・ラマだってそういう心はあるのであって、だから私やあなたのような小物に差別や保身の心がないなんてこと、まずありえへんのである。

それらはどれだけ失くそうとしても、人間が生きていく上で避けがたく持ってしまう性質なんだと思う。

しかし、人間が一所懸命できるだけ善くあろうとし、それぞれに大変な人生を、真摯に支え合って生きているということもまた事実である。

内なる邪悪さがあるからといって、その人の優しさや可愛らしさが嘘なのではなく、どちらもが同じ人の内に確かに存在する。

良い人とか悪い人とか、私たちはなんとなく簡単に言うけれども、絶対的な良い人とか悪い人とかって、単なる幼稚な幻想でしかなく。

人の人生って、その引き裂かれた要素に常に翻弄されながら、その人なりのバランス(個性)や、不可避的な巡り合わせ(人生のイベントや天災など)の中で、各々がさまざまな対処や自己防衛などをしながら形作られていく、その無数のバリエーションのことを人生と呼ぶのかもしれない。

 

この作品は、自分にとっては、近年見た中でも最も素敵なラブストーリーでもあったと思う。

洋子と昌平の夫婦は、人と人が共に生きていくということが、全然甘いことではなく、苦しかったり、時にお互いがお互いを苦しめもするのだけれど、根っこの部分で無心に相手を傷つけたくないと思いやり、相手の幸せを願う心を持って一緒にいることの尊さを感じさせてくれた。

昌平が受賞したことを告げる食卓のシーンの二人は、今思い出しても涙が出るくらいに愛らしい、胸を打つ場面だった。

厳しく、報われない人生を生きている人の口から思わず出た、「生きてて良かった」という言葉の滲み入るような温かさ。

色々あり、今もいろんなことを抱えている二人が、ほたほたと涙を流しながら喜び合う、そんなささやかな瞬間があるということの希望。

私もそういうものに希望を抱いて生きていきたいと心から願う。

 

 

この作品は、見るからに低予算の作りで、でも俳優は絶対に妥協したくなかったのだろうなと思う。

主演の宮沢りえは、今では「彼女が出るからには」と思わせてくれる俳優で、期待たがわず。やはり彼女自身の人格、真摯に生きている人であるということが、作品に深い説得力を与えると思う。

助演のオダギリジョーは、彼のベストアクトではないかと思うくらい好きな役柄だった。

昌平は見た目よりずっと複雑な人物で、癒えない苦しみを抱え、抑圧されたものを持ち、それらから無意識に目を逸らしもしつつ、男性として生きていることもしんどくて、でもなんとか必死に善良であろうとしている。

そんな昌平というひとりの男性に、人間の普遍性と限界を感じた。

愛ゆえの愚かさや短絡も含めて、悲しく愛おしい人だった。

実行犯を演じた磯村勇斗と同僚の二階堂ふみは、どこまでも気まずく居心地の悪い気持ちにさせる、「嘘が許せない」若者を体現していて見事だったと思う。

この社会が隠蔽しようとするタブーを、この二人が素朴な攻撃性でぶちまける。

石井監督の思いをまるで代弁しているかのような存在であり、でも分かりやすい怒りではない、子供のような素朴さがかえって底知れない怖さだった。

 

「福田村事件」も、とにかく俳優陣の高いモチベーションが作品を一段ぐっと押し上げていた印象があったけれど、本作も同じ。

今の日本映画はいろんな意味でかなり残念な状況にあるから、俳優も意義のある作品になかなか参加できないという忸怩たる思いがあるのだと思うし、今の社会の状況に対して作品を通して問題提起をしたいという気概を持つ人は実は多いのだろうと思う。

画を見れば、予算がない映画だということは透けてみえつつ、それらを補って余りある仕事をみせた俳優たち、素晴らしかった。