
昨日アップした文章が、救いもない暗いものになってしまったのは、きっとこの映画を見たせい。
この作品は、これまでに見たあらゆる映画の中で、最も気持ちが落ち込んだもののひとつになった。
今も耳の奥に、聞こえるか聞こえないかくらいのごく小さな、銃声や悲鳴や地響きのような機械音が耳鳴りのように響く。
いつまでこの落ち込みを引きずるだろうと思うと、うんざりする。
いや、憂鬱の欠片は、心の中にしこりのように、この先もずっと残り続けるのかもしれない。
そんなことを書くと、どれだけ凄まじい作品かと思うかもしれないけれど、目に見える残酷なシーンややりとりはむしろ注意深く避けられ、全てが仄めかすように描かれる。
誰かがあからさまに断罪されることもない。
ほとんどが広角の淡々とした撮影に終始する。
ここにあるのは、ただの日常だ。
ここにいるのは、ただの人間だ。
彼らの感情や行動原理は、とてもありふれたものだ。
退屈で、平凡な、普通の人々。
誰もが私だと感じる。
あの母親も、父親も、子供たちも、祖母も、使用人も、ナチ党の組織の人々も。
映し出されるあらゆる人々の内に、自分がいると感じる。
自分だらけだ。
枠組みの外側では感覚や想像力を遮断すること。
「ということにする」という線引きを勝手に作り上げること。
そのようにして、私は私たちは、保身する。
人間とは、そういう生き物である。
その事実を肝に命じて生きていくということくらいしか、できることはないように思える。
私が一番怖ろしく思うのは、この映画を見て、大して何も感じない人かもしれない。