ひねくれ者ゆえ、ベタに照れてしまい、基本苦手なのだけど、ここ最近見たいくつかの作品には、ベタの力ってあるなあと感心しつつ楽しんで見ている。
ベタという衣に包みつつ、相当なチャレンジをしている今回の朝ドラ「虎に翼」は毎回15分と思えぬ濃密さで、ただただあっぱれと思う。
毎日15分110回のこの朝ドラを、日常のちょっとした合間にたくさんの人が楽しんで見て、最後まで見終わった頃、どれほど分け隔てなくあらゆる世代の人たちが、多くのことに気付かされ、改めて怒り悲しみ、そして認識をアップデートさせていることだろうと思うと。
ちょっと胸が熱くなる。
これこそがエンタメの力だよなあ、ありがとう。

脚本家の吉田恵里香氏は、前作でアロマンティック・アセクシャル(他者に恋愛感情や性的欲求を抱かない人)の男女の同居生活を描いただけあって、フェミニズムやマイノリティー性に対する理解の解像度が高くて、毎回感動する。
いっぱいあって書ききれないが、色んな立場の人の色んな思いが織り込まれている。
配慮が女性だけに向かっていないところもいい。一見ベタに見えても、人物の言動に雑な処理が少ない。
以前から、こうしたシスターフッド的な作品においては、男性や既得権益の描かれ方が大抵いつも紋切型なのを残念に思っていた。
少数の理解者はまるで少女マンガのイケメン完璧王子様のようだし、無理解者は身勝手で横暴な抑圧者、敵!という風に単純化されてしまいがちで、現実にここまでの奴いないよ、と言われてしまいそうな。
これでは男性は蚊帳の外に置かれてしまい、受け入れがたいあるいは自分ごととは思わないだろうな、と。
「虎に翼」に登場する男性たちも、ある程度「タイプ別」の配置になっていることだなあ、そこはやっぱりかー、と思いながら見ていたのだが、ここ2日の回で、これまで最大の理解者ポジションにいた穂高先生が、温和で物分かりの良いていのままで、寅にとどめを刺してくるくだりの地獄味には、思わずぐはあと声が出た。
よくぞこれを朝ドラで。1年間見ると確信した。
また、エンタメでありながら時代考証が相当しっかりしていて、戦前・戦中・戦後それぞれのリアリティーをしっかり描くことを通じて、政治に人の生き死にが翻弄されること、その究極の暴力的な形である戦争について深く考えさせるのも素晴らしいと思う。
今、戦争を考えることは、とても重要性が高いことだし、真の反戦作品になっている。
定期的に作られる「永遠の0」みたいな、軍人を過剰にヒロイックに称揚したりする『反戦映画』は、むしろナショナリズムを煽る有害な映画だと思っている。
今のNHKの報道は、政府に都合の悪い情報は報じず、政治にとって都合の良い形で報じるという姿勢にはっきりと振り切っている。
そんな中、同局で放映している作品「虎に翼」で描かれている戦前のメディアのありようが今のNHKの姿に重なるという皮肉が起こっている。
脚本は、物語にさりげなく社会性を織り込んで、過剰にはならない。
あくまでドラマが本分で、ごくまっとうな人情のやりとりで現実を見せ、直球の政治批判という形では描かないので、今の権力は明確な自分ごととして認識しづらく、攻撃性を立ち上げにくい。
けれど視聴者には、日々びしびし伝わっている。
明白に戦前と今を連想させられる。
なによりも、このドラマの中で生きる人たちは私たちだ、と思わせる物語の力があるからそれが可能になっている。
権力のお膝元で、エンタメの力で素晴らしいことが日々進行している。痛快。
「虎に翼」よりベタ度高めだが、キャスティングが素晴らしく、俳優の力で難しい微妙なテーマを描くことに成功していた「生きとし生けるもの」も良かった。

病人である前に人間。
医者である前に人間。
人間の尊厳ほど守られなくてはいけないものはないのだけれど、この社会では誰もが他人の尊厳をないがしろにしてくるし、尊厳を求めるのは贅沢で厚かましいことだと責めてくるし、本人も申し訳なくおこがましく思って罪悪感を感じたり遠慮したりしてしまう。
そんな社会における人の死は、まっすぐ「PLAN75」の世界に向かっている。
どのように工夫し、折り合いをつければ尊厳を守れるものか、本当に難しい。
けれど、そこから意地でも離れないことだけが人生の納得性を担保するのだということ、誰かが心から自分の尊厳を守ろうとしてくれた時、人は自らの生を生き切ろうと思うものだということを、この作品は教えてくれる。

こちらは原作の世界観とベタそのものへのあまりに熱い愛が作品の核になっており、単なるコスプレになってない。
なにより「プロフェッショナル・ベタ」を堂々追求する鈴木亮介の振り切れ具合に力業で納得させられてしまった。
主役を担う俳優には、ある種の「座長性」みたいなものが要求されると思うんだが、どちらがいいって事ではなく、持ってる人は持ってるし、持ってない人は持ってないという感じがする。
で、鈴木亮平はこれからもどんどん主役をやっていくんだろうなと思った。
皆が「その人の船に乗る」という思いでまとまる、その人がいるだけで現場の士気が上がる、というタイプの俳優は、日本では宮沢りえとか渡辺謙とか井浦新とかが思い浮かぶけれど、鈴木亮平もその器だなーと感じる。
そういう人って、単にリーダーシップがあるってことではなく、ある種のフェアネスを感じる。
カリスマは独裁と紙一重だから、座長ではないんだよなあ。
(ちなみに、エンタメ座長界のトップ・オブ・ザ・トップは、トム・クルーズとビヨンセ(映画の人ではないが!)だなと思う。
「ミッション・インポッシブル」の最新作もトムのプロ根性に脱帽しつつ、大笑いしながら見た。あれだけ頭空っぽにして楽しめたらもう感謝)
鈴木亮平演じる冴羽リョウがパンツ一丁で裸踊りをするシーンの場のあまりの一体感と昂揚感が面白すぎて、もう一度見返してしまった。肉体美もすご。
受け取りやすさは、やはり大事なものだ。
とはいえ、単純化をすればどうしてもものごとはある程度こぼれ落ちてしまうものだし、あまりに平易に作っている作品は、受け手の知性を低く見積もっているようにも思えてしまう。
そもそも世界は、単純ではない。
世界は途方もなく複雑怪奇で、誰にも分かり得ない。
だから単純に、簡単に理解しようなんて、土台無理な話ではある。
ひととき分かったような気分になる快感を味わえるだけで。
しかし、ネット上の言論空間で、信じられないほど粗い解像度で「自分は分かっている、知っている」とばっさり言い切っていたり、呆気に取られるほど激しい誤読があったりするのを見るにつけ、複雑なものを複雑なままに受け取ることへの、今の社会の耐性の低さを垣間見る。
あらゆるメジャーに属する表現において「受け手は全て消費者、カスタマーである」という認識がいつからか常識みたいになっていった。
メジャーの表現には「サービス精神とお客様への感謝の心」が不可欠であるという前提になった。
消費者性の帰結として、複雑性を忌避する人々の気分というのがあるように思う。
でも、自分が理解できなかったから、自分に通じるように作っていないからこんなものはダメだと怒ったりするのは、浅はかだしもったいないことだ。
ベタや分かりやすいものが悪いわけではないけれど、複雑だったり簡単ではないものに時々チャレンジすること、慣れることも、わりと大事なことなのかなと思う。