2023年/監督:森達也/137分/2023年9月1日〜公開
記憶に残る後味の悪い映画は?と聞かれれば、ラース・フォン・トリアーの「ドッグヴィル」を挙げる。
もう20年前の作品だが、私はこの作品で、自分がどれだけ独りよがりな映画の見方をしているかを思い知らされた。
あまり見返したいと思えない映画ではあるけれど、今思えば、以後ものの見方を変えるきっかけになった大事な作品だと思う。
閉塞的な村社会の濃い人間関係の中で、主演のニコール・キッドマンがどこまでもどこまでも村人たちに痛めつけられ、辱められ、押し付けられ続ける。
物語の中で、彼女はひたすら受け身で、見るに耐えないような不条理な目に遭い続ける。
観客は、その中でなんとか救いを見たいわけである。
なので、良識的な振る舞いをする村人がいたら、そこにいつしか自分を重ね合わせて見ている。
するとやがて、何かのきっかけで、その村人が一皮むけば自己利益と保身のためにいとも簡単に裏切ったり寝返ったりする。
虚を突かれるが、でもしばらくしたらまたいつの間にか別の良い人そうな村人に自分を重ね合わせて見ている。
するとまた!その良い人そうな村人が突然無体なことをして梯子を外される。
それが三度四度繰り返される。
もうどん詰まりのどこにも身動きが取れないところに物語が運ばれていくまで。
私は、呆れることに、何度も同じ手に引っかかり続けた。
自分だけは良識のある人間だと思いたくて、豹変した村人たちを「これは私だ」と認めることから、あくまで逃げ続けた。
何度でも懲りもせず、「良いもん」こそが自分だ、と思って、そこに次々スライドするようにして都合よく自己投影する。
そういう風に映画を見ることを、当然のように無意識にやっていた。
トリアーは、そんな私を「お前はどんだけ甘えた偽善者だ、ご都合主義だ」と嘲笑って見せた。
普通の人間こそが一番信用ならない怖いものなのだし、時と場合が揃えば、大抵の人間はなんだってするのだ、という身も蓋もない現実を見せつけながら。
自分のずるさをこういう形で可視化されるのはひどく後味が悪く、でもあまりにその通りでしかないので、ずーんと打ちのめされたことを覚えている。
「福田村事件」を見て、久々に「ドッグヴィル」を思い出していたたまれない気持ちになった。
普段身の回りに流通している物語や映画には、何があっても自分の身を賭してヒューマニズムを貫くヒーロー的な人物が必ずと言っていいほど登場する。
でも、実際の現実世界では、そんな人はほとんどいない。
ほとんどの人間が、ある条件下に置かれると、むしろ暴走のスイッチが入ることを、歴史はクールに伝えている、繰り返し、繰り返し。
優しい冷たいとか、賢い無知とか、正義感が強い弱いとか、才能があるないとか、有名無名とか、そういう個々人の性質や意思や属性なんて所詮表面的なものに過ぎず、究極的な状況下では一気に無意味化してしまう。
一定の知性と社会性を携えた人間は、程度の差こそあれ、ほぼ例外なく愚かで衝動的な生き物である。
その厳粛な現実をどれだけ認められるか。
この映画に出てくる色んな「普通のいい人たち」の中に、どれだけ自分の姿を見ることが出来るか。
俳優の演技も、脚本も美術も音楽も撮影も、予想を超えて素晴らしいものだったけど、この作品に関しては、何もよりもまずそこに尽きると思う。
この作品を見て、後味の悪さを感じず「そうは言っても自分は狂わないし、こんなひどいことはしない」という感想になったのだとしたら、それはなにも受け取れてないのと同じと思うくらいだ。
私は、自分が福田村の村民だったなら、自分も加担しただろうと思った。
私は自分の命を賭けてまで、荒ぶる人々を止めたりしないだろう。
「ねえ、あの人たち何言ってるか全然分からんよね」とひとりごちた農婦が自分に思えてぞっとした。
「違う」ということに恐怖と不安を感じたろうし、又聞きであれ信じたいことをたやすく信じたろうし、人々の異様な高まりに乗じて自分も興奮状態に流されたろう。
道理も冷静さもなく、「とにかくこれをやり遂げれば不安や恐怖から解放されるのだ」という短絡に乗じただろう。
そしてやってしまった後に、血まみれの死体を見て我に返って、自分のせいじゃない、自分は「上の人間」に従っただけって言うだろう。
同じように苦しんでいる加害者を「仕方なかった、あんたは出来る限りのことをやった」って、自分を免罪するように慰めるだろう。
自分や自分にとって重要な人たちのためなら、他者を害したり陥れたり、自分はできてしまうだろうし、自分の欲望をこらえることができないだろう。
そしてそれらを見事に正当化するだろう。
そのような不完全で醜い部分を自分は確実に持っている。
そしておそらく人間ほとんど全員が、いざとなったら何をするか分からない怖い生き物なのだ。
『そんなひねくれた暗い考えで世界を見るのではなく、もっと人間に希望を持ってポジティブに人間やものごとを見ようよ』みたいな、安っぽいヒューマニズムに居直っていては、永遠に同じことを繰り返すだけだ。
あったことをなかったと言い募り、隠蔽したとしても、加害者が短期間やましい気持ちから逃れられるだけで、心の奥底では本当のことを知っているのだし、被害者が存在する以上、必ずいつか現実に復讐されることになる。
人間は、暴力と性から逃れられない。
心底うんざりする事実だし、ほとほと嫌気が差すけれども、それらは人間にデフォルトで備わっている。
でも、そのままならない事実を前提に据えて「人間が暴走する条件ができるだけ揃うことのないような」制度設計をする、それでも何度でも間違うだろうけれど、そのたび皆で知恵を出し合ってマイナーチェンジを続けていく、その不毛に近い地道すぎる歩みの中に小さな希望を見出すくらいしか、人間に出来ることはないのかもしれない。
人間はたかだかその程度のものなのだ。
普段、善良で欲深くもなく、つつましく平凡に生きている人間が、ある状況下で野蛮で狡く、残酷な面を躊躇なく表出させ、やるだけやって気が済んだら、なかったことみたいにして、また大人しい良い人に戻る。
そのシュールな人間のさまを見ているのは、とてもしんどい。
そこに自分の姿を見てしまうから。
でも、この人間の真実を観念して受け入れなくては、いつまでも子どものままだ。
そんな人間たちの所業を描く森監督のまなざしは、奇妙にフラットである。
そこには、怒りも憎しみも、糾弾も軽蔑も見当たらない。
私もあなたも彼らも、誰もが人間の愚かさから逃げられはしない。
人間のどうしようもなさに対する諦観と憐れみ。
固定化された生まれながらの悪人や善人がいるという考えは、自らの悪者性から逃げたい人間が編み出した身勝手なファンタジーに過ぎない。
誰もがなんとか自らの悪者性から目を背け、そういう自己認識から自分を切り離して清い者として生きていたいから、そういう思想を切望する。
でもほんとうは、誰もが悪人であり、善人である。
時と状況によって、人は悪を為したり、同じ人が違う状況で善を為したりしている。
「福田村事件」が公開されたのは、ちょうど100年前。
福田村で、罪のない通りすがりの行商人を殺した直接の関与者たちは、もう全員が亡くなっている。
第二次世界大戦ももう78年前になり、戦争の時代を生きた人たちも、ほとんどが亡くなっている。
彼らがいなくなった途端に、日本は(そして世界は)「新しい戦前」に向かって突き進み始めた。
今、苦しい生活をしている人々からもぎりぎりまで税金を取り立て、それを何十兆円も軍事費につぎ込み、威勢がいいだけのプロパガンダで戦争を煽る為政者が跋扈している。
こんな短期間に性懲りもなく同じことを繰り返そうとしていることだけ見ても、どれだけ人間が馬鹿かよく分かる。
思うに、戦争の時代を生きてきた世代は、究極の状況下でのさまざまな人間模様に接し、「普通の人間」の暴力性や愚かさを身にしみて知っていただろうと思う。
でも戦後の豊かな時代に生まれた私たちは、勧善懲悪のエンタメストーリーに取り囲まれ、生ぬるい人間観を内面化して生きている。
戦争を生きた世代のような、厳しく深みのある人間観を持つ人は、今、比較にならないくらい少ないだろう。
しかし、「人間は誰しも愚かで不安に駆られて間違うものである」という諦観なくしては、ありとあらゆる人間の所業、戦争も差別も分断も、何の本質的な解決も見出せないのだと思う。
そういう意味で、この作品は重要な作品だと思う。
「福田村事件」は、多くの人にとって極めてラディカルな、刺激的な映画体験になると思う。
緩みきった私は頬をはたかれたような気持ちになった。
ここにある認めがたい人間の真実を受け止めることこそが、今、私たちに最も必要とされている不可欠なプロセスの第一歩じゃないだろうか。