2023年/監督・脚本:荻上直子/120分/2023年5月26日〜公開
荻上直子監督は、小ぎれいでほんわかした雑貨のような映画を作る人という印象があって、けして悪くはないんだけどなんかしゃらくせえと思ってきた。
一時期の長いブランク(その間にはニューヨークへの留学や出産育児があったみたいだ)の後に作られた2017年の「彼らが本気で編むときは、」は、個人的には結構好きだった。見ていて居ずまいを正したくなるような真摯さが感じられる作品だった。
けれど、その後のネットフリックス製作のいくつかの仕事(「リラックマとカオルさん」、「モダンラブ・東京」)などは、上手いし好感が持てるのだけど、やっぱり雑貨みたいな作品なんだなあ〜と思っていた。
本作は、まず予告編からしてめちゃくちゃ面白そうで、絶対見たいって思ったが、まさかここまですごい作品だとは思わなかった。
荻上監督に何があったのか。そして彼女は見事に、バンジージャンプばりに思い切りよく崖から飛び降りたんだと思った。
殻を自らバリバリ食い破ってみせたみたいな凄みがある。
これまでの作品との高低差がすごいので、よりびっくりした。
何より自分と同世代の女性監督にこういうものを見せてもらえるなんて、最高に痛快だし、超リスペクトする。
「最高傑作きたね!」
「ギリギリを攻めている」
「荻上監督、まじでかっこいい」
と、劇場を後にしながら興奮気味にたたえあった。
まるでポール・トーマス・アンダーソンの映画みたいだった。
ぎゅうううっと圧縮されたエネルギーが渦巻いていて、頭がくらくらするような濃密さがある。
たまらない可笑しさに幾度も吹き出すのだけど、その直後に人間の底知れなさに冷え冷えとし、たまらない気持ちになって、エクトプラズムみたいなすんごいため息が出るのだった。ぐはぁぁ。
この映画の持つねじくれたエネルギーの核(コア)には「異常な我慢」がある。
主人公の依子だけのことじゃない、言うなれば日本の社会全体が変な我慢のしすぎでストレスがピークに達してしまって、過呼吸みたいな、気が狂っているみたいなことになっている。
我慢のしすぎでおかしくなった人間たちのやることなすことが最高に滑稽で、猛烈に怖い。それがこの映画の持つ基本のトーンである。
なぜ、一見平凡でつつがなく見える良識的な人たちが、一皮むけばここまで異常なことになっていくのか。
その背景には、個人を取るに足らない交換可能な存在として軽んじて蔑ろにする冷たい社会がある。
そういう社会は、常に明確に何かの役に立っていなければ、何らかの社会的役割を果たしていなければ、居場所を感じられない社会だ。
「ただの自分」として安心して生きていける気がしない。ふとしたはずみにシステムの隙間に転げ落ちてしまうかもしれない。未来に希望を見出せない。
誰もが不安を抱えている。
だから、漠然とした不安や自信のなさを、各々色んなものに没入することで、なんとか耐えしのごうとしている。
なりふり構わず、いじらしいほど必死で。
出奔も、宗教も、推し活も、ゴミ屋敷も、飲酒も、差別も。
表向き、一見そうは見えなくても、アウトプットのバリエーションが違うだけなのだとも言える。
不安や怒りをなんとか穏便に処理して、どうにか今日をやり過ごす。そうして犯罪者や脱落者にならずに生き抜くのだともがいている。
かかる無理や圧が強ければ強いほど、各種アウトプットは、逸脱性の大きい、時に珍妙なものにもならざるを得ない。
そうでないことには、釣り合いが取れないからだ。
だからこの映画では、人の可愛さと醜さ、人の優しさと狡さが交互に顔を出す。
それは入れ子構造みたいなものだ。
善人がいて悪人がいる、きっぱりと分かれているみたいなことは、所詮ファンタジーでしかない。
生きて関わり合う人間は、無理解や勘違いをぶっつけ合い、騙し騙され、押し付け押し付けられ、傷つけ合う。
同時に苦しみを分かち合い、励まし合い、助け合い、癒し合う。
それってあまりにも面倒くさいことだ。
べったりとまとわりつくような人間の絡まり合いのさまに心底うんざりしながらも、「これこそが生身の人間なんだ」という圧倒的真実味の前にひれ伏す。
この国に生きる中年女性は全員見て損なしと思う。
同志よ、目覚めよ、手放せ、そして一人荒野で自分の足で大地を踏みしめて立て。