2022年アメリカ/原題:The Fabelmans/監督:スティーブン・スピルバーグ/151分
配信で視聴。劇場公開の時には、なんとなく足が向かず、行かなかったのだった。
スピルバーグの映画はなんだかんだで見ているものの、好きだと思ったのは、思い返してみると2002年の「Catch Me If You Can」あたりが最後。
近作の「ペンタゴン・ペーパーズ」、「ウエスト・サイド・ストーリー」は、もちろんよく出来た作品だったけど、プロジェクト感あるというか、そっかあスピルバーグってもはや名誉職みたいなものなんだよなーと感じてしまっていたところもあって。
でも、「フェイブルマンズ」は違った。
始まってすぐから最後まで、胸がきゅんきゅんしっぱなしだった。
そして151分もある映画と全然思わなかったし、全然疲れなかった。
ちなみに、自分がこれまでに見た映画の中で一番短く感じた映画は、1993年の「ジュラシック・パーク」で、2時間あったのに20分くらいにしか思えなかった。
この体感時間の短さは、スピルバーグの映画の持つ独特の軽みゆえだろうと思うが、すごいことだ。
もってまわったようなあざといことをせず、直球ど真ん中ストレートでばしーん!と超いい球を投げてくる。
あまりにも全方位的に一流の仕事でアラがないので、観客は何にも気付かず口を開けてただ夢中でわくわくして見る。
80年代から90年代にかけて、子供時代の私はこれがハリウッド映画の王道のスタイルだと思って見てきた。
違う、これは「スピルバーグ映画の」味わい。彼が持つ素晴らしい個性に皆が倣ったのがあの時代だったんだ。
どうして「ストレンジャー・シングス」が好きになりきれなかったのか、今更ながらすごく納得できてしまう。
どんなにあの世界観を再現してみても、「ストレンジャー・シングス」にはスピルバーグの映画のような愛らしさはなかったものな。
「フェイブルマンズ」には、かつて私たちが憧れたアメリカの素敵さの片鱗が確かに含まれている。(かといって「あの頃は良かった」的な内向きなノスタルジーではなく、少しも古くさくなく、相変わらず本当にスムースでアラがない。)
それは、今のアメリカ社会あるいはアメリカ映画にはほとんど見当たらないものだ。
でもすっかり無くなってしまったわけではない、きっとどこかにちゃんとある。
そんな希望さえ感じさせてくれた。
アメリカ人特有のネアカな善良さや粋なユーモアの感覚といったものを、これほどチャーミングに伝えてくれるハリウッドのストーリーテラーって、やはりスピルバーグをおいて他にないのだと思う。
天性のエンターテナーとしての才能と、人間を温かく肯定的に描く人間性。
だからこそ、彼はハリウッドを代表する映画監督、製作者に押し上げられた。
アメリカが彼を必要としたから。
それは、巨大な才能だっただけに、功罪を生んだ。
作品では、その罪深さを自覚しているがゆえの複雑な思いが垣間見える描写もあって痺れた。
それでも尚、彼が届けてくれた幾つかの映画は人類の宝だと思う。
ある時期を境に、「スピルバーグ的な」素直で軽やかな語り口が、現実の社会とあまりに乖離しているので、だんだん説得力を失ってしまって、代わりにダークでシリアスな作品が幅を利かせてくるようになった。
やはりアメリカにとっての大きな転換点のひとつは、2001年のNY同時多発テロだと思う。
ショッキングさ、陰惨さ、逆に徹底的なおちゃらけ、能天気、破廉恥といった、刺激の強い、率直であけすけではあるが、品のないもの。
気がつけばそういう作品が今は本当に多い。
長らくそういう映画に取り囲まれているみたいな状況の中で、「フェイブルマンズ」は一周回ってめちゃくちゃ新鮮に感じられた。
そして「いかにしてそのような天性の映画監督が生まれ、育まれたか」をこの映画は描いているわけだから、それは映画を愛する人なら誰しもきゅんきゅんするであろう。
スピルバーグは、75歳にしてこの映画を撮った。お見それした。劇場で見たかった。
本作で個人的に一番心に残ったのは、前述した「優れた映像を作る才能がもたらす功罪」について描かれていたいくつかのシーンだった。
通常、「人を感動させる」ってポジティブな意味で使われる。
しかし、この作品の中では一貫して、映像で人を感動させるということを悪魔的なものとして捉えている。そして映像の作り手は時に無慈悲な観察者であると。
少年の頃から、映像を用いて人の心を意のままに動かすことができた。なぜだか自然に、そのようなことをできる才能が自分には備わっているらしかった。
スピルバーグ青年にとって、ほめられ、喜ばれることはもちろん嬉しいことだったが、同時にそら怖ろしいことでもあった。
そう彼は作品の中でサムの姿を借りて告白している。
真実をいかようにも自分の手で作り上げることができてしまう。
ある映像は映し、ある映像は映さないことで不都合な事実を隠し、特定の印象に導くこともできるし、撮り方の工夫次第で、実際の出来事のサイズよりもずっと迫力ある、景気の良いものに盛って見せることもできる。
シンプルにただ「より伝わる、面白いもの」を作りたかったのだとしても、そのために工夫を凝らせば凝らすほど、いつの間にか真実が歪められていく、そのことを避けることはできない。
しかも、嘘でも欺瞞でも、その方が魅力があって面白ければそれで構わないってなるのがショービジネスの世界だ。
その後ろめたさと矛盾を、誠実な映像の作り手は宿命的に抱えざるを得ないのだろうし、そのことにすっかり慣れきってしまって、何の痛みも恥ずかしさも感じなくなってしまう作り手もたくさんいる。
だから、この本質的な罪深さと怖さについて、スピルバーグが描いたということは意義深いと思う。
この映画の一番のハイライトというべきシーンは高校のプロムの後のローガンとサムの対決のシーンだと思う。
サムは、頼まれて作った卒業記念の映像の中で、自分をいじめていたイケメンマッチョのスクールカースト上位者グループのリーダー格のローガンを、まるでヒーローみたいにめちゃくちゃ格好良く描いた。一方でその子分のチャドは、本人も気づかない本人の格好悪い部分をさらけ出すみたいに描いた。
サムは、彼らそれぞれを真逆の方向に拡大して描いてみせた。
映像が流れた後、ローガンは皆の喝采を浴びたが、彼はサムと二人きりのロッカールームで涙を流して「どうしてあんなことをしたんだ」とサムに詰め寄る。
たとえけなされたのではなく、人気者として良く描かれたのだとしても、そこに在るのが自分とは感じられず、他人の主観で勝手に作り上げられたものだと感じたら、それはその人の尊厳を傷つけることである。
映像を作るということは、そういう部分を常に内包している。
サムは怯えながら「5分間だけでも君と友達になりたかったんだ」と言う。
何より、どうせ作るなら皆が喜ぶような、より面白い映像にしたかったんだろう。
この時、サムはまだ、おぼろげにしか自覚していない。
けれど、ローガンはサムに恐怖し圧倒されたのだし、サムが実はどれだけ大きな武器を持っているのか、そして実はどれだけ罪深いことを深い考えもなくやったのかということを映像はじっくりと伝えている。
そして、このやせっぽちで色白の少年が、のちに世界でもっとも強大な影響力を持つストーリーテラーになっていったということを。
このシーンの間はずっと鳥肌が立ちっぱなしだった。
この映画には他にも素晴らしい名シーンがいくつもあって、書ききれない。
どれも本当に美しく撮られているし(だってヤヌス・カミンスキーだから)、人間が愛らしいし、何度も見返したくなる魅力がある。これだけ緩急メリハリがくっきりしていて、ストラクチャーが明確なのに型にはまった感じが全然しないのすごすぎる。
ミシェル・ウィリアムズとポール・ダノの両親はとても素敵だったし、セス・ローゲン演じるベニー伯父との三角関係も、誰も悪くなくて、あまりに切なかった。
サムの妹たちの悲鳴の演技は、「E.T.」のドリュー・バリモアを思い出す可愛さだった。
フェイブルマンズ(一家)には常に優しい眼差しが注がれていた。監督を育んだ大切な家族たち。
極めつけはラストシーンのサプライズ。
大監督ジョン・フォード。一瞬、ジェフリー・ラッシュかーなるほどなーと思ったら、まさかのデヴィッド・リンチで、嬉しくてわーと声が出た。
威厳がめっちゃあるような、単なる変人のようなあの独特の力んだ物言いが絶妙にはまりまくっていた。
深いような意味不明なような、煙に巻くような絶妙なエピソード、サムとの会話の変な間も最高であった。
そこからラストシーンのカメラワークにつながっていく流れ!
うぐぐ、悔しいがまんまと乗せられて喜んでしまっただー。
久々にスピルバーグの映画でひとときの夢を堪能した気持ち。
結局のところ私たちは、素敵な嘘には進んで騙されたいのだよな。