パンデミックで映画館が長期閉館してしまう直前の映画館で見たのがアリ・アスターの「ミッドサマー」だった。
作品からは大いに刺激を受けたものの、超!後味の悪い作品であったことは間違いなく、これを最後に当分映画館には行かれないのか・・・と微妙な気持ちになったことを覚えている。
ので、今回もやーな気持ちになるんだろうな、と思いながら(そんなんだったら見なければいいのに)公開終了間際に見に行ったのだけど、思いがけないくらいこの作品を楽しんでしまった。
いや、これ笑っていいのかなあーと少し困りながらも、こらえきれずに吹き出してしまうことたびたびであった。
大筋としてのストーリーはあるものの、これはアリ・アスターの脳内にあるあらゆるバリエーションの妄想を映像化した、彼の精神世界をコラージュしたような作品であり、彼が想像しうるかぎりの「地獄」をユーモアをもって再現したものなんだと私は受け取った。
あんまり自分の妄想が恐ろしいから、作品にしてしまうことでフィクション化するのだ、とスティーブン・キングは言っているが、アリ・アスターのモチベーションにもそういうところは少なからずあるのじゃなかろうか、と感じる。
そういう意味において、アリ・アスターはスティーブン・キングの後継者であり、またテリー・ギリアム的でもある。
私は、この作品を見て、ヨシタケシンスケの「このあとどうしちゃおう」というお気に入りの絵本のことを思い出した。
これは、死んだおじいちゃんが残した、自分の死んだあとの希望を書いたかわいいノートの中身はこんなんでした、という本。
基本は天国がこんな場所だったらいいなーというかわいい妄想なのだけど、その中に「いじわるなアイツはきっとこんなじごくにいく!」というパートがある。私はここがお気に入りで。
おじいちゃんによる「ふくしゅう」のアイデアが、かわいくみみっちくも、これはかなりやだなー!と思う絶妙さ。
「すっごいチクチクする、ぬれて冷たい服と、すっごくキツくていっつも小石が入っている靴を履いてる」とか。ああやだわー。
このディテール重視型のやだな妄想、これをアリ・アスターがやると「ボーはおそれている」になるわけである。
遠慮なく自身の感覚の「これまじ地獄」の再現を微に入り細にわたり追求しているので、すごく突飛で滑稽でありながらもやけに感覚に訴えるものがあり、その奇妙な緊張感も相まってめっちゃ笑える。
ほぼ貸し切りの映画館で良かったが、バスタブに落っこちてきた謎の男と全裸で取っ組み合いの攻防をするホアキン・フェニックスにはこらえきれず声を出して爆笑であった。
同時に、この作品の妄想的ディストピアは、リアルな現実のメタファーとして非常に説得力のあるものでもあり、荒唐無稽ながら紛れもない「ほんとうのこと」だと感じられる。
だからグロテスクだし、踏んだり蹴ったりで救いがないし、一見ほとんど露悪的と言っていいほどなのに、見ていて不思議な爽快感がある。
王様の耳はロバの耳!って言われてるような爽快感。
ショッキングで、露悪的で、ダークな映像作品は今溢れかえっており、自分はそういうものは普段は好まない、むしろ嫌うのに。何が違うんだろう?
おそらく、インテリジェントの有無なのだろうと思う。
露悪的でダークな表現それ自体が目的であり、ショックバリューを狙ったものは、けして好きにはなれない。
でも、アリ・スターが描き出した世界は、私たちが生きる現実世界の正確なパロディである。
ともすれば一見分からないようにしてかなりふざけてて、人間世界への皮肉に満ちていて、でも根底に深い怒りを宿している。
そういうアリ・アスターの拗らせ方だったり、あまりにセンスの良い知的なデフォルメ加減に、何か憩うような感覚の3時間であった。
だから、主人公のボーが徹底的に損なわれ、理解されず、とばっちりや巻き添えをくらい、利用され、責任をなすりつけられ、罰せられ、最後には滅ぼされても、心は妙に静かだった。
アリ・アスターが見せたのは、「最後に正義が勝つ」という定型的なストーリーの安易な逆張りなんかではない、もちろん。
人生は誰にとってもある意味においては「そういうもの」であるという世界観に近いものだ。
なぜだろう、そんなこの映画の世界が、不思議なくらいに私の心を慰める。
映画「アニー・ホール」で、ウディ・アレン演じるアルヴィーがダイアン・キートン演じるアニーに本屋で自説を述べる有名なシーンがある。
I feel that life is divided into the horrible and the miserable.
Those are the two categories, you know.The horrible would be like, I don't know, terminal cases, you know, and blind people, crippled.
And the miserable is : everyone else.So you should be thankful that you're miserable, because that's very lucky, to be miserable.
僕は人生はひどいと惨めに分けられると感じている。
ひどいか惨めの2種類なんだ。
〈ひどい〉は、分からないけど、死が間近だったり、目が見えなかったり、体が不自由といった人々のこと。
で、〈惨め〉はそれ以外の全員。
だから、君は自分が惨めであることを感謝すべきなんだ、だって惨めであることは幸運なことなんだからさ。
ウディ・アレンは、1977年にこの映画を作っている。すごいなあ。
でたらめで、暴力的で、悲惨だし、救いがないし、誰もが分かり合えないまま、誰もが助けてと叫びあっている世界にあって、ボーは掃き溜めみたいな存在、圧倒的な敗者である。
確かにボーは、何の取り柄もない冴えない中年男で、気が弱く、ぐずぐずしていて、のろまで、何も決められず、ひどく混乱していて、まともに交渉や主張もできず、誤解され、何より運がなく、ほとんど誰にも愛されない。
でも、彼自身は最後まで人として間違ったことはひとつもしていない。
常に親切で誠実であろうとし、できるだけ要望に応えようとし、普通に心優しい人であり続けた。
そして何ひとつ挽回することも一矢報いることもなく、一方的に責め立てられもがきながら、死んでいった。
けれど、悪魔的なボーの母親をはじめとして、彼にあらゆるエゴを泥だんごみたいにぶっつけまくった他のあらゆる人々が、彼を犠牲にして勝者になったのかというと、全然そうではなくて。
彼らは、表面上はどれだけ取り繕っていても、自滅し続けている。
がんじがらめになって自分を見失うか、ほんとうのことから目をそらして偽りの平和の中にいる。
その惨めさは、ボーの惨めさよりどれだけましといえるのだろう?
もちろん、こんな作品に憩いや愛着の感覚を抱くなんて、どんだけ病んでんだよって話ではある。
私だってできればもっと爽やかでシンプルなものに憩いたいもんだよとは思う。
でも少なくとも私は、そういう単純なものを、もはや素直に喜べない。
どんな映画も時代の写し鏡だとするのなら、「ボー」のような映画が納得性のあるものとしてある層の人々に受け止められていることもまた事実。
私にとっては「今」って、言うなれば、このでたらめなブラックジョークじみた希望のない時代を、なんとか明るくしのいでいくのだ、という気持ちなのだ。