みずうみ2023

暮らしの中で出会った言葉や考えの記録

先月の対話のこと

 

先月の対話でのことについて、やっと言葉が出て来たので、書き残しておく。

 

対話をはじめて半年足らず、なかなか慣れない。

慣れたら皆で和気あいあいと安心して話せる場がわりと簡単に作れるようになるんだろうか。

でも、今はやるほどに難しさを感じることの方が多い。

対話に謙虚であろうとするほどに、自分のぶざまさに恥じ入ったり、後悔するようなことが色々と起こってくる。

招集係担当、歓待の気持ちを示す以上の大したことをしているわけではないので、そんな無駄に気負う必要はないと分かってはいるのだけど。

 

先月は、これまでで一番下手くそな進行で、言葉がほぼ出てこないという最悪の気分を味わった。

思い出すのもつらく、あーもうやめちゃいたいな〜、と思いながらわりとしょんぼり過ごしていたこのひと月であった。

 

先月の対話の前日、ひとりの参加者から、これまで口外したことのない、きわめてプライベートな思い出を、前に進むために語ってみたいと申し出があった。

そんな風に思ってくれてありがたいと思うと同時に、いやそもそもそういう場だったっけ?とか、他にも来てくれる人いるしどうなるのかなとか、いささか混乱して浮き足立ったまま当日を迎えた。

結果、何のスムースな流れも生み出せず、誰かの話を全員で共有できる問いに変換することも全くできず、いきなり「さあ、あなたのつらい話をみんなの前でしてみてください、どうぞ!」みたいな奇妙なことになってしまった。

私は、頭が真っ白になって、ほとんど言葉が出てこなかった。

 

その方が自分で話したいと言ってくれたことではあったのだけど、でも、皆で取り囲んでいる状況が急にひどく悪趣味なものに感じられた。

カウンセリングでもないのに、関係性もない人の立ち入った部分に雑に踏み込むって、ずうずうしくて暴力的に思えて、いたたまれなくなってしまった。

一方、自分の内に、一体どんな話が聞けるのだろうと思っている好奇心を感じて、その下品さにもうんざりし。

状況まるごとに恥ずかしさを感じ、自分が作ったシチュエーションに自分でドン引きしていた。

 

とても話し出しにくい雰囲気の中、その方はきっとこれまで何度も反芻されてきたゆえに、淡々と、しかし目に浮かぶような鮮明さでその時のことをなんとか話してくださった。

聞いている人たちは全員涙を流していた。

私以外。

その時、私は泣いてはいけないって思って、超がまんしていた。

せめて節度をもって居るために。

つまり、あの場で無理に話を促した自分が、その方の体験をエモーショナルに消費するようなことになるのは更にグロテスクでありえへんと感じたからだった。

でも、そうそう涙をこらえられるような生易しい話ではなかったため、私は親指に爪を立てて、痛みで気を紛らわしてまでがまんすることになった。

何その意味不明の頑張り、笑。

そんなかなり地味かつ珍妙な行動を人知れずしていたことも手伝って、ますますポカーンと言葉を失っていた。

 

とはいえ、場に来てくれた人たちはいつも同様素晴らしく、私がどんなにしょうもなくとも、素晴らしい言葉のやり取りがあって、先月の対話は無事終わった。

 

つらい話をシェアしてくれた方から、その日の晩、改めて温かいメッセージをいただいたのだが、情けないことに、私は返信の中でだめだめで本当すみませんでしたみたいなことを思わず書き送ってしまい。

結果、その方に更に気を遣わせ、優しい長文メッセージを重ねていただくことになるという・・・。

空回りした上に終わってまで面倒をかける自分にほとほと嫌気がさし、もうこれ以上見たくもないみたいから冷凍庫に放り込んで凍らせとく、みたいにして過ごしていた。

 

今月の対話がいよいよ迫ってきて、そろそろ考えなきゃなあと思っていた時、往復書簡(DIARY_2024)をしているみずえさんとLINEしていて「実は先月の対話が散々でして・・・」とふと吐露した。

それを機に、あの時の自分の感情が湖面にぽつぽつ浮かぶ気泡みたいに少しずつ浮かび上がってきて、びっくりした。

あの時、なぜ頭が真っ白になったのか、ずっと自分でも分からないまま過ごしていたが、ひと月経ってようやく言葉が出始めた。

 

私は鈍く、自分の感情を自覚するまでいつもタイムラグがある。

そして思い返すに、きっかけは他者であることが多い。

一人では目を背けてたり、触りたくないところにあくまで触らないまま、不毛な堂々巡りを繰り返しがちだが、他者を前にすると、「伝わるようになんとか説明を試みる」というモードが起動し始めるということがあるように思う。

私の場合、しばらく寝かしとくみたいな一定のブランクを経てそのモードが起動した時、初めて客観性が立ち上がってくるのだろう。

 

そのように、解凍された感情から逃げずにとどまって、ぐっと味わっていると、訳のわからない涙が噴き出ることもある。

それはどうやら、ようやく腑に落ちた、向き合えたというサインみたいだ。

 

その日の夕飯後、娘氏に「実はこんなことがあって、情けなくてへこんだんですわ」と不器用なままになんとか説明してみると、彼女は自分の体験をベースに「そのへこみの根っこには何があるのか」について、クールに意見を聞かせてくれて、より視界がクリアになった。

生き難さの研究にかけては、娘氏は相当長けているので、私はいつも感心して聞いている。

それでようやく湖面から鼻先が出た心境で、今月もなんとかやれるかも・・・と今月の対話におずおずと臨んだ次第。

 

人にとって、自分の正直な思いを誰かに話すことは、生きていく上での基本だし、自分の弱さを安心して話せる人が周囲にいることは心から感謝すべきことだと改めて思ったことだった。

どれだけ世の中が便利になっても、分断が進んでも、配慮すべきことが色々あって人と関わるのがあまりに難しくめんどくさくても、それでも人は、生身の人に自分の思いを話したい。

それがなくてはあまりに人生は虚しくさびしいと感じる。

人間とは、そういう生き物なんだろうと思う。

ますます正直に話すこと真摯に聞くことを大事かつ優先順位高めで暮らしていきたいと思う。

 

今月の対話はあまりに良い話が多くて止めがたく、かなり時間が超過してしまったものの、とても充実した濃い時間だった。

皆がそれぞれなりに何かしら受け取れるものがあったなら、嬉しいかぎり。