昨日は、ファシリテータとして初めての対話をすることができた。
全く自分の力はなく、あの、対話がしたいでーす、とこわごわ手を挙げた単なる言い出しっぺに過ぎない。
対話ができたのは、私を励まし、チキンな私の逃げ場を絶妙に塞ぎ、あの場を整え、発信をしてくださった人のおかげ。
十代、二十代の若者ならともかく、こんだけいい大人が、何の見返りもなく、ここまでがっつりサポートしてもらって、押し上げるようにして自分のやりたいことをやらせてもらえるなんて、普通はありえないことなんだとようく分かっている。
自分が恵まれていることを感謝するしかないし、とても返せないという気持ち。
だから、せめてその労力を無にしないよう、今後は覚悟を決めて、地道に対話の場を継続してやっていこうと思う。
昨日は、人間力ある参加者たちによる真摯な語りによって、おずおずと、ごく繊細で美しいものが、徐々に立ち上がってゆく、そのすごい過程を、私は時々涙しながら、ただただ圧倒されつつ見守っているという感じであった。
自分はニュートラルな水平な気持ちで、場の緊張や不安や恐怖の要素を、注意深く取り除いていくことだけに注力していけばいいのだと、実際にやってみて更によく分かった。
ほんとうに人は、誰もが皆すごい物語や、傷や痛みや、探究心や各々の哲学を内包している。
それらを塞がぬよう、壊さぬよう、皆が場に受け入れられているという安心した気持ちで、すっと自在に語れるように、できる限りの工夫をしていくのみ。
【昨日あがった問い】(●が対話に選ばれた問い)
・少人数だと大丈夫なのに、大人数になるとなぜ萎縮しちゃうんだろう?
・「大人のいやいや期」をどう乗り越えればいいだろう?(現実と折り合いをつける)
・意地悪ばあさんにならないためには?
・自分はこれでいいんだと思えるようになるためには?
・名前の呼び方によって親しみが変わるのはなぜ?
・自己開示ってなんだろう
・人の魂が揺さぶられることってなんだろう
・自分を育てるために何してる?
・子供からの自立、自分自身の自立
・批判やジャッジを挟まず、寛容に人を見ることができるようになるには?
●自分に向かう矢印が刺さって苦しい、矢印の向きを逆に変え、心を平らかに保つには?
・なぜみんな自分なんて取るに足らないと思ってしまうのか、あるいは些細なことをおおごとに感じて悩んでしまうのか?
選ばれた問いは、結果的に素晴らしい対話を生んだ。問いを出してくれた方が抱える切実さも相当なものであった。
「すぐれた作家とは、自分の悩みを通して世界の悩み、社会や文化の悩みをも引き受けている」と、故・河合隼雄さんが言っていたけれど、ああ、こういうことなんだなと思った。
自分、自分、自分!
現代の世界では、多くの人が自分で自分にエゴという刃を向けている。
そのような生き方や考え方の方向性に、我々は世界を作り込んできたのだと言える。
自分に矢印を向ける生き方は、あらゆる生きづらさの根っこにある。
だから、その人の辛さとは、いわば人類みんなが抱えている本質的な辛さだ。
問いを出してくれた方は、日々へとへとになりながら、格闘していた。
その人のように誰にも気づかれない小さな場所で、人知れずその人自身の闘いを懸命に生きている人が世界には無数にいるのだと思う。
目に見えるものが全ての世界では、有名人でもない市井に生きるひとりの人の格闘など、取るに足らないということになるのだろう。
でも違う。全然違う。
名もなきひとりの闘いは、具体的に世界を変えていく。
だってスピリチュアル的なことを脇に置くとしても、少なくとも現実的な意味においてさえ、ひとりの人間が生きていて全く誰とも関わらず影響を与え合わないなんてこと、ありえないのだから。
自然力学的にも、小さな入力が予測不可能な未来を生む「バタフライエフェクト」という現象があるのだから。
ひとりの人間の生き方が、回り回って世界に影響を与えることは、何もお花畑的な話ではなくて、普通にリアルな事実に近い考えなんだろうと思う。
だからこそ、できるだけ、一人ひとりが何かに自分を明け渡してしまうことなく、自分の人生を、納得性をもって十全に生き切ることが、世界をより良い場所にする。
めっちゃ実際的に。
incognitoのリーダー、ブルーイもおんなじことを言ってたなあ。
私たちの音楽への愛は、単なる人生のBGMではない。
音楽は、この壊れた世の中にエネルギーを与えている。
戦争は、答えではない。
愛だけが憎しみに打ち克つことができる。
そのためには、一度に一つずつ、愛を伝えるだけでいい。
一回一回、誰かを愛し、誰かを愛し、誰かを愛し、誰かを愛し、誰かを愛させてほしい。
その方法を理解できれば、世界に愛が広がる。
開かれた対話は、エネルギーの飛距離をぐんと伸ばすことができるひとつのツールになると思う。
飛距離出してこう。