2023年/監督:岸善幸/134分/2023年11月10日〜公開
この社会にだめなところもバックラッシュもさまざまあるが、こういうテーマの映画がメジャーな俳優で映画化されるようになったとことは、時代の進歩と言えると思う。
本来、人間は一人一人全然違う価値観や好みがあって、全然違う人生を歩んでいて、好きなものも大事にしているものも信じていることも色々異なるところがある。
他人を全部理解することなんて、あまりに手が余ることである。
何となく人間を分かったような気になっているが、本当は暗闇で手を取り合うようにして、よく分からないままに助け合ったり愛し合ったり反発しあったり憎み合ったりしながら生きている、それが実際の姿。
映画を見ながら人間世界をそんな風にイメージしていた。
大抵の人は、見たいものを見るし、信じたいことを信じる。
自分を取り巻く世界の様相を広く一般的だと思い込んでしまうことは、誰にでもあって、そのバイアスから完全に自由になれる人は多分いない。
知ることや学ぶことは、思い込みを取り払っていくことと同義で、それはどこまで行っても終わりがない。
多かれ少なかれ、誰もが不完全なまま死んでいく。
それが所詮人間の限界。
だから、一人の人間ができることは結局、「自分は世界のほとんどを知らないし、理解することもできない」ということを心に留めて、それベースで他人と接することくらいのものだ。
それすらすぐに忘れて分かったような気になるから、私は映画を見続けるんだと思う。本を読み続けるんだと思う。
人間の無限のバリエーションが織りなす物語は、色んなことを教えてくれる。
自分にとっての映画とは「大事なものを思い出させてくれるもの」。
自分のような者は、何度でも思い出し続けるしかないみたいだ。
「あなたが何と言おうと、思おうと、私はここにいるし、いなくなることもありません」
と夏月はまっすぐに検事の目を見て言った。
自分の理解が及ばない人や物事を簡単に「そんなものはない」と切り捨てる人がいる。
たとえ目の前で「私のような者はいます」と言ってさえ「いやいや、そんな人がいるはずがない」と言う。
しかし、どんなに否定しようとも、あるものはあるのだ。それ以上でも以下でもなく。
現実に実在するものを否定しても、何一つ物事は良くならない。
現実から目を逸らすことで得られるのは、思考停止的な気休めだけだ。
この社会は、色んな分野で都合の悪いことや自分の理解の及ばないことを、存在しないことにしてやり過ごしてきた。
そして「これがまっとうな人生」「これが男の/女の幸せ」「これがあなたが欲しいもの」だ、と言って各種『普通』を人々に繰り返し刷り込んできた。
でも、戦後生まれ世代の大多数が、その思想を真に受けて、必死に働きづめで生きてきて、その結果が今である。
これ以上、嘘をついても、そりゃあ誰も簡単にはなびかないだろうよ。
若い人々は、色んなことを賢く見抜いているし、不安で展望の見えない社会の中で、必死に自分の人生の納得性を模索している。
お仕着せの価値観に従うことの空虚さにとうに気付いている。
そのことと、この映画もその一つだが、色んなジャンルの少数者が「私が人として存在することは権利であり、罪ではない」と声を上げていることは、無関係ではないと思う。
これ以上、効率や合理性やエビデンスみたいなものに囚われた資本主義のやり方でものごと、とりわけ人間にまつわることについて対処することは、本当に無理がある。
今のやり方はすでに詰んでいる。