みずうみ2023

暮らしの中で出会った言葉や考えの記録

どんどん流されていく小舟

このところ、政治について書くことがなかなかできなかった。

今のこの国の政治は、あまりに問題が多すぎて、一体どこから何を書けばいいのか、途方にくれるほど。

日替わりで不正や腐敗が次々と知らされ、とんでもないことが事後報告で知らされ、あるいは反対の声を無視して強硬に決められていく。

そして、そのどれもがすごいスピードでうやむやになり、既成事実化されてゆく。

 

あらゆる批判や追求は、意図的に焦点がずらされたり、混ぜ返しされたりして状況がカオス化し、だんだん「何の話をしてたんだっけ・・・」みたいになっていく。

ここ10年、社会犯罪を犯した者たちの常道は、何の説明もしないまま一時的に姿を隠すか、言質を取られないためだけの誠実さのかけらもない説明をロボットのように無表情に繰り返すか。

彼らの願いはひとつ。やがて次の問題が出て人々の視線が自分から逸れること。

 

何が起ころうと、誰もまともに責任を引き受けない。

誰かが罰せられるかどうかは、権力者の都合次第でしかない。

何がどれほど間違ったことなのか、もう基準がめちゃくちゃだ。

ある者にはゆるゆるのなんでもありで、ある者には問答無用の冷酷さ。

誰もが社会の不公正や自浄作用のなさに強いフラストレーションを抱えざるを得ない状況にあるが、その感情の出口は意図的に用意されていない。

アマゾンが、顧客と直接繋がる電話回線を持たず、自分たちが攻撃や対応にさらされぬように意図的にコミュニケーションの回路を切っているように、権力は声を届かせないシステムを作り込んでいる。

 

自分が何に怒り絶望しているかを理解していないほどに混乱して苦しい者たちは、それゆえに、脆弱で無防備で安心して直接叩きのめせる者ばかりを日替わりで徹底的に叩き、ささやかに溜飲を下し、次の攻撃を直接届けることのできる対象を血眼で探すということを繰り返している。

学校のいじめの構造と同じで、その繰り返しで癒されるものは何もないし、依存的で不毛な痛ましいループだ。

 

私たちは、慇懃無礼で実は暴力的な世界で、搾取され、取るに足らないものとして扱われ続けることに、本当はとても傷ついている。

けれど、表面上は何だか全部に慣らされたみたいになっていて、感覚は鈍い。

 

今、社会で起こるいろんなことのあまりの酷さに皆ついていけていないし、大事なことを「報じない自由」がメディアではもう当たり前になってしまった。

一見、情報が溢れているように見えて、暮らしや人生の選択に直結するような重要な政策決定は、主要メディアでは常に形骸的、広報的、事後的に報道され、無力感しか湧いてこない。

「怖いことや醜いことばかり、もう見たくも知りたくもない勝手にして」って自ら情弱であることを選ぶ人も多いと思うし、日々の暮らしの余白のなさに汲々として、まともに声をあげきれない人も多いと思う。

今、多くの政治的決定、変更や改正(改悪)が、大多数が知らない間にどんどん決められていっている。

 

私が怒りを感じるのは、これは、権力者が意図的に作り出した状況であり、彼らが確信犯でしかないからだ。

つまり、大多数の国民の政治的無関心を継続させること、政治に接することへの忌避感を高める作戦。

そんなネガティブなやり方で自分たちの好き放題を広げることを良しとするほどに、国政を担う人々が下品な人々だということ。

 

第二次安倍政権はある時から、意図的に選挙をインフォメーションしなくなった。

与党の選挙カーが急に町を走らなくなった。

これが何を意味するかというと、彼らは、全体に支持されることをもう目指さなくなったということだ。

むしろ、人々が気付かないうちに選挙が終わることが自らに利すると明確に意識した。

アメリカや、経済団体や、宗教などのまとまった組織票になる団体のニーズさえ忠実に満たしていけば、国民の声はどれだけ無視しようと、自らの地位は揺るがないと彼らは確信した。

実際今も、昔だったら即解散になるほど低い内閣支持率だけど、自民党は全く揺るいでいないように見える。

国会では、何万、何十万という国民の反対署名もあっさり無視し、危険な法案がどんどん強引に通り、第二次安倍政権以降常態化した閣議決定は、濫用されまくっている。

 

彼らは、ほんとうに国民なんて眼中にない。

ごく控えめに言っても、ついででしかない。

先週見た能登の被災地の画像をSNSにあげた人は「これはガザではありません」と書いていた。

もう4月も終わろうとしているのに、町がまるごと廃墟のまま捨て置かれていた。

 

先週の岸田首相のアメリカでの宣言をニュースで知った。

軍事費が1兆円になり、2兆円になり、5兆円になり、最終的に43兆円になり、そして国内で何のコンセンサスも形成することなく、勝手にアメリカに行って、議会でアメリカの子分として共に戦う覚悟があるという旨を首相が発言するまでたった1年あまりだった。

こんなにも嘘みたいな早さでここまでくることを、さすがに想像できなかった。

 

オセロの四隅は取られてしまったのだ、と思う。

あとは、ぱたぱたぱたぱた、とマス目の色が一斉にひっくり返っていくのを、為すすべなく眺めているしかないというフェーズに、すでに入っていると感じる。

腐敗の度合いも、強硬さも、加速度的だと感じる。

「自分の子供を兵隊に取られない」なんて、当たり前すぎる最低限すぎる願いだと思っていたけれど、こんなことをリアルに真剣に考えなくてはならなくなったなんて。

戦争反対、っていうあったりまえの言葉が、イデオロギッシュに響くようになるなんて。

あまりに情けなく悲しい。

 

シリアを見ても、香港を見ても、ウクライナを見ても、パレスチナを見ても、平和って本当にもろく、失われるときはあっという間なのだなあと思う。

戦争だけは絶対に現実化してもらっては困るから、知ることから目を背けず、小さくとも声を上げること、そして支援すべき人を応援していくことをやっていかなくちゃと思っている。

どんどん流されていく小舟を、必死に風に逆らって漕ぐみたいなものなのかもしれないけれど。

 

とりあえず、1/4が裏金を作り、半数が統一教会と関係していても別にオーケーとされる自民党が、そのままいていいはずがないでしょうと普通に思う。

もちろん、それだけで今の社会問題が解決されるわけではないけれど、そんな不公正が許される社会なんて何も信頼できないので、まずは彼らの権限を奪うことから始めるしか。