わたしたちは、程度の差こそあれ、誰もが属する社会やコミュニティーに即した倫理観や人間観を内面化している。
それなしには、社会に適応し、社会の一員としての権利を享受することができないから。
社会ごとに設定されるマインド、モラル、ルールは、基本的にその社会の大多数の安全快適を確保する目的で制度設計されている。
現代の多忙で余裕を欠いた社会においては、大多数の快適や安全を、最小限の労力で維持しようとする。
みんな忙しすぎるから、物理的な時間も労力も、他者や答えのない問題に想像力をはたらかせるための脳のリソースも割きたくない。
個別の事案についていちいち考え、その都度判断するなんて、効率が悪いし、面倒くさすぎる。
一律的なレギュレーションに従って、全て機械的に処理するのがスムースだと考える。
できるだけ楽で高効率なことを、何の疑いもなく良いことだと考える。
そのような価値観の社会、いわゆる管理社会に私たちは生きている。
管理社会では、親切心や遊び心がもたらすバッファーは無駄なものでしかなく、それらはとめどなく失われていく。
管理社会では、ルールから逸脱する者や異形者は、ただそこに存在することさえ、多くの「普通の人」にとっては不安で不快で見たくもないのだし、彼らを同じ人間と見なさず、彼らの人権が蹂躙されても、彼らを自分の利益のためにていよく利用することも、ほとんど痛痒さえ感じない。
この風変わりすぎるラブストーリーは、社会から全方位的に排除されて、どこにも居場所を見出せない異形者の生きざまをドキュメンタリーのような生々しさで描いている。
異形者へのヒステリックな防御、無理解に基づく困惑という周囲の人々のリアクションによって、「普通の人」の非情なる利己性、日和見性、暴力性がずるずると引きずり出されるようにあらわになっていく。
(以下、内容に触れています)
世の中の〈普通〉と〈常識〉から大きく逸脱した存在である発達障害の男性と脳性麻痺の女性。
はじめは彼らの風貌や振る舞いにぎょっとするのだけど、ストーリーが進むほどに、醜いのは果たしてどちらだろうか、という思いが頭をもたげてくる。
周囲の健常者たちは、自分たちを正義と良識の側にあると思い込んでいる。
しかし、ジョンドゥやコンジュの前で、すっかり安心して侮り切っている彼らが見せる振る舞いの、いかに偏見と差別に満ち、小狡く非寛容なことか。
しかも徹底して彼らはそのことに無自覚で、どこまでも無反省である。
そのような周囲の人々が、ただただお互いが好きで、誰にも迷惑をかけず助け合いながら共にいたいだけというジョンドゥとコンジュを暴力的に引き裂き、社会から排除する。
正義と保護の名の下に。
ジョンドゥは刑務所に閉じ込め、コンジュはあとはひとりで自力でなんとか暮らせと放り出す。
「普通の人々」は、そういう極めて一方的で無責任で残酷なことを、倫理的で適切な対応による解決だと思いこんでいる。
ジョンドゥとコンジュはそれらに抗する言葉を持たない。
マジョリティーは、自分たちがより快適に楽に安全に暮らすために、少数者を犠牲にしている。
私たちの社会は表面上の快適さや便利さを増すほどに、少数者をより激しく、厳しく排除せずにはおれない。
管理が強まってルールが厳しく細かくなればなるほど、それだけ包摂されない者は増えるのだから、社会に排除される少数者は、避けがたく増えてゆく。
多様性の時代と言われたりするけれど、実際のところ、少数者の生き難さは強まり続けているのではないだろうか、と2002年に作られたこの作品を見ながら思う。
(そしてささやかな希望的観測として、あまりに管理が行き過ぎていることで、誰もがある側面においては少数者側になってしまうという状況が今日起こっており、もはや少数者が少数者ではなくなる、多数派に反転するという潮流が起こっているようにも思える。
とりわけ日本では、政治の腐敗によって特権階級以外の全ての人が搾取され虐げられるという現実が日々明らかになっているので、より反転の機運が高まるのではないか、そうなるといいなと思っている)
イ・チャンドンは、ジョンドゥとコンジュを聖者として描いていない。
「アイ・アム・サム」のようには描かない。
むしろ、少数者への配慮的演出や、観客の共感を引き出すようなことを注意深く避けているように思える。
ジョンドゥとコンジュへの深いシンパシーの感覚はありながら、冷徹に実際を描き出そうとしている。
(唯一リアルでないものとして、絶妙に差し挟まれたファンタジックな演出があるのだけど、これは檻のような身体に自由を阻まれたコンジュの人生からの、ささやかで切実な精神の逃避の表現になっていて、胸が掴まれるような美しさだった。
「バーニング」のあの素晴らしい夕暮れのシーンを思い出した)
正しいことや受け入れやすいことなんて、彼らのすさまじい現実の前には無意味だ。
ジョンドゥは、聖者どころか、控えめに言ってかなりスレスレのあぶない人物という印象を観る者に与える。
おそらく軽度の知能障害を抱えており、通常の倫理観やモラルを理解できない。
それゆえの無垢さや人の良さもあるが、一貫して気まずい逸脱者として描かれる。
「普通の人」にとっては、無性に気持ち悪い、関わり合いになりたくないと思わせる厄介なムードを醸している。
彼のインモラルの最たる部分が、ほぼ初対面のコンジュに無理やり性行為を迫る場面であらわれる。
更にそのような行為に及んだジョンドゥに、ヒロインのコンジュは自ら連絡を取り、二人は付き合いはじめる。
一般的な感覚では受け入れ難い展開である。
何しろレイプは人間世界では何より重い罪のひとつだから。
しかし、これまで重い身体障害のために誰からも顧みられることなくひっそり生きてきた女性が、初めてひとりの女性として誰かから性的に求められたということに思いを馳せた時、通常のレイプとは全く逆転した意味合いが立ち上がってくる。
レイプがどうして死ぬほど辛いかというと、「相手の支配欲を満たすために人間として扱われない暴力にさらされたから」である。(性暴力についての覚書き⑦(なぜ性暴力はこれほど人を深く損なうのか) - みずうみ2023 )
ところが、コンジュにおいては、これが結果的に「ひとりの女性として興味と好意を持たれ、人間的に扱われた行為」という受け止めになった。
ジョンドゥは誰でも良かったわけではなく、コンジュに花を贈って好意を伝えている。
社会性が欠落した人物ゆえ、無邪気に動物的な衝動のままに性行為を求めている。
だからといって、不法侵入に加え、同意がないままに行為を迫ることに弁解の余地はもちろんない。
正しい、間違っているを超えて、そんな行為をしたジョンドゥの存在にすがるほどに、絶望的に孤独に閉ざされた人生を送ってきたコンジュの現実を思うと、胸をつかれる。
ジョンドゥを逮捕した警官は蔑むように「よくあんなのにその気になれるよな」と言った。
そういう語り口がコンジュをどれほど深く傷つけてきたことだろう。
当たり前に日常を生きている健常者とは、彼女の立っている場所はあまりに違いすぎる。
脳性麻痺については詳しいわけではないが、以前当事者の語りを聞く障害者施設の実践研究会に参加したことがある。
話をしてくれた脳性麻痺の女性は、朗らかに周りを照らす素晴らしい人だった。
その時に分かったのは、脳性麻痺の人の精神は発達遅滞を伴う場合もあるが、健常者となんら変わらない人も多い。
ただ、あまりにままならない不具合の多い身体と共に生きている人たちなのだということだった。
ガンダム理論で言うと「異常なまでに操縦が困難なガンダムに乗っている人」ということになる。
ムン・ソリの演技は天才的で、脳性麻痺を深く理解し、躊躇なく脳性麻痺の人を演じきっているように見えた。
当事者を起用したと思うほど真に迫っていたので、作中の監督の演出によって当事者でないことが分かって、しばし呆気にとられたほど。
ジョンドゥを演じたソル・ギョングも本当にすごい、こんなすごい人たちをどこで見つけてきたのと思うくらい。
今では二人とも韓国を代表する俳優になっているけれど、何の不思議もない。
彼らなくしては成立しえない作品。
異形を異形のままに演じきる、その彼らの中に混じり気のない美がひっそりと息づいているさまが、忘れがたい。
コンジュが月明かりにうごめく木の影に怯えないで済むよう、ジョンドゥは警官に取り囲まれながらめちゃくちゃにノコギリを振り回して枝を切りまくる。
思うように身体が動かせず声も出せない自分の代わりに、部屋から大音量のラジオをかき鳴らすコンジュ。
二人以外、全く誰にも理解されない。
誰もが彼らを狂っていると思い、疎んじ、憐れんでいる。
二人だけが、互いの強い愛を確信している。
そして全てが失われ、また以前のようにひとりきり、古びた部屋でうっとりと空想にふけるコンジュのささやかな微笑みで物語は終わっていく。
その余韻も素晴らしかった。
多様性、多様性と私たちは軽々しく言うが、そんな生やさしいものではない。
真の多様性は、私たちががんじがらめになっているこの管理社会の枠組みの外側にしか存在しない。
その厳しさと難しさをこの作品に教えられた。
(アマゾンプライムにて視聴)