みずうみ2023

暮らしの中で出会った言葉や考えの記録

ただ違うだけ

殊更に冷え込む日。

ヨガのレッスンに行くのが億劫だけど、ほんの数日身体を動かさないと、体に滞りを感じるから、気力を振り絞って行こうと思う。

「スポーツや身体を動かす系のことは、何かこれとひとつ決めて、それを気長に細く長く続けていくのが健やかであるコツのひとつだ」と、以前村上春樹さんがエッセイに書いていた。私にとってはそれはヨガ。

今月は、思いがけないご縁で、誘ってもらって気功の体験レッスンに行くことになったが、こちらも楽しみ。

ようやく体調が平常に戻ったけれど、今年も寝込み正月だったし、周囲にも病気の人がとても多い。そして罹るのは、風邪、インフル、コロナ、アデノなど人によって違っても、なかなか治らない、いつまでもぐずぐずで病気が抜けた感じがしないと誰もが口を揃えて言っている感じ。

なんなのだろう。

 

そんな中、夫は何ヶ月も待って、ようやく最近、サーフィンのロングボードの日本チャンピオンのプライベートレッスンを受けたのだけど、その方のストイックなまでの健康管理は、やはりトップアスリートのもので、いろいろと感銘を受けていた。

彼は湘南の混雑した海が嫌いで、事故の危険も高まるので、年間通して夜明けと同時にレッスンを始める。

夏は夏で、3:45集合で4:00スタートで、まだ夜やん・・・という時刻だし、冬は冬で、7:00スタートなものの、極寒!!で、どっちにしても過酷。

でも彼は年中そうやって、日の出と共にレッスンをし、その後は自分の練習にジムでのワークアウトというルーティンをベースに、オンシーズンは世界中を旅して大会に参加するという多忙でストイックな人生を送っている。

プロアスリートだから常に本番に備えて体調を万全に保つ前提だろうし、レッスンは常に3ヶ月待ちで海外から受けに来る人も多いから、そうそう病気になんてなれないだろう。

自分のような、日頃から限界値を低く設定して、極力約束事もしたくないくらいな人からすれば、別世界の生き方だなあと思う。

 

話変わって、今朝のとりとめのない考え事。

夫は、仕事の関係もあって、いわゆる著名人や何かに秀でて広く知られているような人と直に接する機会が多めなのだけれど、そのサーフィン日本チャンピオンもやはりそうした人々と同じ雰囲気をまとっていたなあ、と呟いていた。

それは何かというと「一見どれだけ親しみやすくフランクに見えようと、誰ともなれあう感じがなく、すごくひとりで、すっくと太い幹の木のように立っている感じ」だという。

そういう感じはなんとなく分かる気がする。

私は夫と違って著名人と話す機会なんてほぼないけど、特定の分野での才能や経験知の元に人が集うタイプ、小さくとも何かの集団やグループやコミュニティがその人を中心に広がっているというタイプの人に、その印象を持つ人が何人か思い浮かぶ。

そういう人は、大抵「すごい人」と皆に認知されている。

一般人より人生哲学を極めたゆえにその域に行った、みたいな。

 

そういう人たちは、おしなべてかなり多忙である。

余白を埋めるタイプの忙しさではなく、「自分のやるべきことが明確で、それを全部やるには人生はあまりに短い」と思っている人ゆえの忙しさだ。

自分の適性や才能が自他共に明確で、自分もそれをやりたいし、人々にも必要とされているから、そのことに迷いなく邁進している。切り捨てるものもはっきりとしている。

優先順位の峻別が極めて明確で、他人の目を気にする暇もない。

自信があって迷いなく清々しく、特定の分野で周囲を圧倒するような才能を持つ人は、それは憧れられたり、尊敬されるであろう。

 

ただ、そういう太い幹の木のような人だけがすごいのかと言われると、最近はなんかそうとも思えない。

否定するわけでは全然なく、それも人間のひとつのタイプだなあと思う。

むしろ、あまりに「何かを極める人生を目指せ」という風潮が強すぎるのはどうなんだろうと感じる。

ひとつのことを極めるのが向いていて、集中してるのがハッピーな人はもちろんそうすればいい。

でも、全員がそうである必要なんてないし、何かを極めてない、集中できてない人は下等みたいなのは違うよねと思う。

 

近頃、色んな分野で、自分の中でこれまでの価値観を再考したくなることが起こってきている。

それはやはり、絶対的なものとして長く君臨してきた資本主義の価値観がいよいよ揺らいできたことと無関係ではないと思う。

 

大量生産、大量消費、効率重視、競争原理をベースとした資本主義の世界は、多数派の価値観が全肯定され、画一的な価値観の刷り込みがなされ、皆が同じものを欲望するように仕向けられる。

そういう世界では、結果的に多数派の考え方がより良いとされる。

多数派意見が大手を振って道の真ん中を闊歩している。

でもよく考えてみると、どちらが正しいという話ではなく、たんに「違う」という話のはずなのだ。

 

大谷翔平が、ものすごい年棒を手にするのは、野球というメジャースポーツ競技で、余人をもって代えがたい飛び抜けた才能によって、ひとりで多くの人を喜ばせ、ひとりで多くのお金を生みだす超高効率な存在だからだ。

ハリウッドの映画俳優や、有名コメディアンもそう。

皆に大人気の分野で、ひとりで多くの富を生み出す、超高効率な人々だ。

野球が例えばセパタクローカバディだったり、介護や保育の天才でも、その才能を向ける先が数人規模では、(個人レベルではなく)社会的にはずっと軽んじて扱われる。

マスに大きな経済効果をもたらさない、そう、「生産性が高くない」から。

 

大谷翔平イチローは、あくまで資本主義的にすごいんである。

それなのに、なんなら人格者みたいな言われ方すらしていて、なんでやねんと私は思う。

何かを一所懸命極めた人という一定のリスペクトはあれど、社会的成功者の人間性をそこまで褒めそやすのは、いささか雑だし、少々ごっちゃになっているような気がする。

 

だから、資本主義って経済形態のことだけにとどまらない。

人間の基礎的な価値観は資本主義によって相当規定されているし、そこには明らかな偏りがある。

そのことに私自身、長年自覚が薄かったなあと思う。

なんとなくそういうもんかーみたいに、流していた部分も多々あった。

けれどもそういう風になあなあにしてきたせいで、自分に何が起こったかいうと、気がつけば劣等感や罪悪感をこじらせた、いささかややこしい仕上がりになっていた、という。

もちろん、誰しも状況に応じて多数派になったり少数派になったりするが、多数派が善で正しく美しいとされる社会では、少数派要素が色濃い人ほど、自分を罪深く思ったり、間違っていると思ったり、醜く思ったりする状況に頻繁に出合うことになる。

 

でも、今さら、本当に今さらなんだけど、いろんなことは、「違う」だけで本来等価のはずなのだ。

好き嫌いはもちろんあるけれど、すごい人とすごくない人がいるっていうのは、資本主義的幻想なのだ。

「何かに秀でた、その人の元に人が集う太い木のような人」は、そういう役割と適性があるのであって、そうでない人より人として尊いわけではない。

見方を変えると、彼らは非常にエゴの強い人たちだ、ということもできる。

 

年末に見た、宮崎駿のドキュメンタリー(NHK「プロフェッショナル仕事の流儀」)を見た時もそう思ったことだった。

若い頃は、仕事のしすぎで気が触れるのを誉れだと思っていたが、なってみたら、面白くともなんともない。

演出ってのは加害であり、自分のやりたいことを人にやらせている。

励ましや慰めなんてなんの意味も無い。

全部自分。その時自分で自分を許せるか。

それによって色々な運命が分かれてくるんですよ。

簡単に自分を許せるような人間は、大した仕事をやらない。

別のインタビューでは、「自分は結局、後進を一人も育てられなかった。全部潰しちゃう。全部食っちゃうんだよ」とも自嘲気味に言っていたことを思い出す。

極端な一例とはいえ、世間的に天才と言われて尊敬を一身に集める存在が、いかに持て余すほどの巨大なエゴと共に苦しみながら生きているのかを、彼は隠さず見せてくれていた。

サポートメンバーあってこその宮崎駿だし、一貫してその人たちに多大な犠牲を強いてきた。

このドキュメンタリーで、宮さんはパクさんに一生片思い、という描かれ方をされていたけれど、私には、高畑勲さんは宮さんによる愛という名の侵害や加害を、絶対に拒否すると固く決意しているように見えた。

 

 

長々書いたが、別に何とも戦いたくないし、誰かを言い負かしたくもない。

資本主義のほころびと共に、これまでの思い込みが、少しずつ時間をかけてだいぶ解除されつつあり、入れ替わるようにして、オルタナティブなアイデアがあちこちでぽこぽこと持ち上がってくる流れは、私にとっては優しく好ましいもので、もうこれ以上、真に受けて劣等感や罪悪感を無駄に背負い込みたくはないなと思っているだけだ。

 

声の大きさや、効率や、数の多さと、正しさは全然関係がない。

才能は個性さまざまあるんだけれど、それぞれの場所で補い合い、生かし合うイメージ。

目立って賞賛される分野の才能それだけで人の価値ははかれない。

みんなただタイプが違うだけ。

そして、ばらばらな個人的な好みがあるだけだ。

そのように、自分が納得して言語化していれば、それでいいな、と思っている。