みずうみ2023

暮らしの中で出会った言葉や考えの記録

この状況を言語化してみるということ

おとといの夜から末っ子が熱を出し、昨日も今日も園をお休み、病気モードに突入中である。(今年何度めだろう、泣)

病気の子どもに合わせて日がなごろごろしていると、自分もちょっと病気みたいな、薄汚れたすっきりしない状態になる。

こういう時って、その状態の中にいる自分自身でさえ訳が分からなくて、うまく飲み込めないくらい、引き裂かれた状態といえる。

 

どんな状態かというと、やりたいことはとっ散らかったまま一つも処理することができないままに目の前に積み上がっており、それを恨みがましく眺めながら、見た目はひたすらだらだらごろごろしている。

しかし移動した瞬間に高確率でギャン泣きされることが分かっているため、トイレやなんなら身動きさえ限界まで我慢する。

さらに脳内は常にちょっと先の段取りをくるくると考え、ほんの隙間時間に子どものご飯作りや洗濯干しなど最低限の家事のみを全力で処理をする。

という。

どこから見ても一見怠惰なのに、実態はかなり軟禁に近い状態である。

 

こういうことをわざわざ書くのは、同情して欲しいからとかではなくって、こういう訳の分からなさをなんとか言語化してみる、試みるって結構大事だと思うからである。

上の子が小さい時、ママ友が言っていたことを今でも覚えている。

「雑誌をさあ、買うじゃん。で、いつも目につく所にあるんだけど。もう半年経つのに、読めないままなんだよね。意味が分かんないんだよね」

うん分かる、意味分かんないよね、と相槌を打ちながら、その時は流してしまった。もっとそのことについて深く考えて話し合えれば良かったと今は思う。

 

私が幼稚園から小学生にかけての頃、強い印象で記憶している風景がある。

父親は典型的なモーレツサラリーマンで、母親は怒れる専業主婦で、3人の子どもを完全ワンオペで育児していた。

父親はついに、卵ひとつ自分では割れない人のまま、病んだ人生になった。

転勤族で狭い借家暮らしで、家の中は常に散らかっていた。

母はそれほど片付けが得意ではなかったのだろうとは思うけれど、けして怠惰だったとは思わない。

私が10代半ばになって以降は、父親は毎晩呑んだくれて深夜に帰ってくるようになっていて、夜に顔を合わせることもなかったが、幼い頃は寝る前に顔を見ることも度々あった。

スーツ姿で帰ってきた父親は、散らかった畳の部屋を見渡すと、怒鳴りこそしないがものすごい負のオーラを発して無言で憤怒の表情で手近なものを脇にどかしつつ、スーツを脱いで几帳面そうにブラシをかけてから箪笥に吊るすのだった。

 

散らかしている張本人である子どもの私は、いつも父を見て初めて「あ、部屋がすごい散らかっている」って気付いて、父親に恐れをなして距離をとった。

そして、隣に無言でいる母がいたたまれなく思い、夫の怒りに身を縮めていることが手に取るように分かった。

「疲れて仕事から帰ってきて、落ち着いてくつろげるスペースもないのか。仕事もせず、家事もせず、一体この一日何をしていたのか」

父親は言葉にせずとも雄弁にそのように母をなじっていた。

それに対して返す言葉を母は持たなかった。

多分、母自身が、この状況が訳が分からなかったから。

なんでこんな余裕なくとっ散らかった毎日なのだろう?

ずっと「仕事もせず」家の中で子どもと一緒にいて、どうして私はこんなにも追われて疲れ果ててしまっているのだろう?

 

1ミリも余裕なく、かかりきりなのに、一般的な「忙しい」の概念とはあまりにかけ離れているだらだら感のため、自分がいっぱいいっぱいで「大変な状態」なのだと自分でもうまく認識できない。

母親自身がどこかで自分を怠惰だ、無能だと責めている状況で、育児に関わらない父親がその大変さを理解することはかなり難しいと思う。

建設的な話し合いにもならないだろう。

で、夫が不用意に責め口調になろうものなら、妻は訳の分からない悲しみと怒りがマグマのように噴き上がってくるが、無言の不機嫌の塊みたいになるしかなくて。

そのようにして、夫婦の関係性がすごい勢いで冷え込んで、やがて修復しようもないくらいの隔たりとなっていく。

そんな私の両親のありかたは、日本の高度経済成長を支えた昭和の夫婦の、典型的な一例なんだろうなと思う。

今となっては、父が疲れ果てていたのも、母が疲れ果てていたのもよく分かる。

 

根底に、金銭的な結果が出ない労働には価値がないと考える、資本主義の社会の功利主義的な考え方がある。

誰もが高い賃金を稼ぐことが何より価値が高く優先すべきものだという考え方に囚われているから、お金を生まないケア労働は「無」と捉えられることになる。

そういう資本主義の価値観がたくさんの家族を壊してきたし、今も壊し続けている。

 

だから私たちはいろんなことを言葉にしてかなくちゃいけない。

労働には効率よくお金を生むものとそうでないものがあるが、それが労働の価値を左右するものであってはならない、という言葉もそのひとつだ。

ちょっと考えたら当たり前に分かりそうなことでも、誰も言葉にしないから、いろんな倒錯が起こっていると思う。

本来、恥じ入って隠れていなくてはいけないような人が、ふんぞり返って壇上で他人に説教していたりする。

 

さっき、夫が帰ってきて「明日先方の予定がついたら撮影入れてもいいかなあ。出来るだけ早く進めとくに越したことないからさ」と言う。

そこには家族を養うための大切な仕事は何よりも優先されるべきことだ、と当然のように思っているニュアンスが見え隠れする。

私は「もし明日でなくてもいいのなら、もう少し先にしてもらえると助かる。この分では確実に明日も園を休みにすることになると思うから」と答えた。

普段の私なら、「あー明日ワンオペかあー」と内心泣きながらも「いいよいいよ、仕事大切だもんね」って言ってたと思う。

でも末っ子が寝てる間に、こういう文章を書いてたから、咄嗟にいつもと違う言葉が出た。

夫はあっさり「そうか、そしたら明日はやめとくかー」と言った。

 

小さいけど、関係性ってそういうことなんだと思う。

近しい人とのパワーリレーションシップを変えるのは、本当に大変なことだけど。