みずうみ2023

暮らしの中で出会った言葉や考えの記録

「くらしのアナキズム」

月曜日。

12月に入った。

季節感が乏しくなって久しいけれど、妙な慌ただしさだけはあり、これからの1ヶ月は、駆け抜けるみたいに過ぎていくのだろうな。

 

今朝は、雲が厚いからか、世界が不穏だからなのか、低空飛行の飛行機の音がとてもうるさい。

部屋の窓が開いていると、こめかみがじんわりと痛くなるほどうるさい。

わたしの住む町は、米軍基地のある座間や福生と、横田基地のあいだに位置するので、戦闘機や軍用機やヘリコプターが、デザインが分かるくらいの近さで、一年中飛び交っている。

飛行機を見つけると、末っ子は、自転車の後ろの座席で立ち上がるみたいにして大喜びで「いこうきーいこうきー」と空を指さす。

「そだねえ〜」と口を開けて一緒に飛行機を眺めながら、どんな人がどんな思いで空の上にいるんだろうな、と時々思う。

 

わたしの周りには一人もいないけれど、日本にも兵隊がいっぱいいて、戦争のことをしじゅう考えている人々や戦争で儲ける人生の人々がどこかに確かにいる。

そういう人たちは、武器は殺し合いで無尽蔵に景気良く破壊されるから、いくらでも作って売ることができる素晴らしく高効率なプロダクトみたいに捉えているのだろう。

この国の人々が人生の大半の時間を捧げて得た収入の半分を取り上げて、なんの断りもなく、43兆円も戦争に関することたちに浪費すると勝手に決めた政府のことを思うと、震えるくらい腹が立つ。

ぎりぎりで必死で、時間も精神も余裕なく、でもなんとか良くあろうとしている人は、周りにとてもたくさんいるから。

戦争とジェノサイドは今日も続いていて、わたしはアルジャジーラのニュースを見ては胸を苦しくしているだけ。

速報によると、イスラエル軍はのこの24時間で700人のパレスチナ人を殺した上に、目下、ガザの難民キャンプを爆撃中である。

難民を殺すことに一体どんな正当性や利益があるのか、全く意味がわからない。

ほんとうに誰か教えてほしい。

 

 

『くらしのアナキズム』|感想・レビュー - 読書メーター

松村圭一郎著/2021年/ミシマ社

 

昨晩は「くらしのアナキズム」(松村圭一郎著)を読んでいた。

アナキズムってむやみにこわい言葉みたいに捉えられがちだけれど、本書はラディカルな革命のことや、アウトローな生き方を提唱するようなものではなくて、歴史や人類学を紐解きながら、「国家はあるのが当たり前で不可欠なものである」という前提を疑ってみる、私たちの生きることへの潜在能力への気づきを促してくれるものである。

ていうか、私たちはすでに今、ある意味においてはアナキストなんだよ、と著者は言う。

 

自助を掲げ、自粛にたよる政府のもので、僕らは現にアナキストとして生きている。

「公」とか「公共」と言えばお上のやることだと信じられてきた。

今度はそれを企業など、別の誰かに委ねようとしている。

僕らはどこかで自分たちには問題に対処する能力も責任もないと思っている。

でも、本当にそれは普通の生活者には手の届かないものなのか。

 

この本で考える「アナキズム」は達成すべき目標ではない。

むしろ、この無力で無能な国家のもとで、どのように自分たちの手で生活を立て直し、下から「公共」をつくりなおしていくか。

「くらし」と「アナキズム」を結びつけることは、その知恵を手にするための出発点だ。

ーーー「くらしのアナキズム」松村圭一郎著 「はじめに」より引用

 

これを読むと「国家」というものの成り立ち自体が、明確に搾取と支配を目的としたものだったということが分かる。

私たちは「国家」がないと、治安が悪化しカオスになると思い込まされているが、それは国家を正当化するための方便で、実際は全く混乱に陥らないことを、人類学の数々のフィールドワークが証明している。

税を納める代わりに国が国民生活を保障してくれる社会契約によって国が成り立つ。

この社会契約の考え方が17〜18世紀のヨーロッパで生まれたのは、それ以前が全くそうではなかったからだ。

僕らは国家がそもそもどんなものなのか、ほとんど知らないまま生きている。

 

ホッブズは、戦争状態を抑止し、危機に対処するためにこそ、主権国家が必要だと説いた。

だが歴史的に見れば、国家は人民を守る仕組みではなかった。

人々から労働力と余剰生産物を搾り取り、戦争や疫病といった厄災をもたらす。

国家はむしろ平和な暮らしを脅かす存在だったのだ。

(同著より引用)

 

確かに今、日本も含めた世界で、多くの人が国家にめちゃめちゃ平和な暮らしを脅かされているなあと思う。

国家が戦争状態を抑止し危機に対処している?ホッブズはただの嘘つきだ。

 

歴史を踏まえると、17〜18世紀に国家の意味づけをよりよくアップデートさせたのが今の欧米式、それをさらに進化させたのが北欧式ということになる。

でもどのように国家を改良しようとも、そもそもが国家とは信用ならないものである。

今の日本の国家のあり方とは、「間違ってる」というよりも、原始的なそもそもの国家観に回帰しているということになる。

 

故安倍首相が、国会で「税は、国民から吸い上げるものでありまして〜」と口を滑らせたことがあったが、原初的な国家観において、これは正しい認識ということになる。

正しいクソ認識である。

 

国家が言うことを鵜呑みにせず、国家なんてありがたがるものじゃないし、盲信するようなものじゃないねということくらいは、そろそろコンセンサスとして広く根付いてほしいよねと思う。

一人ひとりの自衛のために。