前記事に関連して、希望について。
明け方、再び寝入った末っ子の隣で、映画監督ケン・ローチのエッセイを読んでいたら、はっとさせられる文章があった。
私たちの希望は、人々の正義と、搾取と圧政に対する抵抗の歴史に基づいています。
人々は闘争を通じて成長するのです。
他者との連帯や良きユーモアは、政治運動に関わる中で共通の敵に直面したり、問題解決の策を練ったり、真の仲間と言行が一致しない者を見分ける経験などを通じて、手に入れ、学んでいくものです。
闘争は、偉大な教師なのです。
だからこそ、未来が暗澹として見えるとき、私たちがポジティブでいるための希望は闘争の中にこそ見いだすことができると私は考えます。
この言葉は、日本人の口からはなかなか出てこないなと思う。
闘争こそが教師であり希望だなんて。
単にイギリス人である以上に、良くも悪くも筋金入りの社会主義者・活動家であるケン・ローチだからこその言葉ではあると思う。
この国に暮らしていて、事あるごとに感じてきた、軋轢やもめ事、議論を極力避けようとし、自分であれ他人であれ、怒りの感情そのものを抑圧する傾向。
何かに怒りの声を上げる人を冷笑したり、問題や改善したいことを相手に訴えた時に、ひたすら平身低頭でやり過ごそうとするやり取りは、日常の至るところにある。
波風立てず、なあなあ(翻訳不可能)で事をおさめる事を良しとする。けれど、それは良識でも優しさでもなく、コミュニケーションの拒絶に過ぎない。
もちろん、人と意見がぶつかったり、利害が対立したりすることは、緊張することだし不愉快さもある。
けれど、互いの考えを言い合い、聞き合い、擦り合わせをすることは、他者と共に生きる上では不可欠で、本来それ無しに済ませられるようなことではないはずだ。
けれど、私たちの大多数は他者に向かって自分のまとまった考えを述べたり、建設的な対話の作法を学ぶ機会が少ないまま大人になる。
本質的/普遍的な問題を考える経験も少ない。
学校では、先生が握っている「ひとつしかない正解」を子供たちが類推して当て、更に「ここテスト出るぞー」って言われたところに蛍光ペンで印をつけて、意味なんて脇に置いて丸ごと暗記する。
日本の公教育では、とりわけ近代史はほとんどまともに教えられていない。
家庭の環境や、個人的な関心で学ばない限り、ローチの言う「搾取と圧政と抵抗の歴史」なんて、ろくに知らないままでも大人になれてしまう。
私たちは、ぬるま湯に浸かっているような暫定的な平穏の中にたゆたっている。
不安や怒りを感じないために耳を塞ぎ考えないようにして、なんとか笑顔でポジティブであろうと健気に努める。
だけど、やはりそれは無理な話なのだと思う。
そのしわ寄せの一つとして顕著にあらわれているのが、極右化であろうと思う。
寄る辺ない脆弱な自己が一番すがりやすいものがナショナリズムだからだ。
しかし、私たちが根本解決よりもとりあえずの穏便を望む気持ちの強さは、生半なものではない。
実はとても年季が入った思想である。
以前、作家の五木寛之さんがテレビのインタビューに答えて、「何十年、戦争も経験して今まで生きて色々見てきましたけど、この国の根本は一切変わらなかった。とにかく『和を以って尊しとなす』。結局この国はそれに尽きるのですよ」というような事を言っていた。
それを聞いてうわー最悪と思ったものだったが、先日吉本隆明著「13歳は二度あるか」を読んでいたら、こういう記述があった。
宗教はもともと、法律に先だって存在していました。
つまり宗教がまずあって、その中の一番固い(厳格な)部分が法律になったのです。
宗教の一番固い部分が比較的そのまま法律になるのは西欧で、法律といっても道徳や倫理観の色合いが強いのが東洋の特徴です。
日本で言えば特徴的なのは「十七条の憲法」です。
第一条に何が書いてあるかというと「和を以て尊しと為す」とあるのです。
(中略)
十七条の憲法の中で、法律らしい法律はたった一条しかありません。後の十六条は全て、道徳と区別のつかない内容です。
日本の国の法律というのは、こんな風に最初から道徳の色合いが濃いものだったのです。
(「13歳は二度あるか」吉本隆明著より)
同じ国家でも、西洋と東洋では大きな違いがあります。
この違いを理解しておくことは大切なことです。
西洋では、政府イコール国家です。
国家といえば、すなわちそれは政府をさすのです。
政府と官庁が国家で、国民はその下で社会生活を営んでいるというイメージです。
それに対して日本を含む東洋では、国家とは、人間も土地も家屋も全部ひっくるめた全体を指します。
つまり国家と自分ははっきり分離できないものとしてイメージされているのです。
この違いは、例えば戦争などの重大事が起こった時に、恐ろしいほどの差となってあらわれます。
日本のような国では、国家と個人が切り離されておらず、一体のものとして考えられていますから、国家の危機の際にすすんで命を捧げるのは国民として当然のことであるということになります。
それに対して西欧の先進国では、例えば国のために命を捧げる人がいても、それはその人個人の判断において行われることです。
個人の勇気や国に対する献身をたたえられることはあっても、そうしないと共同体の中で村八分の扱いをされるというようなことはありません。
(中略)
実際、国家から受けた損害を補償してもらうために個人が国家を相手取って訴訟を起こすようなことは、もともと日本人の発想にはないことです。
西欧の制度の模倣であり、戦後から行われるようになったのです。
あくまで私個人に関して言えば、儒教的な思考は苦手で、国家に対するイメージはかなり西洋的なもののように思うが、世代的・総体的にみてどうなんだろう。
それにしても、故・河合隼雄さんが「日本人にはどれだけ説明しても、どうしても個人主義は分からない」と言っていたことが改めて腑に落ちる。
この観点からは、単純なナショナル(右)/リベラル(左)とかじゃなく、長い歴史を踏まえた東洋と西洋の宗教観の違いが浮かび上がってくる。
この違いは単純な二項対立で語れることではなく、西洋にも東洋にも、それぞれ一長一短あると思う。
ただ、一人ひとりが多様である事を抑圧されず生きられる社会がいいという一点において、私にとっては東洋の全体主義的価値観は、しんどい。
右とか左とかじゃなく、全体主義が嫌いだ。
そして、希望を欲している。
だから、私なりの「闘争」をしていかなくちゃいけないのかもしれない。
とにもかくにも根深い事である。
いいとか悪いとか言ってみても始まらないくらい根深い。
あるものはある。
まずはそう受け入れた上で、どう私たちなりに良く変えていけるのか考えたい。