ジャニー喜多川氏の性加害問題が巷で取り沙汰されてもう長い。被害を訴える7人が「ジャニーズ性加害問題当事者の会」を結成し、国連人権理事会の「ビジネスと人権」作業部会はこの7・8月での訪日を発表。聞き取り調査を行うそうだ。日本の、一芸能事務所の問題を国際機関が調査に来るというこの事態、全く腑に落ちない。
【マジョリティが常に後ろめたさを抱える構造】
いや、どうしてこれほど大規模でスキャンダラスな性犯罪事件が、まともな議論もほとんどないままにうやむやの中に押し込まれようとしているのかの方が、私は全く腑に落ちないんだが。
おそらくこうなるんだろうと想像はしていたけれど。
もちろん、ジャニーズ事務所がメディアに対して大きな権力を持って情報統制をしていることや、これまで書いてきた日本の社会構造下で性加害がタブー視され、加害者が守られる風土が大きく影響しているのは言うまでもない。
メディアや政治にはもうとうに自浄作用を期待してはいない。
むしろ「外圧」に期待するしかないのは情けないことだ。
しかし、多くの一般の人たちが、このことについて発言しない、気まずそうに口をつぐんでいる様子の方が、個人的には気になってきた。
本書の中で最も面白く読んだのは、「どうしてマジョリティはマイノリティの抱える問題に対してどこか気まずそうなのか?」という長年の素朴な問いに、本書が答えていた部分だ。
信田氏は、2017年の「現代思想」誌上の國分功一郎、岸政彦の対談の中での岸先生の指摘に言及している。
「お前は誰だ?」と常に問いかけられているのがマイノリティである。
マジョリティは純粋な一個人として透明な存在でいられる特権を有している。
ところがある瞬間、マジョリティとして引きずり出されることがある。
それは必ず加害者としてなのである。
「突然、お前には責任があるのだと名指しされるという経験を通じてしか、マジョリティとしてそこに存在することができない」のである。
ネトウヨについても、彼らには加害者として引きずり出されることへの共通する恐怖感がある。
(「〈性〉なる家族」P.143−144より引用)
マイノリティからの告発を受けた時、マジョリティの反応は3種類に分かれる。
1. 自ら属するマジョリティを激しく否定する(被害者に同化)
2. 無視してスルーする(事実の否認、責任放棄)
3. 被害者にも落ち度や責任があり、自分たちこそ冤罪被害者だと主張する(被害者を自己責任化)
これらは、自らの加害者性に向き合えない脆弱性というよりは、「マジョリティゆえに加害者としての無限責任を負わされることへの恐怖」と、「その理不尽さへの怒り」からくる反応なのかもしれない、と本書では指摘されている。
突然加害者として引きずり出されて「マジョリティとしての責任を取れ」と言われることへの怯え、恐怖の背景には何があるのか?
「責任の取り方が分からない」ということがあるのではないか。
覚書きの③につながってくるが、この国では、責任を取るとはどういうことかという国民的コンセンサスが形成されていない。
多くの場合「めちゃくちゃ申し訳なさそうにしたり、泣いて反省する姿を見せる」こととはき違えられている。
実際そうしてみたところで、当然被害者は納得しない。
だから何度も不毛な「反省のポーズ」を繰り返したのち、逆ギレすることになる。
「韓国にいつまで謝り続ければいいんだ」とのたまった前首相のように。
そして、「自分たちを加害者にした」被害者を憎んで、攻撃を始める。
そこにはまともな論理性は存在しないが、知ったことではないのだ。
自分たちが感じているマジョリティの被害者感だけは確かで、それゆえ自分たちは正しいのだ。
外側から見ると論理破綻しているように見えるネトウヨやヘイトクライムのロジックとは、このような感情の動きにもとづくものではないだろうか。
そしてこのことはジャンルを問わず、今身の回りのあちこちで起こっているように思う。
繰り返しになるが、まず謝罪と賠償をし、説明責任を果たし、再犯防止の努力を続ける。これが責任を取ることの具体的な道筋である。
「反省」は含まれない。反省なんてどうでもいいから、被害者の苦痛と被害に「応答する」ことが重要なのである。
そのことをマイノリティがマジョリティに具体的に要求していかなくては、ヘイトや否認の悪循環は断ち切れない。
【あらゆる社会活動は「数」が大切】
被害は常に正義の側に属するので、マイノリティが被害を訴えたと同時に、マジョリティは避けがたく加害者となる。
マジョリティは加害者になりたくないので、「被害など存在しない」という言い方でマイノリティを攻撃する。
被害がなければ加害も存在しないから。つまりは保身からの言動だということ。
この構造の中で、常にマイノリティは口を塞がれる。
こうした状況に潰されないためには、被害者が連帯して数でまとまり、次々当事者としての告発をすることである。
権力側(国家、会社、学校など)は、「膨大な数」に対して原始的な恐怖を抱く。
そのため支配者は、必ず人々を分断させて互いに憎み合わせ、競い合わせる。
自らに注目や告発が及ばないよう、本質から遠ざけ、矮小化する。
この作為を見抜き、被害者は連帯してできるだけ大勢で声をあげなければならない。