代わってジュリー氏が謝罪も済ませているのに、これ以上何を望むのか。
【責任を取るとはどういうことか?】
そもそも、日本の性暴力・DV被害者の支援の方法は「間違っている」。
アメリカ、カナダをはじめとした国々での一連の基本対応は、まず加害者を逮捕し、拘留、起訴、裁判。これらを10日以内に終わらせたのち、裁判所から加害者プログラムが命じられる。
日本の対応は、被害者に全てを捨てて逃げるよう促し、保護命令を出しシェルターに入所、その後は公から身を隠して別の土地で生き直すことを勧めるというもの。
加害者は法的に罰されることもなく、これまで通りの生活を送り続ける。
欧米先進国では、加害者を拘束し無害化する。
日本では、被害者がそれまでの暮らしを捨てさせられ、長期間多大な負担を強いられながら、隠れて生きていかねばならない。
日本型の支援は、あまりに男性加害者に配慮的で、理不尽すぎる。
信田氏が視察したカナダの「加害者プログラム」は、〈謝罪・賠償、説明責任、再犯防止〉という3つの要素によって成り立っている。
どんなことも、やったこと自体は取り返しがつかないが、法的には、これが「被害者への責任を果たす」ことだと定義されている。
1. 謝罪と賠償
2. 謝罪のために被害者の実情を理解した上で自分がやったことを認め、具体的に自分の行為のどの部分を誰に対して謝罪しなければならないかの説明責任を負う。
3. 自らの加害性、歪んだ認知などを学び、今後の具体的行動を自ら学習して、再犯防止を誓う。
一方日本では、「反省」が責任を取ることのように誤解されている。
しかし、許してもらうための「涙ながらの反省」なんて、自己保身のためにいくらでもやれるようなことで、それによってことが済まされるという考え方はあまりに虫が良すぎる。
加害者の反省は、責任を取ることとは関係がない。
そもそも加害者には責任を取る/取らないを決める権利はない。
加害者が責任を取ったかどうかを判断するのは被害者である。
(のみならず、ジュリー氏の「謝罪動画」は、記者会見でないので誰の質問にも答えていない。いかにも沈痛そうな様子ではあるが、加害行為の内容や被害者への補償など、具体的な言及が何もない。
さらに、謝罪しているのは世間を騒がせたことやスポンサーや関係者に対してであって、被害者に対してではない。
「もし本当に事実なのであれば許されない」といった言い方で、事実認定すらしていない。
これは謝罪ではなく自己弁護で、被害者をおとしめ、傷つけるものだと私は思う。)
性犯罪に限らず、この国には「反省」文化が強くはびこっている。
裁判でも「反省の深さ」が問われる。
裁判官にどれだけ反省しているように見えるのか、それによって刑の重さが変わってくる。
反省しているように見えることと、再犯の可能性が少ないということには、本来何の関係もない。
皆、それを当たり前に受け入れているけれど、よく考えてみるとあまりに無根拠だし、情緒的で不公平な判断基準だと思う。
多分、多くの外国では、情状酌量において「個別の事情を複数の事実から鑑みる」ことはあっても、「加害者がどれくらい反省しているかを問う」という文化自体があまりないのじゃなかろうか。
だって意味がないから。
日本では、ひと昔前の学校での「反省するまで廊下に立ってなさい」に始まり、間違ったことをしたり、失敗してしまった時に、「本当に反省しているのか」と詰問されたことは誰にでもあると思う。
自分も子供に対して言ってしまったことがある。
けれど、それは自分の懲罰感情を満足させる効果しかなかった。
政治家たちの決まり文句は、「不快な思いをさせたのであれば」「もしも誤解を与えたのであれば」申し訳ない、というもの。
事実に向き合うことも自分の罪や加害に向き合うことも全くしないで、謝罪も反省もしていない不本意感を見せつけながらの「謝罪会見」というよりは、ハラスメントに近い。
ずっと前にブログに、この国の首相の奇妙な日本語による意味不明な弁明の会見を見るたびに「殴られているような気がする」と書いた記憶がある。
それは、「説明責任を果たさなくても構わない。理由を説明するつもりはない」という姿勢が、事実の拒否よりもひどい、相手を侮蔑する態度であり、権力によって相手を踏みつける行為に他ならないからなのだ、ということが今改めて腑に落ちている。
責任を取ることの中心に「説明責任」がある。
被害者の言葉を身に受け、それをまさに自分がやったのだ、と加害者が口に出して復唱すること。
そのきつさに比べれば、「反省しています」「申し訳ありませんでした」と言うことなどあまりに容易い。
そんなことは、責任を取ることでも何でもない。