みずうみ2023

暮らしの中で出会った言葉や考えの記録

「ウーマン・トーキング」

Women Talking - The Garden Cinema

2022年アメリカ/原題:Women Talking/監督:サラ・ポーリー/105分/2023年6月5日〜日本公開

 

エンドクレジットが終わって劇場が明るくなっても、なかなか立ち上がることができなかった。

ぼーっとして体にうまく力が入らず、体が重力に逆らえず、しばらくは言葉もうまく喋れない感じだった。

 

大半が、薄暗い狭い納屋の中の映像で、密室劇に近い。

年寄りから少女までばらばらの年代の地味な農婦姿の女たちが顔を突き合わせて話し合っているシーンにほとんどが費やされている。

にもかかわらず、荘厳でスケールの大きい大作を見たという感覚に圧倒されてしまった。

物語が時代を超えた普遍性をもって、この人間社会において女に生まれることの悲しみを、抱きしめるように痛切に語っている。

 

女性だけではない。この作品は、虐げられ利用され搾り取られている、苦境にある全ての人々にとって、温かな眼差しで見つめられ、隣で優しく手を握られているような深い慰めの感覚をもたらすと思う。

どうしてだろう、ただ画面を見つめていただけだったのに、自分の話を、言葉にならぬ沈黙までもをじっくりと聞いてもらったような、満たされた感じがしたのは。

こんなに救いのない状況で、一矢報いることもできないのに、心が静かで光が射している感覚が残ったのは。

それは、この映画を見る私たちが、痛みを抱える者同士が「連帯」し、「言葉が生まれる瞬間」に共に立ち会っているからだと私は思う。

 

私の頭がおかしいのではない、私の言葉を聴き、それを受けとめ信じてくれる人が目の前にいる。

私に起こっていることは、確かに現実のことである。

そこにある苦痛や悲しみや混乱も現実のことであり、私がそれを苦しむことは正当なことである。

そして、目の前で起こっていることの意味を知ること。

その上で私はどういう世界で生きたいのかを考え、

私が主体的な判断を下すこと。

 

このようなプロセスは、率直で真剣な対話によって、パラダイムのなかった言葉に形が与えられていくことによってなされうる。

問うこと。

気付くこと。

意味を知ること。

自分に許可を出すこと。

自分で考えて選び取ること。

 

ああ、言葉。

このような自分固有の体験を語る言葉は、人間にとって、時に生き死にを左右するほど重要なものとなる。

私が何よりも憎むのは「あることをあると認めない」「言葉を愚弄し、壊す」人や組織だと常々思っているが、それはまさに、現実を否定し、言葉を奪おうとする者への怒りなのだ。

 

多くの卑劣な犯罪や差別においては、支配者や強者や多数派が、目の前にある現実を否認し、教育の機会を奪うことで語る言葉を人々に持たせないようにする。

人々を、孤独で孤立した状況に置かせ、連帯させない。

そのようにして沈黙を生み出す。

そうすれば被害者から加害や罪を突きつけられることもなく、その事象丸ごと「ないこと」として、自身の加害や罪にまともに向き合わずに、安心してその犯罪や差別をいつまでも続けることができる。

 

この映画の中で起こった性犯罪もそうだったし、ジャンルを問わず同じことは今の世界で無数に起こり続けている。

国家による犯罪にも、宗教団体による犯罪にも、学校や家族間の犯罪にも、この特徴は見られる。

誰か飛び抜けて邪悪な特殊な存在が犯罪を引き起こすのではない。

いつだって私たち一人ひとりが犯罪を起こし得る。

とりわけ集団的な暴力は、構造的な性格をもつ。

この人間世界は、愛と暴力がないまぜになった場所である。愛と暴力は背中合わせに存在する。

 

深刻なトラウマを伴う状況に対する解毒剤は「その痛みを誰かと分かち合い、対話によって自身の言葉を獲得すること」だとこの物語は教えてくれる。

深い絶望と怒りに凝り固まっていたマリチェが、女たちの心のこもった謝罪の言葉の前に、ついに「私には選択肢がなかった」と絞り出すように自分の言葉で語ったシーンはとても感動的で、多くの人の心を癒すだろうと思う。

そこには復讐や報復のような、すっきりと溜飲を下せるような分かりやすい解決は存在しない。これが絶対というような安住できる正しさもない。

割り切れない、忸怩たる思いを抱えながら、迷いながら考え続けるしかない。

完全な満足はない。悲しみや癒されない思いはなくならない。

悔しいし、残念だし、まだまだ諦めきれないけど、それが人の世の現実であると思う。

 

竹で割ったような勧善懲悪の物語、あれは基本的にファンタジーだ。

少なくとも、超レアケースである。

そういう物語〈フィクション〉を私たちが求めてしまうのは、致し方ない。

フィクションに心を温められることも時に必要だとは思う。

けれども、今はシンプルな勧善懲悪のフィクションがあまりに身の回りに氾濫しすぎていて、それが「あるべき現実」であると信じ込んでしまい、そうではない複雑でリアルな現実を受け入れ難くなっているとしたら、それは物語の弊害だと思う。

 

何よりも、報復や復讐は、長期的視点で見ると解決ではない。

必ず次の戦いの火種を残す。

永遠の応酬が続く。

 

その轍から抜ける道を、未来を、彼女たちは必死に模索した。

「闘わず、前へ進む。ああそうよ、闘わず、前へ進む」

と、オーナは目を輝かせて言った。

私は、これからもずっとこの言葉のことを考え続けると思う。