日差しはそれほどきつくないが、毎日蒸す。
ついつい水分を摂りすぎて、トイレに行ってばっかりだ。
「君たちはどう生きるか」を見てきた。
近所のシネコンで一番大きいスクリーンの座席が、8割がた埋まっていた。
宮崎駿監督の新作としては10年ぶりで、事前の宣伝や告知が一切ないなかで。
内容についてはもちろん、これから見る人の迷惑になるので書かないが、興行も作品自体も、宮崎駿という作家が長年かけて築き上げてきた信頼の上に成立している、そのことに深い尊敬の念を感じないわけにはいかなかった。
何はともあれ新作が出たら観に行くという日本中の人々。何はともあれ声がかかれば、彼の基準を満たす高いクオリティーの仕事を請け負うたくさんの仲間たち。
ちょっとやそっとでは揺るがない、その「信頼」というものの尊さよ。
同時代で彼の作品を見続けることができたことを改めて感謝した時間だった。
感想は後日タイミングがよければおいおい。
鑑賞後に軽く中華ご飯を食べたら、娘氏はさっさと東京へ行ってしまった。
最近娘氏は、貧困支援や労働問題の解決のサポートをする若者が運営するNPOのボランティアへちょくちょく足を運んでいる。
今日は役所へ同行するみたい。
2年間の引きこもりのまるで反動みたいに、興味の赴くままに、色んなところへ行って色んな人と会う暮らしになっている。
どこへ行っても娘氏は大抵最年少。でも、明確な目的意識や共通の興味がベースにあるし、皆親切で面白い良い人ばっかりだ、と楽しそうにしている。
今日はこんな人に会ってこんなこと話した、という話を聞くのが私はいつも楽しみ。
自分にはとても言えないかっちょいい名言をさらりと口にする人や、自分の知っていることを惜しみなく親切に教えてくれる人、親には気付かない娘氏の個性をほめてくれる人、思いがけない解決法を提示してくれる人、聞いているだけで面白い紆余曲折の人生の人。
こういう活動をしてることをご両親はどう思っているの?あまりよく思わない親も多いから、とNPOの先輩スタッフに言われたらしいが、反対する理由って何なんだろう?よく分からん。
娘氏は学校へ行っていないけれど、先生は社会の中にいっぱいいる。私はとっても感謝している。
何より、人の人生が大きく動く一番のきっかけは、やはり誰かとの出会いだと思うから。
そんな娘氏はこの夏、某所の夏合宿に参加しようとしている。
リベラルアーツの学びをベースに、環境問題についての議論や原生林でのフィールドワーク、瞑想などを取り入れた内容になっていて、とても面白そう。参加できるといいのだけど。
参加にあたって主催者側から抽象的な質問があった。
その答えに今の娘氏の考えやありようがよくあられているなあと思った。
「この世界は、どういうものからどのようにできているとあなたは思いますか?」
人や、生物、存在しているものとされるもの、されていないもの、感じられるもの、感じられないもの、すべての活動によって成り立っていると感じます。
それぞれが生存するためにしている活動が、合わさったり弾きあったりして、その時々で違う状態になりながら共存しているイメージをもっています。
今の私が生きている次元と、そうでない次元。あの人やあの植物が存在している次元など、時によって見え方が変わります。
それぞれの人がそれぞれ世界をもっていて、私もあの人も家族も、その世界で生きている人でありながら、それぞれの世界観が溶け合っているようにも感じます。
「あなたはその『世界』の中でどう在りたいですか?」
自分がもらったものを誰かに渡せる人でありたいです。
自分のもって生まれたもの、あるいは生きてきて重ねてきたニーズを充たす在り方をしていきたいです。
子供の、自分中心の世界観ではもうなくなっていて、けして理解し得ない他者や、しかも自分には見えないものや自分には認識できない存在も含めて、世界が成り立っていると考えている。互いにゆらゆらとバランスを取りながら、影響を与えあいながら、多様なものが流動的に存在するイメージ。
そして勝つとか向上するとかでなく、自分の内側から湧き出た思いに従って生きていくことが望みなんだということ。与えるではなく渡す、というのも彼女らしい言葉遣いだなと思う。
こんな抽象的なことを自分の言葉で言語化できるほどに成長したのだなあと感慨深い。
そして、若い世代の一人としての娘氏が、こういう世界観と価値観をもっているということに小さな希望を感じる。
「君たちはどう生きるか」は、宮崎さんなりの若い世代へまっすぐ向けたメッセージだったと思う。
娘氏は今日の映画をどう受け取って、どう生きていくのか。
楽しみだな。