みずうみ2023

暮らしの中で出会った言葉や考えの記録

ハレとケ

家を出る時、ご近所さんと顔を合わすと「あっついですねー!」とただただ言い合っているこの頃。化粧っ気のない私は近所を自転車で走り回るだけでもう真っ黒だ。ビーサンの鼻緒の形に日焼けの跡がついている。

寝室も一晩中エアコンをつけていないと寝苦しい。

7月はじめでこんなだったら、8月はどうなってしまうのだろうな。

 

末っ子は保育園で毎日がっつり水遊びをして、濡れた着替えをたんまり持って帰ってくる。

スプリンクラーに一番に飛び込んで行ってずぶ濡れになり、お友達と顔を見合わせて笑っています」と連絡ノートに書いてあってにっこりする。

暑い中、のびのび外で遊ばせてくれる園で本当に良かった。

昔に比べて保育園の数はすごく増えたが、ビルの中にあって園庭もないようなところも多いし、あってもご近所からうるさいと苦情が来るのであまり外遊びさせられない園もある。ありがたいことである。

 

昨日は、別段大したことはしていないが、妙に一日楽しいことばっかりであった。

今朝、気持ちが晴れなくて、これはなんだろうと一瞬思ったが、そうか昨日が楽しすぎたせいかとすぐに思い当たる。 

いつもながら厄介な性質に小さくため息が出る。

昨日の揺り戻しで心細く不安定な状態が来て、こういう時はほんの些細なことをきっかけにぐーっと落ち込んでいってしまう。

誰かのほんの一言でもそうなってしまうから、落ち込みを回避する方法はあまりない。

何も考えられないくらいに忙しくしてしまうくらいか。

昨日と打って変わって、今日は家族と笑って雑談していても、どこか憂鬱を引きずっている。

 

もちろん誰しも常にハッピーではいられないのは分かっているが、一旦高揚するようなことがあると、しっかり元を取るみたいに、プラマイゼロみたいに、後でマイナスに振れてバランスを取ることが、この年になるともう、自分がアガった時点で想定できてしまう。

だからアガること自体が、もはやうっすら嫌である。

楽しすぎるのは考えもので、振れ幅を小さくしていくのが一番だと分かってはいる。

でもたまに調子に乗って、あとで落ち込むくせに、つい多幸感で自分を留保なく満たしてしまう。

のみならず、そうだ、こうすれば、こう生きれば良かったんだ、なんか分かった!やった、ってそれをずっと継続できるような錯覚さえ起こす。

 

しかし、いろんな条件がかけ合わさって起こった素晴らしいひとときは、再現不可能である。

どんだけ同じ条件を揃えてみても、絶対に同じようには行かない。

だから、昨日みたいな「なんてことないがパーフェクトな1日」みたいなことは、多分一番奇跡的なことで、けして自力でコントロールできるものではない。

それゆえ一期一会と心得て、目に焼き付け、存分に味わい、手中にしようとか定期的にとか欲深いことを考えず、さっぱりと手を振って笑顔で手放すのがいいのだと思う。

その後にはまた冴えない地味な日々が確実に続くのだし、そのうち何もかもが上手く回らない全てが最悪みたいな日も来よう。

そしたら、「楽しいことが絶対続かないように、辛いことも続かない。下がったらあとは上がるしかないよね」と自分を励ましつつ、じりじりと耐えるのみだ。

 

そのように、人の暮らしはハレとケだけど、SNSはつくづく素晴らしいひととき、ハレだけが凝縮された空間だなあと思う。

ハレは、自分なら喜ばしいことだし、他人なら良かった良かった、楽しそうでと思う。キラキラしたものを見るだけで嬉しくもある。

けれども、あんまり味わい深くはない。

面白いのは、充実させるべきは、断然ケの方だなあと思う。

ハレは偶然の賜物ゆえ、研究や試行錯誤でどうにかなるものではない。だからこそ尊い

ケはハレよりずっと、探求しがいがある。ケをどう生きるかが人生の醍醐味だ。

 

素晴らしいひとときは、素晴らしいからもっともっとと求めてしまうし、そこを重要視してしまいがちだけれど、忘れた頃に降ってくる思いがけないごほうびくらいのものだ。

ハレは、それくらいに軽く捉えるようにしていこう、と思う。