みずうみ2023

暮らしの中で出会った言葉や考えの記録

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午前中は、前の保育園で仲良しだったN家と平塚の公園で待ち合わせ、水遊びをさくっとして、昼には解散。

帰りの車で寝始めた末っ子は、今もぐっすり寝ている。

 

先月は末っ子が感染症に立て続けにかかったので、会うのは久しぶり。

前回、大人4人+N家のベイビーでピザを食べ、食後にお家にお邪魔してコーヒーをご馳走になって以来。

次はうちへお招きしたいねと夫氏と言い合っているが、近年、気がつけば家には家族以外の人はほとんど呼んでいないことに思い当たる。

 

上の子たちが幼稚園、小学生の頃は、子育て仲間がわらわらーっとしょっちゅう家に集っていた。

小さい子がいると、なかなか外に飲みに行ったりもできないので、家でみんなで飲んで騒ぎつつ、BBQをしたり餃子を作ったり串カツしたりしたものだった。夏はお家プール。

 

今も数人とは繋がっているが、ほとんどの人とはもう連絡も取り合っていない。私はフェイスブックとインスタがあんまり好きじゃないので、連絡の必要がない時はほとんど見ておらず、リアルなご縁が切れたらいつの間にかフェイドアウト状態になってしまった人がたくさんいる。

引っ越してしまった人も複数いる。

毎年夏に花火大会を絡めて、主に東京から夫氏の友だちとその友達やパートナーが大勢来て、家でBBQパーティするのも恒例だったが、東日本大震災があった後しばらくは「そんな気になれないね」と止めていて、数年後に復活したら次はコロナが来て。

今年こそやろうよ、と友達に言われたと夫氏に聞かされるも、何か気乗りせず。

 

そのようにちんまり生活していると、まあ気楽だし、家は年々古びて汚いし、年をとって張り切って何かする気力もあんまりないしで、すっかり社交からご無沙汰な暮らしになっている。

暮らしを閉じて、自分の内側のことは家族以外の誰にも見せずに、もてなしたり、何も特別のことをしないでいることは実に楽である。

でも、他の人のことは分からないが、私の場合、暮らしを閉じていくことで、心も閉じていく方向に向かってしまいがちみたいだ。

 

最近、そんな自分にはたと気付かされることがあった。

誰にでもよくあることだと思う、町でちょっとした知り合いにすれ違った時に、とっさに声をかけるエネルギーみたいなものがなくて、さーーっと気付かなかったふりをして通り過ぎてしまった。

相手に対して何の悪意も嫌さもない、むしろ好きな人だった。

自分が汗だーだーで自転車カゴに買い物満載のみっともなさだったことはある。

でも何よりも、自分が他者全般に対して心が閉じていて、言葉を交わすパワーがとっさに湧き上がってこなかったのだと思う。

そして、そういうことはその時だけではない、ここ数年の自分にはたびたびあることであった。

特ににコロナ禍以降は、マスクのせいで知り合いに気が付かないことがごく当たり前の前提で、皆が外を出歩く感じの社会になっているということもある。

 

その時ふと、自分のデフォルトの状態がすっかり「閉じたもの」になってしまっていることを改めて自覚して、こういうのやだ、今後は誰であろうとそういう振る舞いはやめようと強く思った。

誰かに話しかけると、自分がばつの悪い思いをすることもあるけど、誰かを知らないふりをするなんてやっぱり後味が悪いから。

(また人間とは気配に敏感なもので、誰かに知らないふりをされた時ってほぼ分かってしまうものである)

 

そんな風に考えたのは多分、たまたまツイッターで見かけたこの言葉のせい。

心を開かないでいるのはただ死を待つのと同じだ。

 

 

心、開いてこう〜。

めんどくさくとも傷つこうとも恥をかこうとも。

閉じてることが自分の幸せなら全然そうした方がいいのだが、私の場合、保身や怠惰のために閉じているだけなので、後々悔いになりそうだ。

 

まずはお家プールを出して、ウッドデッキにタープをかけて、家と庭をもうちょっとこざっぱりさせて、近々N家をお招きすることにしよう、うしっ。