みずうみ2023

暮らしの中で出会った言葉や考えの記録

純粋な好奇心

今日から5連休。

午前中は、海岸近くの公園で前保育園の友達ファミリーと待ち合わせ。

末っ子は新しい保育園にノリノリで、もう前の園の友達を忘れてしまっているのでは、と心配だったんだけれど、末っ子はその子を見つけると、名前を呼んで駆け寄り、仲良く追っかけっこ。親たちはその姿をほっこり眺めつつ、よもやま話。

パパ友H氏が実はフィルム写真愛好家で、アンセル・アダムズのような素晴らしいランドスケープの写真を撮ることを知り、カメラ好きの夫と大いに盛り上がっていた。

帰ってから改めて彼のウェブサイトとインスタをゆっくり見せてもらったが、あまりにすごい写真でたまげた。

モノクロで撮られたナミビア砂漠や北海道の原野の風景の気高いアート色が強い写真も、東京の下町や私の住む町のごく近所の日常を切り取った写真も、人柄がにじみ出ていて、胸がいっぱいになった。

こんな風に世界を謙虚で優しい眼差しで見ている人なのか。

シャイで注意深い、物静かな好奇心がふつふつと伝わってくる。

 


こないだ見た坂本龍一のドキュメンタリー「CODA」では、教授に世界は美しく面白い音に満ちていることを教えてもらったけれど、人間の純粋で物静かな好奇心は、本当に尊いものだなと思う。

 


好奇心に対する個人的な考え。

結局のところ、人生の納得性とは、「好奇心がどれだけ十全に発動したか、それに従って思うようにできたか」にかかっているのではなかろうか。

純粋な好奇心に従う人生というのは、間違いがないような気がする。

いろんな人を見ていても、自分自身の個人的経験から考えても。

 


「自分には全てにあんまり好奇心がないし、何が好きか、何に興味があるか分からない」「何をしたらいいか分からない」と言う大人や子供はわりにいる。

でもそれは、先天的に好奇心が希薄ということではどうもないような気がする。

保育園の子供たちを見ていても、基本全員好奇心が強そうだ。

 


人には誰しも本来、生物としての好奇心が備わっているものだと思う。

しかし、好奇心に従いたいという欲求を、塞がれたり、禁じられたり、脇に置いて別のことをやるよう強制されたりすることが、人が成長していく中では少なからず起こる。

その結果、ある人々においては、好奇心を感じられなくなったり、好奇心を感じることを自分に禁じさえするようになる。

とりわけそのことを、多くの親が我が子に対して、良かれと思ってやってしまいがちな怖さがあることを思う。

子の安全のために、トラブル回避のために、学業や習い事などを重要視するために、など。

親が日常的に細かく、繰り返し、子供の好奇心を削いでいくような関わり方をしてしまうことは、積もり積もってその子の人生の様相を変えてしまう、実は結構恐ろしい、呪いに近い行為であるような気がする。

一旦根付いたその無力感を払拭するのは、おそらく誰にとってもかなり大変な作業になるからだ。

 


私も上の息子の時に、それをやってしまっていたと思う。

全然観察が足りなかったし、本人の思いを尊重する心が足りなかった。

今以上に未熟で、支配的な母親だった。

彼が小学校高学年の頃、何か誘ったり声がけをすると「うーん、、、やめとく」と言うようになって、これはまずい!とハッとして、その時以降、可能な限りの軌道修正をしてきたつもりだけれど、申し訳ないことをしたなという思いはずっと心の中から消えないままだ。

 


人生というロールプレイングゲームをプレイしていく原動力は、何よりも好奇心だし、勇気や集中力も好奇心という熱源があってこそ駆動するものだと思う。

子どもたちに対して気をつけていくのはもちろんのことだが、自分自身も、どんだけばあさんになろうが純粋な好奇心が死ぬまで発動しておれるよう、心身を整え、余裕を死守したい。

 


末っ子は遊び疲れてまだしばらくは寝ていそう。

今日の絵は、パパ友H氏の写真にしよう。

このところ、可能な日は毎日絵を描くようにしている。

しばらく前に出会った、ある不思議なサイキックの女性に強く勧められたからだ。

その話はまた別のところで。