みずうみ2023

暮らしの中で出会った言葉や考えの記録

わかれめ

昨日、一昨日の2日間、関西から来た友達の一人旅に合流していた。

わざわざ近所に宿を探して取ってくれた。

ところが、久しぶりの再会だというのに、末っ子が最近夜驚症気味で、夜中に何度も悲鳴をあげて起きるというのが1週間ほども続いていて、私は頭痛と耳鳴り中。

加えて降って湧いたような保育園の転園で、これまでの園の先生へのお礼を考えたり、次の園の準備品を買い回ったり、書類仕事をして心が落ち着かない上、生理にもなってしまい、何と間の悪いことだろう。

友達と旅程の相談のやり取りをしていても、何をどこにどうはめ込もうか、末っ子のケアを誰にどう頼もうか、パズルみたいくるくる考えていると、だんだん混乱してしまって心ここにあらず、ずっと地面から数ミリ浮き上がっているみたいな気持ち。

 

それでも今回は天気にも恵まれ、どこを見渡しても桜が満開の素晴らしい時期だったし、久々に居酒屋で夜飲みなどもしてじっくり色んな話もできた。なんとか笑顔で過ごせたことに感謝。

けれど、2日目は半日で脱落して帰ってくることにしてしまった。長い付き合いだがこういうことは初めて。

学生時代に出会ってから20年以上になるけれど、会えばいつも話し足りなくて、ぎりぎりまで別れがたくて、という感じだったのに、ついに「もうええわ、帰りたい、、、」という気持ちがまさってしまった。

これまであんまり気に留めることもなかった友達の小さな言い回しにちくんと傷ついたり、面倒くさく思ったりするのは、ひどく疲れているゆえだと分かっていたけど、でもなんか言いようなく寂しい気持ちになった。

あーあ、私は本当にキャパが小さくなったのだなあと実感した。

余白が怖くって、手帳が予定でいっぱいみたいな日々をかつて送っていたことが、信じられない。

年月は取るべきものをきっちりと取っていくのだなあ、と。

 

こないだ会った、これから僧侶になる人は「全てのことは変化していきます。それを受け入れることです」と言っていた。

 

 

末っ子の通った無認可保育園も今日で最後だ。

たまたま保育園のすぐ近くには、娘氏の心理士の先生の相談室もあって、我が家から近くはないこのエリアに5年近くも縁があった日々だった。それも今日でおしまい。

こういう別れ目って、なかなか実感が湧きづらく、なんだかんだとこれからも関わるんじゃないなんて思っているものだけれど、これだけ生きてくると経験上そんなことはないとさすがに分かる。

今日を最後に関わりはあっけないくらいになくなり、つながりがひとつ切れたと同時に次に向かい、日々の忙しさに紛れ、後ろに残してきたものはあっという間に遠く淡くなっていくのだ。

 

 

今、心を寄せてきた人たちとの「わかれめ」をしみじみ実感して、孤独を感じている。

分かりたくないことが分かってしまうことは、切なく寂しいことだなあ。

夕方ぼへーっと自転車を漕いでると涙が出る。

人生の波みたいなものなんだろうか、この数年付き合ってきた何人かの人たちとのご縁が今同時期的に終わろうとしている。

それだけでもきついのに、長い間近しく感じてきた、今回再会した友達や上の子供たちや、夫氏さえも、ひとつのわかれめを迎えていると感じるこの春だ。

さすがに親からは精神的にも自立しているとはいえ、後ろ盾であり続けてくれた実の両親、義父との別れも刻々迫っている。

 

もちろん、自分は一人じゃないとは思う。でも同時にすごくひとりぼっちだと感じる。

寄る辺なく、淋しいし、ずっと少し悲しい。

そんな自分を、そうなんだなあ、これが人生の味わいなんじゃろうなあと、観念して眺め、しょんぼりし、ようやく平らかな気持ちになっている。

 

変わること、変えることが苦しいのは、自分の存在が揺らぐからだ。

自分の一部がなくなって空っぽと感じたり、拠って立つものがなくなり立てなくなってしまうように思えてしまうからだ。

 

「でも、手放してみたら、結構立てるもんなんだよ、これが。

自分の体は生きようとしているし、自分は意外にしぶといんだなって」

世の中的な肩書きを全部手放してしまった娘氏に教えてもらった。

 

 

期間なんて決めずに好きなだけ旅をしてきて。優しいおつれあいにそう言って送り出してもらった友達は、おつれあいの仕事上の危機に際して、「あ、そうだ、もう帰ろう」と躊躇なく旅を中断して帰ることに決めた。

「自分がきつい時期にずっと支えてもらって、やっとここまで元気になったのに、彼がつらい思いをしている時に自分だけ旅してるなんて、そんなの少しも楽しくない。そんなことをすれば、この旅全部が嫌な思い出になってしまうから、予定を切り上げて帰る。ずっと行きたかったあの美術館だけは、途中下車してちょっとだけ立ち寄るけどね!」

と、友達はちょっと言い訳っぽく笑って言って、駅のホームで手を振って別れた。

 

何かに寄りかかって、不安や怖さから、人はすぐ「何としてもこうあらねば、こうせねば、続けねば」っていうモードに入ってしまう。気がつけば入っている。

でも、それは手段が目的化しているということだ。

そのたび何度でも軌道修正をする。

intentionを見失ってはいけないんだ。

 

やめたり、捨てたり、中止したり、変更したり、続けられなかったりすることは、本質に立ち返ってしっかり決断したことであれば、残念なことでも悲しいことでもないんだということを、周りの人たちに教えてもらったという気持ち。

 

結局全部なるようになって行く。力技で流れをせき止めたり、捻じ曲げてみたところで、長くは続かない。

自分が足りなかったせいで、間違っていたせいでそのようになってしまったことは、反省して、次に生かす。

その上で、あんまり自分を責めず、自分くらいは自分に優しくしてあげるの、大事だよねと思う。

 

おもえば いと疾し この年月 今こそ わかれめ いざ さらば (「仰げば尊し」作詞・作曲不詳 より)

 

 

さ、4月!