みずうみ2023

暮らしの中でふと心が動いたことについて書いています

「ブゴニア」

 

2025年・アイルランド・イギリス・カナダ・韓国・アメリカ合作/原題:Bugonia/監督:ヨルゴス・ランティモス/118分・2026年2月13日〜日本公開

ヨルゴス・ランティモスの新作は、「陰謀論」を信じ込んだある男が、「地球を救うため」に、狂気的な行動にはしる物語。

ど直球に「今っぽい」モチーフ、ベタと言ってもいいくらい。

 

しかし本作は、20年以上前に公開された「地球を守れ!」という韓国のカルト映画のリメイクである。

そちらは未見だが、ストーリー展開はほぼこの作品と同じとのこと。

SFが予見した世界の側に、実際の未来の方がまるで寄せていってるみたいに思えることってしばしば起こる。

ひとりの人間がなにかを想像するということの大きさと、一度具体的にイメージされたものの実現化に集合意識が向かうことの、面白さとそら怖ろしさを感じる。

 

ドラマチックでどこかドリーミーな美しさと、えぐるように支配と被支配の関係性を見せる作風はランティモスでしかないが、本作はアリ・アスター的ユーモアも際立っていた。

怖さやグロテスクさの中に、思わず吹き出してしまうようなすっとぼけた滑稽味が随所にあって、声を出さずに笑うのに苦労した。

あまりに不謹慎な笑いすぎるのだ、まったく人が悪い。

 

ラストの地球上全ての人間「だけ」が絶命した世界の描写が延々と続くさまが圧巻だった。

静謐で完璧に美しい絵画を見ているような、どこかうっとりするような感覚に胸が高鳴った。

マネキン人形のように転がる人間たちをよそに、動物たちや虫たちは何事もなかったかのように、彼らの生の営みをひたむきに続ける。

聞こえるのは小鳥のさえずりと、雨音だけ。

こうして人類が死に絶えたことで、地球は救われ、世界は秩序と調和を取り戻したのであった。

ふむ。

 

 

今は「ポスト・トゥルースの時代(The post-truth era)」だと言われる。

ポスト・トゥルースとは、直訳すると「脱事実」になるわけだけれど、人々が各々の信念や感情を優先するあまり、客観的事実やデータを軽視したり無視したりしてはばからない社会状況のことを指す。

多くの人々が、受け入れがたい気まずい事実よりも、自分を正しい側に、変わらなくてもいい側に置かせてくれる流言や根拠のない噂話のようなものの方をすすんで信じようとする。

だから「陰謀論」が横行する。

どこかに悪意を持った存在がいて、特定の意図を持って犯罪を計画している。

その脅威から身を守らねばならぬ、そのための排除や攻撃は正当なことだし、むしろ正義の行いなのだ。

対立を煽り、自己利益を増長させようとする、あるいは憎しみを見当はずれなものに向かわせようとする者は、耳元でささやくようにして陰謀論を吹き込む。

そのようにして、根拠のうすい、あるいは全くの出まかせのストーリーで、人の心の暗い炎に薪をくべる。

情報環境はどこまでもエコーチェンバー化し、誰もが自ら信じ込んでいるものを繰り返しなぞるようにして強化し続けている。

気づけば人と人との間には、修復不可能なほどの隔たりが存在している。

対話不可能な時代。分断の時代。

 

陰謀論は人の感情を煽りたて、人の心を洗脳的に支配するためのものなので、えてしてショックバリューの大きいものになる。

だから冷静な頭で判断して、論理飛躍していたり荒唐無稽な話は、陰謀論である可能性が高いというのが、デマを見分けるためのひとつの判断基準であった。

でも今、そんな基準など、まったく通用しない。

 

最近だけでも、エプスタイン文書とか統一教会と自民党の癒着とか、客観的事実があまりに狂ってて、現実が陰謀論みたいすぎて、その事実を受け取ろうとすると自分がまるで陰謀論者みたいに思えてくる。

しんどすぎるし、もう耳を塞ぎたい。

 

「ブゴニア」は、そんなくらくらするような、倒錯的な現実感覚を追体験するような作品だった。

なんでもない日常の描写に、常に大仰な世紀末的な音楽があてられているのは、狂気の中を生きているテディ(ジェシー・プレモンス)の精神のありようそのものだ。

「自分の働く会社のCEOミシェル(エマ・ストーン)はアンドロメダ星人で、地球を侵略しようとしている」とテディは固く信じている。

そんな荒唐無稽なことを考える自分はやっぱり狂っているのかもしれない、でもいろいろな事実を総合して考えてみると、どうしてもそうだとしか思えない。

「宇宙人なんて、そんな馬鹿げた話があるわけがないじゃないの。あなたは病気なんだと思う。かわいそうに」

ミシェルに理詰めでそう言われたテディは激昂し、暴れて暴力を振るう。

テディは惨めなくらい完全に混乱している。

この世界には拠って立てる確かなものが何もない、あまりに訳が分からない。

確かなのは、健気に蜜を運ぶミツバチだけだ。

 

ところが、結局のところミシェルは実際にアンドロメダ星人だったのだ。

実に「今」っぽい。

 

何に拠って立てばいいのかを、このところわたしも見失いかけている。

毎日地味な家事をこなして、子供を抱いて、夜には平和な絵本の世界を読み聞かせる。笑顔で働き、誰かとたわいない話をする。

日常の中に、素敵な出来事や、優しい気持ちを交わし合う瞬間はいくつもある。

でも同時に、正気の沙汰とは思えないようなニュースが毎日流れてきて、それに対する権力者たちの開いた口が塞がらないような言い草に、言葉にならない怒りと無力感があって、苦しい。

どうにか立て直していかなくちゃ、と思いながら、結局お酒ばっかり飲んでいる。