みずうみ2023

暮らしの中でふと心が動いたことについて書いています

「センチメンタル・バリュー」

 

2025年ノルウェー・フランス・デンマーク・ドイツ合作/原題:Affeksjonsverdi/監督:ヨアキム・トリアー/133分/2026年2月20日〜日本公開

久々にこれほど見応えのある重厚な人間ドラマを見た、本当にすごい作品だった。

しびれるような充足感と切なさを残す後味があんまりすばらしすぎて、見終えた時、言葉がなかった。

昨日はずっとどこか上の空だった。

 

 

世代を超えて引き継がれていく人の業や歪み。

それでも、加害と被害という関係性を超えて、人と人とがその人がどうしてその人であるのかについての納得性を見出すことができる、それは希望に似ている。

でも同時に、けして癒されることのない絶望を認めることでもある。

 

人として歳とともに成熟できる人と、何かが欠けたままの人とは何が違うんだろう。

きっと欠けた人とは、世界を信じられないから、たのみになるものが自分だけで、自分という人格だけで世界に対峙している。

だから、視野が狭いし、防御的であり攻撃的である。

欠けた人は、今見えている表層における正義だけを手がかりに言動する。

「今」と「自分」しかないからこそ、激昂したり、絶交したり、恍惚したりできるのだ。

成熟している人とは、その人の中に歴史が入っている。

自分が、「自分そのもの」だけではなくって、今の自分を形作っているものがいっぱい合わさってその人になっている。

自分そのものの他に、その人を支えてくれる心強い「サポーター」がその人の中に存在する。

成熟している人は、自分の中にあるチームを総動員して、ものごとに対峙する。

一見煮え切らないように見えたり、事なかれ主義に見えるかもしれないけれど、そうではない。

多様な視点と文脈を持っているということだ。

 

欠けた人は、生々しく血が流れる傷を抱えて苦しんでいて、成熟している人は、一定の調和の中にある。

欠けた人は、未熟なのではなくて、その苦しみが癒されない限り、あるパターンから抜け出すことができない。

成熟している人は、本人の努力というよりは、より恵まれた条件を持っていた人と言えるかもしれない。

欠けた人を救うために有効な手立ての一つは、家族と社会の歴史に向き合うこと。

人は、過去に自分が受けた被害を認め、そのことに対して正当に怒り、嘆き悲しむプロセスがを経てはじめて、自らの加害性や暴力性に思い至ることができる。

 

才能があるとか、社会的に重要な存在だからという理由で、何かを免責されたり、他者を粗雑に扱ってもいいというのは思い違いだ。

才能は良くも悪くも副産物であり、才能に人生を捧げる必要なんか本来はない。

それは本当は倒錯的なことだ。

でも、お金や名声が多くの人に勘違いをさせてしまう。

実際のところ、誰しもそのようにしか生きられなくてそう生きている。

人には上も下もない。

 

いろいろな複雑な文脈だったり、取り返しのつかない時間だったり、生まれながらの不公平な所与の条件だったりが渾然一体となった人間の世界に私たちは生きていて、いろんな素敵なことや残酷なこと、楽しいことや悲しいことにまみれている。

コントロールできないことも多い中で、私たちに確実にできる役に立つこととは、多分、他者に優しくするということ。

それが人間を生きるということの値打ちなのかもしれない。

だから、生きているといろんなことがあるけれども、人は、歯を食いしばってでも、できるだけ他者に優しくあらねばならないんだと思う。

 

 

とりとめのない言葉の断片のほんの一部分を、湧き上がるまま、まとまらないままに置いておく。

言葉にならないものをただ抱えていたい。

作家の誠実さと作品の美しさにただ感謝したい。