みずうみ2023

暮らしの中で出会った言葉や考えの記録

Never Too Late

さて、ここからが今書き残しておきたい考え。

 

普通の道理で考えて、仕事であれプライベートであれ、良い気を発している場所に自分の身を置いて、互いに親切で善くあろうとする人たちとの関わりを深めていけば、自分の人生は良い影響を受け、上向く。

逆に、悪い気を発している場所で、ケチで不親切な人たちと我慢して一緒にいたなら、自分の性格や人生の質に悪影響を及ぼす。

自明のことであろうと思う。

だから人は、できるだけ健やかな場に身を置き、互いに良い影響を与え合える人と共にあるべきである。

当然、世の中の大多数のまともな人々は、そのようにして自分の人生をデザインしていくのだろうと思う。

 

でも私はこれまで、なかなかその当然なことをできないできた。

そこが自分にとって良い影響、良い機会を与えてくれるような場所だと察知した途端、なぜかそこから全力ダッシュで逃げ出すか自ら壊しにかかる残念な人生を送ってきた。

良い場所であればあるほど、良い人たちであればあるほど、無性に居心地が悪くてたまらなくなって、そそくさと去るか、場を白けさせるようなことを口走ったりひどい時にはちゃぶ台ばーんとひっくり返すような(比喩的な意味で)ことをやらかすかしてしまう。半ば衝動的に。

それで、そこにいる人たちにぽかーんと呆れられて、気まずく一人ぽつねんとしょぼくれて帰る。

 

そういうことは、これまでの人生の折々であった。

そのたび自分の目の前に開かれていた善きものは、ほとんど全て無に帰した。

改めて書いてみると、自分でもほとほと意味不明だと思う。

 

で、

なんで自分がそうなのかについて、複数の人が集まっている状態、群れている状態に反射的に恐怖を感じてしまうことや、そしていかにも善良な場/人に対しては勝手に胡散臭く、疑わしく思ってしまい、何とか偽善性みたいなものを引っ張り出したくなってしまう心の動きがある、そんな偏屈でひねくれた人間だからだろうと考えてきた。

自分は性格が悪いのだし、なぜか湧き起こるその衝動に抗うのは自分には無理っぽい。長年そう思って諦めてきた。

 

だからこそ、集団には基本近寄らないし、ほとんど属さない人生になった。

友達ともグループではなく、1対1で会うことがほとんど。

きわめて個人的でスケールの小さい人生にすることで私は多分心の平和を保ってきた。

 

しかし、最近あるラジオを聞いていて、どうも思い違いがあったかもしれない、と思い始めている。

それを気付かせてくれたのは「となりの雑談」というポッドキャスト番組の、サクちゃん(桜林直子さん)。

もちろん私とは全然違う人なのだけど、生い立ちなどにかなり似た点があり、それゆえ人間のこじらせ方にも共通したものを勝手に感じている。

彼女は私と違って、自分の認知や行動/思考パターンや歪みをとことん考え抜いて、泥沼から這い上がった人である。

そして、今に至った過程や、その中で得た学びに基づく工夫や対策を、ラジオの雑談の中でシェアしてくれている。

それが最近の自分には結構な学びになっている。

 

なかでも「土グループ」関連の話は分かりみが強すぎた。

自分の破壊衝動とは、間違いなく「土」に繋がってるっぽい、トホホ・・・と、うなだれながらも興味深く聴いている。

 

幸い、個人対個人の付き合いにおいては、自分を損なう相手には関わらないよう、時間をかけて自分を変えてこられたと思う。

夫氏はこのことに対する最大の恩人だと思う。

どうせ一人だ、もう一人でいいや、って思ったこともある。

また、ある時期から嫌な人との約束を意地でも忘れてしまう体になったので、約束をするときはあらかじめ不義理をせぬよう、自分の心にようく問いかけなくてはならなくなった。

私はすぐ自分を粗末にしたり裏切ったりするので、身体が問答無用に自分にとって良くない相手や物事を拒否してくれるようになったのだと思う。私を死なせないために。

 

でも、問題は集団やグループになった時で、私はいまだに複数人の場では途端に浮き足立って、自分を粗末に扱ってしまう傾向がある。

他人の顔色を伺うのがデフォルトで、世界に自分を合わせないと悪いことが起こるという、幼少期からの世界観に突き動かされてしまう。

その結果、「嫌な奴対応、顔色伺い」をその場の全員に対してサービス精神旺盛にせっせとやることになる。

誰にも頼まれていないのに。

 

幼少期の環境と違って、気持ちの良い人、親切で謙虚な人は世界にいっぱいいる。

第一、何気なく質問したことを罵倒で返されたり、出し抜けに暴力を振るわれたり、機嫌の乱高下にいつも怯えなくてはならないような身近な大人たちに依存しなければ生きられない状況ではもうない。

若い女」でもない。

 

それでも私はいまだについつい、相手を持ち上げてへりくだってみたり、失礼なことを言われても笑ってへらへらしたり、自分の弱さをチラつかせたり、過剰に同調したり、テンション高く明るく振舞ったり、欲しくもないものを欲しいと言ったりしてしまう。

「そのようにする方が人は喜ぶ」っていう勘違いがいまだに抜け切らない。

 

ところがそんな対応が功を奏すのはやな奴だけで、相手がまともな人の場合、空回りか微妙な空気にしかならない。

何なら相手にとっては失敬な態度にさえなる。

 

こんなに頑張っているのに相手の対応は芳しくない、どうも嬉しそうではない。

私は緊張してめいっぱい相手に合わせようとして、無駄に疲れているので、だんだん理不尽で腹立たしい気持ちになっていく。

変な浮き方をして、惨めでぐったり疲れて、こういう良い場所、良い人たちの中では、いつも自分一人が心根の悪い、場違いな存在なんだ、どんだけ合わせてもばれてるしどうせ無理なんだってなる。

その結果、あーもう帰りたい、ってなるし、寛容な人たちの不寛容な側面を無理やり引き摺り出すようなことをして「ほらねやっぱり表面だけだった」みたいなことをやる。

そうやって自分のネガティブ思想の証明をして「やっぱり」って思っている。

 

幼少期を生き抜くために適応してきたことが、その後の人生で自らの社会不適応を招いているという、まことに残念すぎることが、自分には起こり続けてきたのかも、しれない。

サクちゃんの話を聞きながら、そんな風にしんみり考えているこの頃である。

 

 

で!!その負のループから抜け出すには、当然これまでのやり方をただ止めればいいのである。

「世界に自分を必死に合わせること」や「嫌な奴対応」をただ止める。

でも、それしか知らずに生きてきて、それが基本の対人コミュニケーションになっているので、自ら選んでやっている自覚もない。

だから「私ってなぜかそうしちゃうんです、そういう人間なんです」って思っている。

そこで必要なのは、そんなこと止めていいんだよ、と自分に許可を出すことなんだ、とサクちゃんは言った。

ああ本当にその通りだと思う。

止めていいんだよオレ。てか、誰にも頼まれてないし!

 

 

あの山の家の素晴らしい集まりで、私は順調に居心地が悪くなって、ここにいる素敵な人たちの中で自分ひとりが腹黒人間だね、と例によって思ったが、「いや待て」ってサクちゃんのおかげでなった。

それでふんばってなんとか逃げずにやってみた。

それでも自分ひとりが浮いている感からはなかなか逃れられないんだけど、

「思い込んで空回りして、自ら嫌な奴を引き寄せる人生みたいになっている。そんなのはごめんだ。普通に気持ちの良い人たちと一緒に気持ちの良い時間を過ごしたい。私はもう、進んで嫌な奴対応をしない」

という考えを自分の中で言語化することができたので、多分これからもギクシャクはありながらも、ちょっとずつ上向いていけるような気がしている。

そのことが、自分にとってはとりわけ嬉しかったことだった。

 

また、昨日は場を主宰する方の人徳によって、互いを大事にする態度が場に行き渡っていたので、私も大事にされ、いつもは外側にばかり向いていた心のベクトルを自分の内側に向けることができた。

そうすると、不思議なくらい落ち着いた心持ちになれることに気が付いた。

 

つまり、キョロキョロと周囲に気を配って、空気を読んで適切に対応しようとする態度が、心のベクトルが外側に向いているということで、

自分がどうしたいのか、どうありたいのかを問い、そのことを目の前の相手に素直に表現する自己開示的な態度が心のベクトルが内側に向いているということだと思う。

どちらが人としてリラックスした、好ましい態度かということは明らかだ。

 

「気を遣う」って、一見偉いし大変なことみたいなんだけど、すごく防御的で閉じた態度ともいえると思う。世界を怖がっているし、信頼していないのだ。

自分の側に心のベクトルを向けると、落ち着いて心に余白が生まれるので、相手に対して想像力をはたらかせることができる。

それが「配慮的である」ということなんだと思う。

 

 

そんなよもやま話を家で家族に話しつつ、この年になって気付いたところで遅すぎるよね、と言うと、夫氏がいやいや、人生ネバートゥーレイトよ、と励ましてくれた。

 

自分がハッピーであれるように生きて行動するなんて当たり前のことだろ、と「普通の人」は思うだろう。

でも、例えば私のように、「自分で自分を幸せに向かわせないような行動様式を生きていく中で身につけてしまっているパターン」みたいなことは、大なり小なり、いろんなバリエーションで人間にはいくらもあることだと思う。

だから、気の持ちようとか根性論でなかなか解決できるようなことではなくって、自分研究によって、偏った認知や思い込みを自覚したり、自分の深い部分の傷つきを言語化して癒したりするというプロセスが不可欠になってくる。

そこを経てやっと、自分が自分を幸せにしてあげられる素地が整う。

いつまでも地上に出られない「土グループ」の人々は、そこからやっと、太陽に向かってすくすく葉っぱを広げて伸びていけるようになる。

 

ボタンを掛け違えたような人生って世の中でたくさん見聞きする。

自分の周囲にも、既婚者としか恋愛できない人や、自分にとって過酷で意地悪な対応をする人を優しく親切に教えてくれる人よりも「ためになる」と思って選んでしまう人や、自分の首が締まるような厳しさや正しさを他者に要求してしまう人や、親も夫もDVみたいな人がいる。

というか私は基本、全ての人が多かれ少なかれ、それぞれの地獄を抱えて生きているものだと思っている。

世界観が暗すぎるのかもしれないけれど。

でもその世界観だと、誰かだけが不当に恵まれているとはあんまり思わないので、他者を妬むことは少ない。

 

そうした人それぞれの如何ともしがたい地獄を、今の世の中は全部本人の責任として切り捨てる。

安全な正しい場所から、そこがあなたのダメなとこって指摘したり批判したりするのは、誰にでもできる容易いことだ。

でも「そうですよね、私ってどうせそうなんです、すいません」ってなって、ミリの足しにもならないのは、私の例が示す通りだ。

 

今、分断や差別やヘイトが社会で加速している中、「価値観の合わない他者とどう共存していくか」についての考えを、日々見聞きする。

もちろん簡単な答えはどこにもない。

ただ、今言えることは、

自分が安心して一定満たされておれば、積極的に差別や抑圧をしたり、自由を奪ったり、ヘイトしたくは、人は多分ならないだろうな、ということだ。

だからまず、

今の社会の世知辛さをどうにかするために、一人ひとりができることとは、各々が自分の幸せに責任を持つということなんだろうと思う。

 

ぐらぐらしながらも、そのスタート地点にやっと立っていると感じる。

何かあるとかっとして忘れることもあるだろう。

気がつけばまた負のループに、ってこともあると思う。

でもそのたび何度でも気付いて思い直してやっていくしかないという思い。

 

さ、そろそろ友達を迎えに駅に行こう。