昨日の午後、妹から電話。
出先で夕方までかけ直せなかったので、夕飯の下ごしらえをしながらイヤフォンでうだうだと喋る。
毎年メンタルがぐらぐらと不安定になる春の日々、今年はとりわけ気の重いやりとりなんかもある中で、妹と喋ると、明らかに少し元気に、話した分だけパワーが充電された状態になっている。
別に明るい話ばかりではなくって、むかついたことや落ち込むことなんかもお互い率直に話すのだけど、不思議なことにいつでも明るさが消えない。
人と人には相性というものがあって、自分ではコントロールしきれない化学反応というものがあるなとつくづく思う。
できるだけ和やかに機嫌良く、と思って努力をしても、どうにもうまく転ばない、どうしても会話がおかしな方向に行っちゃう、みたいな時は、残念でせつなく思う。
昔は自分の性格が悪いせいだと自分を責めたものだけど、もちろん私は性格けして良くはないんだが、やはり「私」とは一貫性のあるものではなく、相手との関係性によって「私」の像はちょっとずつ変わってくる。
だから、私が私であることの全部が私のせいではないんだ、と今はだいぶ思えるようになった。
「あれー!?なんであんなややこしい私になっちゃったんだろ」と後で振り返って考えると、相手に表面上にこやかに接されていても、心の中では嫌われていたり、見下されていたりすることに自分がどこか気付いていたことにはたと思い当たったりする。
そっか、私はそのことに傷ついてぐあーっともがいて、それであんな変な荒れ方やおかしなアウトプットが出てきていたんだ、みたいな。
そういうことは私はわりとある。
逆に、嫌なやり取りになってしまった時、そんな相手のリアクションのうちの何割かは自分が引き出してしまったものなのだろうと反省する。
コミュニケーションとは、表面的なマナーや表情、言葉だけではなくって、実は言語化できないような部分の情報量の方がずっと大きく影響していると思う。
身体的な、オーラ的な部分を互いに感じ合い、受け取り合っている。
どんな間柄であれ、そこをごまかせると思ったら、大間違いなんだろう。
自分も、大人然としてうまいこと取り繕えてるように思ってても、普通にばればれなんだよな。
だから、一周回って正直で思惑のないのが一番だなと思うし、どうやっても嫌な、変な自分になっちゃうな、と思う人がいたら、なるべく近づかないのが平和。
変に無理して合わせてみても、無駄な努力なんだと思う。
妹とは、全然性格は違うが相性がいい。
どんなむかつくとか、暗い内容の話をしていても、全然ネガティブを悪いことみたいな捉え方されることもないし、「不平不満を言い出したらキリがないし、感謝しなくちゃ」とかうざいことを言ってとがめたりもしてこないし、もちろんこっちもしない。
大体いつも結局、ぎゃははは、と笑って終わっている気がする。
思ったことをそのままにさっぱり語ることの方が、変に無理していい人みたいな、ポジティブ風味に語ろうとするよりもよほど健康的なことだと私は思っている。
ただし、陰口っぽいことは一切ない。要は、印象操作的な要素が全くない。
良いこともそうでないことも、あることは単にある。それだけ。
思っていることと違うことを喋っている人のちぐはぐ感って怖い。
「こうあらねば」と頑張って無理してて、そのことがしんどいから、どこか怒りのムードを抱えていることが感じられるから。
思っていることをそのまんま喋って、それで全然嫌な気持ちにならずに笑い合っていられるのはつくづく幸せなことだねと思う。