昨日は、とある山の上にある家で催されていた私的な集まりに参加していた。
私の性分をよく知っている友達のおかげ。
まずはだいぶ前に誘われて、私は例によって「いいねいいねー」と安請け合いをしていて、でも、その後もポイントポイントでリマインドしてくれるわけである。
友達は、最終的に前夜にも連絡をくれたので、いつもの「いやーなんだかんだでやっぱり行かなかったわー」という私の悪い癖はついに封じられる。
「多分彼女に必要だし、そこにいる人たちとの出会いも含めてきっと助けになるだろう。でもあやつはなんだかんだで機会を逃す可能性が高い」ということが長年の付き合いで分かった上で、継続的に気にかけ、声をかけてくれる。
誰かに対してそんな細やかなことができる人がいるってことに、そしてその対象が自分に向けられていることに、感謝しかないし、とても同じだけのものを返せないという思いに身が縮んでしまう。
昨夜「今日は良い時間だったね〜」と言い合うラインの中で、「あなたが自分の才能を生かして幸せそうにある姿を見られてただただ私も嬉しい。あなたが自分に心底向いた、自分に合ったことに心を決めて取り組む人生に入ったことを心から祝福するし、見習いたい」といった内容のことをせめても伝えた。
そこは急な坂の上にある、さらに参道のように長い階段を登りきった山の上にある古い一軒家である。
昨日はひどく蒸し暑かったのに、不思議なくらいに風が抜けて涼しく、辺りが一望できて、広々とした気持ちになる。
いろんな鳥が盛んにさえずっているので、家の中にいても森の中にいるみたいだ。
そこに若い人から初老までの女の人たちが、朝から夕方までゆるゆるにぎにぎと集って、それぞれがいろんな特技や才能(セラピー的なこと、食べ物、手仕事のワークショップなど)を生かしたできることをしている。
スピリチュアル寄りな場ではあるがマニアックさはなく、帰りがけに玄関に置かれたありがとうボックスに自分なりのドネーションを入れる。
外側からみればワークショップ的なことと言えるのかもしれないが、そこで行われていたこととは、何の制約もなく集った女たちが、それぞれにできることを与え合いながら、互いを癒しあうことだったと思う。
そこで出会った誰かのプランや思いを聞いたり、ただ雑談をしたりしていることも、地味だが豊かで。
日々の暮らしの中では、なかなか得られない感触だった。
つまりそれは、「自分が誰かに大事に扱われている」という感覚。
他意なく、呑気に、何の大げささも変なテンションの高さもなく、ただのその人として大事に、親切に扱われる。
それだけのことが、今は本当に貴重なことになってしまっている。
今の世の中では、一歩外に出るとお金とか、しがらみとか、人脈とか、フォロワー数とか、ポイントとかクーポンとか、映えとか。
そういう損得勘定にあらゆる人間関係があっという間に絡め取られていく。
誰かに自分が付き合う価値のある人/ない人と一瞬のうちに査定されたという感覚を味わったことのある人は多いと思う。
SNSの影響もあると思う。当人たちの性質や意思に関わらず、どこか「この人は使えるか、使えないか」という打算が勝手にちらつくようなところがある。
メリットがあるから親切にしてもらえるのかなーと勝手に寂しく思ったりもする。
そんな傷つきを抱えて人間にすっかりうんざりして、もう一人が気楽でいいや、ってなる人も多そうだ。
自分はそんなこと考えもせずにただぼへーっと無防備に目の前に立ってるだけでも、相手に勝手に値踏みされた上で「非VIP箱」にさっと入れられてしまうことがある。わりと瞬殺で。
何か言葉で宣言されたわけでもなくても、どうしてか分かってしまうものなんだよな、悲しいことに。
そもそも私を選んでとも言ってないのですが、勝手にハイ、あなたはどうでもいい人枠、とかって。ぐぬー!
別に好きでもない人に「あなたとは付き合えない、ごめんね」と言われるような不本意感と一抹の寂しさ感ある。
山の家では私はほとんど何も尋ねられなかった。
値踏みをされなかった。
ここではただ良きものを分かち合う。
その思いだけが言葉もなく共有されていたと思う。
そしてみんな施術を受けて髪がぼさぼさになってたり、オイルでてかってたりして、気取りもない。
不思議で優しい場所だったな。
つづく