みずうみ2023

暮らしの中で出会った言葉や考えの記録

〈主婦〉の学校

ポスター画像

2020年アイスランド/原題:The School of Housewives/監督:ステファニア・トルス/78分

 

人によって色々だろうが、少なくとも私は「主婦」という言葉に、あまりポジティブな響きを感じられない。

「平凡な」「しがない」「一介の」といった、リスペクトに欠ける枕詞と共によく語られるからかな。

主婦は、経済的に配偶者に依存しており、イコール人としても自立していない、お気楽な存在、そう今の社会からは見なされる向きがある。

 

もっとも、家庭をもつ女性たちもめいっぱい賃金労働しなくては生活が立ちゆかないほど社会全体が貧しくなって、同時に少子高齢化が進んで育児や介護の負担の大きさが叫ばれるようになって、だいぶ意識が変わってきたとは思う。

一部の家事が「ケア労働」と称されるようにもなった。

これまで当たり前のように家仕事のほぼ全てを女性に押し付けてきた男性たちも、徐々に自分も担わざるを得なくなった。

夫氏も、家事を継続的に担うことを自分で経験して、急に大変大変って文句たらたらだが、私は、女たちは、ずーーーーーっとやってきたことだ。何を今更、と思わず思う。

でも、私が長年やってきたことは「当たり前」のことみたいだ。そこをスルーしていることが、私の尊厳を傷つけているということには全然気が付いていないみたいだ。

ある種の男性は悪気なく、自分がやったらそんだけ大変な家事も育児も、「女だから」という理由でわりに苦もなくできるとか思ってるっぽい。

素朴に不思議。だって同じ人間なのに。

 

今も基本的に主婦の仕事は、社会的には「仕事」とは見なされず、ゼロカウントされている。

家事は、人が《普通に》暮らす中で、半自動的にこなしていくべき当たり前のこととされている。

それを前提に社会システムは回っている。

賃金労働の方が価値が高い、家事は生産性がない面倒な雑事なので、合理化してできるだけゼロに近づけるのが賢いという思想。

それがこの国のかつての経済成長を下支えもしたのだろうが、それによってより精神的には貧しくなり、手放した豊かさもあると思う。

 

「百姓」という言葉が、かつて侮蔑的な言葉として使われ、一度は死語になり、その後「生活のあらゆる営みをこなす、百の仕事をする人」として今見直されているように、「主婦」という仕事も、見直されるだけの値打ちがあると感じる。

この映画を見て、その思いを強くした。

 

賃金労働をして、お金を稼いだり使ったりして、経済をぐるぐる回すことが社会に貢献することみたいな考えに、もはや全然魅力を感じない。

今は、基本的に時給労働は不毛と思う。何十年も労働条件が改善されない上に、消費も含めると働いて稼いだ分の半分が税として吸い上げられてしまい、それが私たちの暮らしには還元されていないのだから。

でも、「働き盛り」である以上、この資本主義のゲームには皆参加すべきだ、と多くの人が信じているように見える。

「人生フルーツ」を見た時に感慨深く思ったのは、暮らしに関わる働きが、これほど奥深く豊かで多岐に渡るのだという新鮮な感動と、それでもこの国では、これだけのおじいちゃん、おばあちゃんになってようやっと、暮らすために生きることが許されるのだ、ということだった。

 

私たちは、キャンプみたいな趣味的な方向のことには凝って熱をあげるけれども、日々の地味な暮らしは取るに足らないものと軽んじ、できるだけ省略しようと日々頭をひねっている。

けれど、それって本当に豊かな人生と言えるのだろうか?

 

アイスランドレイキャビクにある家政学校。

1年かけて四季に即したあらゆる家仕事、手仕事をじっくりと学んでいく。

そこにはアイスランドの伝統的な料理や編み物や機織りや刺繍といった、文化の継承も多く含まれている。

来客の迎え方、テーブルセッティングの仕方など、堅苦しいマナーではなく、地域社会の一員としてスムースに暮らすのに役立つ知識も得られる。

修繕の技術などを学ぶ中で、節約や環境に対する意識も育まれる。

生徒たちが教わっている家事の技術をこうして外側から眺めていると、不可欠な大事なことである以上に、クリエイティブな面白みがあって、わくわくする。じっくり腰を据えて取り組む姿はいかにも楽しそうだ。

完璧を目指す、こうでないと失格、みたいな無駄な厳しさや競争的なことや、ましてや花嫁学校的なことではなくて、目指すのは、雑にせず、大事に心を込めて生活をひとつひとつやっていくということの心地よさ。

しんと静かで、手入れが行き届いて清潔で、焦らずゆっくり専念する。

豊かさとは、お金やものがいっぱいあることではなく「大事に、平和に生きている」という時間を過ごせていること。

 

少ないが、男性の在学者もいる。

アイスランド環境大臣もここの卒業生。

自分で料理をし、自分の着るものを直したりこしらえたりできる生活の技術を持った人が、環境問題のリーダーであることは、本来的なことだと思う。

逆に、何の大臣であれ、妻に何もかもやらせて、自分の身の回りのことが自分でできないし、暮らしのことを何も知らない、仕事のことだけ考えておればいい、というような人が、果たしてまともな仕事をできるものだろうか。

 

毎日の暮らしに向き合い、身の回りを心地よく整え、生きるのに必要なものをこしらえ、壊れたら直し、無駄に買ったり捨てたりしないでやっていく。

もちろん、生きるのにお金は必要。それも少なくないお金が。

だから誰もがその狭間で悩み、苦しむ。

でも、少なくとも、家事労働が賃金労働よりも価値の低い、生産性のないことだというのは、思い違いだとこの映画は教えてくれている。

これからも、そこははき違えないようにしていきたい。