みずうみ2023

暮らしの中で出会った言葉や考えの記録

「ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい」

ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい | あらすじ・内容・スタッフ・キャスト・作品・上映情報 - 映画ナタリー

2023年/監督:金子由里奈/109分/2023年4月14日〜公開

 

前置きが長くなってしまったけど(前記事)、この作品、とても良くてびっくりした。

素朴で拙さのある表現が味、というタイプの作品なのかな、とちょっと思って見たのだけど、全然。

むしろ手練れているというか、相当映画制作についてよく知っている人なのだろうと感じた。

くどくどしくなく、最小限の要素で必要なことが全部分かる洗練性がある。

この作品の持つ間も、ムードも、とても好き。音楽も良かったなあ!

これからもどんどん作ってほしい、また楽しみな監督が増えて嬉しい。

 

何しろ冒頭のタイトルバックの時点で、もうはっとさせられるのだ。

ああ、ここにはひとつもとげがない、とげがないということは、なんて安らぐことなんだろう、と。

この作品を見ていると、自分はいかに暴力的な、残酷性のある社会に生きているのかを意識せずにはいられない。

そのことに耐えるために、自分もとげを持って他人と刺し違えてみたり、鈍感になって何も気付かない、気にしないふりをしてみたり、目や耳を塞いで閉じこもってみたりしている。

この映画に出てくるような、まだ社会に出る前の若者ではとうにない、何十年も生きている自分がやっぱり傷つきや怖さを抱えていて、強くあらねばと自分を奮い立たせて、そのことにやるせなさや惨めさや疲れを感じている。

そして、そういった感情丸ごとを、日頃自分が否認して生きているということにも、気付かずにはいられなかった。

 

やむにやまれず弱いことは、なにも罪じゃないし、怠慢でもずるでも甘えでもないよ。

てか、弱さは克服しないとだめな人生って、それ、誰が決めたの?

あなたがあなたのように感じて、あなたなりに懸命に生きていることを、そのまんま肯定していい。

誰にもあなたの存在をジャッジさせてはいけないよ。

映画を見ている間じゅう、優しく背中をさすられるみたいにそう言われている気がしていた。

 

この作品に登場する人は皆、おずおずとしゃべる。

淀みなくスラスラしゃべる人はほぼ出てこない。

沈黙したり、言葉に詰まったり、適切な表現が思いつかなかったりという、しゃべるのが下手な人たち。

演出が素晴らしいためあざとさが全然ないということも手伝って、全員がこんなにおどおど、つっかえつっかえしゃべっているのに、たまらなく好ましい。

しゃべるのが下手なのは、無能だったり、鈍かったり、馬鹿だということではない。全然ない。

むしろ逆で、相手の気持ちや立場を想像したり、土足で踏み込まないように注意したり、相手を傷つけたり萎縮させないように気をつけたりしていると、どうしたって言い淀むし、迷いながら、どこかびくつきながらしゃべることになるし、スピードもゆっくりになる。

相手が傷つくことで自分も同じように傷ついてしまうほどに繊細で、優しい人だからこそ、そうなる。

他人に負担をかけたくないあまり、人でなくぬいぐるみに吐露するような思慮深すぎる人たち。

 

入学当初には明るかった麦戸ちゃんが、だんだん大学に来られなくなって、引きこもってしまう。

その理由を、随分時間が経った後、麦戸ちゃんが絞り出すように「電車の中で痴漢をされている人を見てしまい、でも怖くて何もできなかったから」だと七森に語ったシーンには胸を衝かれた。

自分が性犯罪の被害に遭った訳でもない、ただ見かけただけで、そんな風にショックを受けてしまうなんて。そんな弱いことでは、この世界はとても渡っていけないよ。

それが「世間」のリアクションなんだろうと思う。

Q&Aで監督を泣かせたり、笑ったりしていた人々は、まさにそのように感じたからああいうことを言ったのだろう。

この映画が問題提起している鈍感さの加害性を体現したようなやり取りが、まさに映画の上映後に起こっていたということのあまりの皮肉を思う。

 

麦戸ちゃんは、矛盾や葛藤に満ちたこの残酷でアンフェアな世界で、余計なものを見まいとし、自分には関係ない世界のことだと切り離すことで、なんとか不安や怖さをこらえて生きてきた。

それが、通学途中の電車の中で、目の前で淫らで下品極まりない行為に理不尽に汚される人がいて、そのことを周囲も気付かないか見て見ぬ振りをし、自分も声をあげることも体を動かすこともできず、ただ見ているしかなかった。

これが自分の日常の真実であり、自分は暴力や間違ったことが正しく罰されることのない恐ろしい世界に生きているのだ、ということを突きつけられ、これまでなんとか持ちこたえていた世界がガラガラと崩れた。

しかもそのことをまっすぐ怖がって悲しむことも許されない、「それくらいのこと」と笑い話にしなければならない空気がある。

なんて弱い者に残酷な世界なんだろう、怖すぎて、もう消えてしまいたくなる。

 

麦戸ちゃんの苦しみや恐怖に丁寧に寄り添って描かれていて、心から共感した。

そして、やはりある暴力や間違った行いについて、社会がその重大さの程度を勝手に認定し、個人が感じるままに感じることを抑圧しているという構造がこの社会には確かにある、多数派や強者に都合の良い価値観を全員に押し付けているということが確かにある、ということに真正面から気付かされた。

私が私の思ったまま等身大に感じるということを、自分に禁じて、茶化したり、なかったこととして忘れようとしたりしてきた幾つもの古い記憶が浮かび上がってきた。

そのようにして押さえつけられ、ねじ曲げられた物事は、何十年経ってもひとりでに癒されることはないのだと知った。

 

ほんとうは、この映画に出てくる一人ひとりのように、全ての人がそれぞれの苦しみや辛さや怖さを抱えている。

あのゲスな発言をした人や映画をせせら笑った人たちさえ、怖さや悲しみや不安を抱えている。

だって世界は暴力的な場所なのだし、誰もが加害者や被害者になるし、私たち全員死を免れないのだから。

 

それは、絶望的で厳然とした事実なのだけど、その辛さは確かにある、お互い弱くて辛いよね、と認めた先の世界の小さな希望の光を、この映画は見せてくれたと思う。

弱さを集めたら、優しさが生まれる。

太くて硬い枝はぼきりと折れるけど、芯がしっかりしていれば弱くて柔らかな枝はどこまでもしなって、なかなか折れない。

そういうイメージ。

そんなのきれいごとと言う人もあるかもしれない。

でも、それは彼らにとっての生存戦略だから、彼らは切実に互いに優しく配慮的であることを求めて、真剣に実践している。

そのようにありたいと願う人の、願いを踏みにじったり、否定する権利など誰にもない。

 

私も、できるだけお互いが優しく配慮的である世界のほうが心地いいなと思う。

競争とか、物欲とかを煽る弱肉強食な世界よりも全然いい。

ほんとうは、全員が別々の背景を持つ、いろんな事情を抱え、でこぼこを持っている。

そのことをないこととみなしてきたが、あるものはあるのだ。

 

とはいえ、どれだけ気を付けても傷つけるし、間違うことは避けられない。

その都度謝り、学び、まずはそのままを肯定することを心がけるくらいしかないなとは思うが、日々できるだけ雑にならんよう、親切心を保っていきたい。

 

すごくいろんなことを教えてくれる映画だからこそ、大人としての責任も感じてしんどかった。

この映画の若者たちの感覚、しんどさや絶望の裏側に、生まれてからずっと経済が下り坂で、格差が広がる一方の今の日本社会の姿が見え隠れする。

嘘つきや声の大きい人が弱い人を押しのけて威張り散らし、屁理屈をこねたりずるをしたり、非倫理的な行いを堂々としている。

今だけのお金儲けのために、適当なことを言って環境を壊したり、人の命を軽んじたりしている強欲な大人たちは、自分のことだけで未来のことなんて何も考えていないことは、ばればれ。

そんな人たちがしたり顔で若者に説教したりしている。

そういう世界に、若者は希望を見失い、傷ついている、もちろん。

彼らの佇まいや処世術は、今の社会の産物でもある。

そういう観点からも、なかなか余人をもって代えがたい、すぐれて同時代的な作品だと思う。