
ヨルゴス・ランティモスらしい異様さや不条理、気まずいユーモアに満ちた作品。
ただ、難解なのかと言われたら、そうではないと私は思う。
誰にでも気軽に勧められる作品ではないし、人によってはすごく嫌いかもなあとも思うけど。
作品は邦題の通り、三章で構成されている。
どの物語も、奇天烈で過剰な人々が織りなすグロテスクさと滑稽さの合わせ技みたいな物語。
各エピソードを、同じ役者たちが全く違った人物を演じるという趣向が面白い。
出てくるキャラクターたちが、あらゆる人間のひな形のように感じられた。
どの人物も筋立ても、いかにも極端で狂っている。
でも、物語はひどく誇張されているだけで、人物の心性や物語の中で起こることそれ自体は、実は案外馴染み深いものだったりする。
要するに、私たちの日常ではものごとはここまで濃縮されてはいないまでも、言ってることややってることは本質的には大して変わらないのだと言える。
そう了解してみると、一見不可解でシュールなこの作品に作り手が何を意図したのかがわりとクリアに見えてくる感覚がある。
上司と部下、夫と妻といった、人間世界にありふれている人と人との関係性を、私たちはごく当たり前のものとして受け止めている。
よくある関係性だからこそ、紋切り型の価値観に沿って理解し、ある程度分かったつもりになっている。
でも本当は、一見平凡に思える関係性には、怖いものが含まれている。
あえてまともには目を合わせないようにしているけれど、じっと覗き込むと、そこには人間の底知れなさの深淵が黒黒と広がっている。
ランティモスは、3つの極端にデフォルメされた物語を通して、私たちが普段何気なく取り込まれている、「支配/被支配下にある誰かとの関係性」その中にある力学を明らかにしようとしているように思える。
一話目は雇い雇われる関係性。二話目は、夫婦のパートナーシップ。三話目はカリスマと信者。
どこにでもあるこれらの関係性は愛の名の下に、程度の差こそあれ人を狂わせるものだ。
覗き穴から無防備な人間をじっと盗み見るような視点のカメラは、これまでのランティモス作品の特徴のひとつ。
彼の作品は、常に人間を食い入るように観察する。
本作では引きとクローズアップの画を交互に見せていく。
拡大したり、俯瞰したりしながら、ためつすがめつ人間をクールに無慈悲に観察する。
その視線は、確かに心温まるものとは言い難い。
でも、世の中を斜に構えて冷笑しているとも思わない。
人間をありていに描こうとすれば、時にペシミスティックにもグロテスクにもなる。
人間がそもそも「そういうもの」である以上。
ランティモスの視線は良くも悪くもあまりに正直なのだと思う。
デヴィッド・リンチのドキュメンタリー(「デヴィッド・リンチ:アートライフ」)の中で、心に残っているエピソードがある。
リンチが20代前半の頃、彼の創作ラボを父親が訪れた際に、彼は解剖したカエルを興味深く素晴らしいものとして父親に見せ、意気揚々と説明をした。
父親はドン引きした。
息子はどうしてこんな気持ちの悪いものを愛でるのか、自分たちの育て方が間違ってしまったのか、と。
その父親の様子は、リンチを後々まで深く悲しませることになった。
村田沙耶香の「コンビニ人間」にも、同じような少女が出てくる。
公園で死んでいた小鳥を焼き鳥にして食べようという少女のアイデアは残酷で、狂気じみていると人々から怖がられる。
でもスーパーの鶏肉と公園のスズメの何が違うのか、少女にはその違いが分からない。
整合性が取れないのは当然だ。
それは社会が定めた不文律に過ぎないから。
「〇〇ということにする」という無言のルールでこの社会は埋め尽くされている。
私を含む世の中の多くの人々は、ものごとのありのままを見ることは耐えがたいから、人間世界の幻想を生きる。
自らを社会化することによって、多くの矛盾を丸呑みし、なるたけ罪悪感を感じないで済むように無意識化し、「まっとうな」人間としてつつがなく生きる。
子供向けの絵本からして人間のご都合主義そのものなので、末っ子に読み聞かせをしていても、人間にとってあまりに都合の良すぎる解釈に、時々これでいいんだろうかと思いながら読んでいる時がある。
こうした体験を通じて、ほんの2、3歳から大抵の人間はしっかりと社会化されていく。
ランティモスやリンチや村田のような「気まずい真実を口にする者」には、おそらくものごとがよりありていに見えている。
多分、好むと好まざるに関わらず、そのように見えてしまう。
彼らはそのことによって、ずいぶん人から嫌われたり、勝手に悲しまれたり、引かれたりしてきたことだろう。
世界と折り合いをつけるのが難しいそんな人々にとって、評価が逆転するのは主に創作においてということになる。
ほとんどの人が囚われて見えなくなっているが、この世界に確かに含まれているものを、優れたアートの形にして世界に差し出すことで、世界はびっくりして賞賛する。
彼らにとっては、ある意味「単なる現実」なのだけど。
彼らの作品には、一見禍々しいものやみじめなものや盲信や狂気が出てくる。
しかし彼らは、世界の闇の部分を偏愛し、拡大して悪意を撒き散らしているのではない。
人々が目を逸らし、ないものとして扱っているが、本当は「あるもの」を、彼らなりの純粋な好奇心と誠実さで、出来るだけありありと再現しようとしているだけ。
本作でも、あらゆる歪んだ人間性や珍妙な性質を持つ人たちのオンパレードなのに、登場人物を批判したり指摘するまなざしは、不思議なほど見当たらない。
そこにあるのは人間という存在の複雑さと途方もなさに対する驚嘆と、純粋な好奇心だけだ。
逆に一見いかにもまっとうで誠実そうに見える人々が、一皮むけばどれだけしょうもないか、彼らもまた歪んでいるし珍妙なのかについては、皮肉な笑いを込めてしっかりと描かれている。
無垢なアイコンとして理想化された人物は、この映画の中には存在しない。
この作品を見て、冷笑や露悪と正直さを混同してはいけないんだなと改めて思った。
「美しく心地良く前向きであるかどうか」という単純さだけで、脊髄反射的にネガティブ性をまるっと排除することは、自省から目を背け、ものごとの本質を見誤ることにも繋がる。
むしろ、私にとってはある種の前向きさと冷笑はコインの表裏のように思える。
自分の意思の力でポジティブにフォーカスするか、ネガティブにフォーカスするかの違いだけのように思える。
ものごとを時に力技で歪めてでも、なんとしても自分の見たいように世界を見ようとする点においては同じとも言える。
もちろん、見たいように見るを悪いことだとは思わない。
生きるにあたってどうありたいかはその人の自由でしかないし、第一そうでもしなきゃ、やってらんないよとも思う。
ただ、えてして人は、自分の見えている世界こそが絶対に正しいと思い込んで、自分の見方を否定されたら怒って相手をこらしめようとする。
だから、世界には揉め事がどうしても尽きないのだけど、自分の見えている世界が絶対ではないということに自覚的であることで、少しでも世界の攻撃性を減らせるといいねとは思う。
こういう映画は、そのような自覚を促すものだと思う。
物語の主役では全然ないのに、各話のタイトルには「R.M.F」という男のイニシャルが冠されている。
R.M.F. は地味で無口な薄毛小太りの中年男性で、一言もセリフはなく、終始なんの主体性も発揮しない。
彼自身は何の落ち度も自分の意思もないままに、物語の中で他人の思惑で殺されたり、生き返らさせたりしている。
一体、 R.M.F. とは何なのだろう。
映画は、 R.M.F. が街中のキッチンカーの軒先で、サンドイッチを頬張るシーンで終わっていく。
さっき霊能力者に生き返らされたばかりというすさまじい体験をしてきた人とは思えない凡庸さで、 R.M.F. はパンにかぶりついている。
笑える。
翻って思う。
日常の中ですれ違うだけの名前も知らない人たちが、さっき生き返った人ではないとどうして私に言い切れるだろう?
人間て途方もない。
てんでバラバラでまったく収拾がつかない。
人間ほど怖く、情けなく、突拍子がなく、ひたむきで、分かり得ない生き物はいない。
人間存在そのものがどんなホラーよりもホラーで、どんなコメディよりもコメディだ。
なんて面白いんだろう。