最近、近所のパン屋さんで働いている娘氏が、バイト先の職人のオーナー夫妻に何か分からないことを尋ねるなどすると、たびたび「イラっとするような、引くようなリアクション」をされて、だんだん萎縮してしまうようになった、としょんぼり話すようになった。
私は「そうかーそうだよねえ」と言うばかり。
そう、我ら『灰色の天然』なのだよね。
私も娘氏が今受けているようなリアクションを人からされることが多い人生だったので想像がついてしまう。
それをあんまり克服することもできないまま、自分を疎んじたり異物として引き気味に扱うような人たちからはしょんぼりと背を向け、自分を受け入れてくれる人たちに助けられながら何とか小さく生きていく方向でやってきたクチだから、適切なアドバイスなんて、なかなかできない。
でも、今17歳の娘氏に、自分が自分であることを否定するような、罪悪感や劣等感をこじらせた私のような暗い青春は送ってもらいたくはないなあ、と思う。
なので、今更ながら、このことについてちゃんと考えてみなくては、と思った。
子供の頃から、大人に質問をすると、怒りをあらわにされて面食らうことがよくあった。
素朴な疑問を口にしただけなのに、相手から怒りや、侮蔑の感情を乗せた思いがけないほど強い反応が返ってくる。
そのたびに驚き傷つき、謎すぎるので対処のしようもなく、やがて大人に怯え、大人を憎むようになっていった。
とりわけ、学校の先生との関係は、長く尾を引くトラウマになった。
不良でもなんでもない地味な生徒だったのに、私はなぜか先生に全然好かれない子供だった。
授業中、目立たぬよう下を向いて存在を消していても、なぜか彼らは放っておいてはくれなかった。
(母親になって、上の息子氏の幼稚園のおばあちゃん園長先生に嫌われた時にはまじか、でもやっぱりか!と思った)
バイト先や職場の先輩や同僚、クラスメイトの中にも、大抵そういう人はいた。
思えば私の人生っていつの時代も、どんなグループや組織に所属しようと、このパターンでうまく行かないという人が必ず一人は現れて、やもするといじめられっぽくなるってことが高い確率で起こってきたなあと思う。
それゆえ、群れに所属すること自体が苦痛に思われ、最初から諦めて背を向けるようになっていった。
もちろん、全員に好かれる人はいないし、人から嫌われるようなことは、誰の人生にも起こる。
だから、私が弱い、と言われてしまえばその通りではあるんだけど、やはり改めて考えてみると、私が対人関係に感じる怖さの大部分が「自分が無防備にフラットに話した・あるいはただいるだけで、自分の何かが相手の気に障り、唐突な敵意を向けられる」という経験に、あまりに集中している気は、する。
基本は自分は人をイラつかせる、ずれた人間なんだ、と諦めてやってきた。
そりゃあ自己肯定感も低い仕上がりになろうというものだ。
でも、おかげでそんな私をひとつも引かずに受け止めちゃんと応答してくれる、もの好きな人に出会ったなら、感謝して大切にし、そんな人たちは皆人間的に尊敬できる人ばかりなので、彼らと一緒にいる人生は今、私にとって狭くともそれなりに良きものになったとも思う。
それでも正直に言って、基本的に今も自分はどこかに雇われて働ける自信はほぼない。
もちろん状況に応じて必要ならだめになるまで頑張って勤めるのみだが、いつも挫折感と共に去る、という繰り返しの人生。
「灰色の天然」とは、俳人の穂村弘さんのエッセイにあった、ある種の人々の特性を絶妙に説明した単語である。
私たちは、灰色の天然について書かれた穂村さんの文章を読んだ時、「残念ながら我が家は揃いも揃って灰色の天然なんだと認めざるを得ないね!」と半ばやけっぱち気味に盛り上がった。
天然には二種類あると穂村さんは言う。
「白い天然」は、罪のない、微笑ましい可愛い天然さん。
「灰色の天然」は、言われた人を微妙な気分に陥れてしまう、残念な天然である。
いずれも「天然」とは、一般的な人とは気にするポイント、気がつくポイントが異なる人のことを指すと思われる。
そして天然本人には、一般的な観点からみて独特だったり、瑣末なことだったりする彼らなりのこだわりポイントへの重要度が、あまりに自明なものと感じられている。
それゆえ、なにかと会話が通りづらい。
それにしてもなぜ、おしなべて白い天然は好かれ、灰色の天然は疎まれるのか。
思うに、白い天然は、オリジナルで独自の発想なのである。愛すべきトンチンカン。
で、灰色の天然とは、多分、特別でもオリジナルでもなく、本質的思考なのである。
例えば、目に見えている表象の一段深い層での共通性や法則みたいなものを見出そうとする、考え方のパターンというか癖のようなもの。
あるいは微に入り細にわたる観察や、答えの出ない問いへの探究心。
本質にしか興味がないタイプの人たちは、どんなジャンルであっても、それとこれとを結びつけたり、切り離したり、ものごとの共通項や普遍性や因果関係を見出すことに面白みや快感を感じるので、いつもそういう理路で物事を考えがちである。
これが、そうでない人たちにとっては意味不明だし、心底どうでもいいし、面倒くさい。
「白い天然」の突拍子のない発想に人は虚を突かれ、それは容易に笑いに転化する。あまりに変化球な発想ゆえ、誰もおびやかされることがないからだ。
「灰色の天然」は、そんな愉快な存在ではない。
灰色の天然の投げかける素朴な疑問や考えは、ある種の受け手にとっては、時に容赦のない指摘であり、今考えたくもないような複雑で答えのない問題であり、効率のために採用された便宜的な型や思考停止的なあり方に根本から疑義を呈する気まずいものだったりする。
そう考えると、自分がなぜ学校の先生に嫌がられてきたのかも、だいぶ分かるような気がする。
教師は指導要綱や教科書に基づいてカリキュラムを把握・準備しており、それによって安定した指導的な立ち位置にいる。
しかし私はおそらく、教科書の枠組みから外れたことばかりを選択的に投げかける、先生を居心地の悪い気分にさせる生徒だったのだろうと思う。
「教科書の範囲内のことなら何でも聞いてね」という構えの人に、いちいちそこから外れたことばかりを聞いていたんだろうよと思う。
先生方からすれば、悪意か嫌がらせか?というくらいだったかもしれない。
灰色の天然が気になることは、大抵教科書に書いてあることの外側にしかないからだ。
頭ごなしに怒ったりしないで「先生も分からないから次までに調べておくよ」と言ってくれるような先生は、少なくとも当時私の通っていた公立学校にはいなかった。
「先生なのに知らない、分からない」は、あってはならない、という社会的な圧もおそらくあったろうと思う。
そもそも、この国には「無知は恥」という価値観が根強くある。
でも、全部知ってる人なんていないし、無知は単に今まで知る機会がなかったということで、必要なら新たに知ればいいだけのことなのだけど。
つまり、私は質問することによって「先生たちに恥をかかせていた」ということになる。一貫してそんな意図はなかったが。
しかし、先生にとっては、おそらくそれは子供らしく反抗したり口ごたえすることなんかより、よほど腹に据えかねることだったのだ。
だからこそ、彼らはほんの子供の私に向かって、あれほどあからさまな敵意を見せたのだろう。
娘氏が中学校に行かなくなって、週に何回かフリースクールに行っていた頃に、そこの先生にこういうことを言われたのを覚えている。
「娘さんに一次方程式を教えようとしたら、まず『一次方程式の一次って何ですか』と聞いてくる。
そういうお子さんなんですよ。
だから高校までの学校の学習は正直向いていないように思います。
むしろ大学の勉強は向いているのでしょうけれどね」
いつも親切なその先生は、心から懸念しているという雰囲気だった。
例によって私は鈍いので、その時は「はあーそうなんですかー」と相づちを打っていたのだが、しばらく後で考えると、おいおい色々めちゃくちゃだなと思う。
でも、まさにそういうことを先生に聞いちゃうのが「灰色の天然」なのだ。
相手が想定している範囲の外を常に切り込むゆえ「え、そこ?」って突っ込まれがちな灰色の天然。
数学によらず、人はいろんなことを「とりあえず〇〇ということにしておく」という処理の仕方や単純化でもって、便宜的に仕分け済みの箱に入れているものだ。
それは世間的には、おおむね賢く、軋轢の少ない、要領の良い生き方とされている。
示された決まりがあるのだから、そのルール下で全て運用すればいいのだ。
それ以外のことやそれ以上のことを考えることは無駄だし、要らぬ混乱を呼ぶことになる。
ましてやルールの前提を疑うようなことは、冒涜であり、反逆だ。
で、灰色の天然の根底にあるスピリットとは「Question authority」だから。
当然相容れないのだ。
そして、むやみに悩んだり考え続けることを好まない人は、普通にたくさんいる。当然である。
自分がなぜこう感じているのか、そこには何があるのか、この現象って何なのか、そういうことをどこまでもどこまでも考えていくみたいな人間は、やっぱり少数派になると思う。
そんなめんどくさいボールこっちに投げてこないでくれる?って言われてしまう。
灰色の天然が「ここが大事なポイントだし、面白いよね」と投げかけたものが、非天然にとっては、不快なもの、回りくどい攻撃や押し付けられた厄介ごとのように受け取られてしまうという、ディスコミュニケーションの構造を、娘氏は(そして今更だけど私も)理解しておく必要がある。
基本は、タイプが全然違うということだけで、どっちが正しいという話ではない。
ただ、灰色の天然がマイノリティーであることは多分確実で、どんな分野においてもマジョリティーは、自分たちの正当性を疑わない、という構図は変わらない。
この齟齬は、簡単に解決なんてできないから、まずは自覚しておくことが第一の対処になるのだろうと思う。
その上で、似た者同士だけで閉じてつるまずに、非天然なワールドもそれなりに楽しめるように、各種工夫をして、娘氏が世界を楽しく広げられたら私もハッピーだ。
それにしても、つらい齟齬ではある。
でも誰もが互いに補完しあって存在しているのだ、と胸を張りたいものである。
できればより平和な共存の道を模索したいなあと思うから、これからも折々考えたい。
(って、ほんと考えるのが趣味なのねえと自分でも呆れるが)